後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中国は何故共産党独裁国家になったか?・・・分かり易く言うと3つの原因があった

2010年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

中国と日本は3回戦争をし、現在は経済的な結び付きで一見平和を保っています。

清朝が存続していた時代の日清戦争、袁世凱が国民党総統をしていた時代の第一次大戦中の遼東半島と青島への侵入、蒋介石が国民党総統をしていた時代の日中戦争の3回です。蒋介石の国民党軍の第八路軍は毛沢東率いる共産党軍から編成されていました。

清朝から現在にいたる中国の政権抗争は複雑怪奇で、日本人には理解出来ない事が多いのです。そこで日本の学校では辛亥革命による清朝の終焉までしか教えません。その後のことは簡略化して教えています。

その後、何故共産党独裁国家になったかを考えています。その大きな原因を以下の3つに限定してみました。解答ではありません。皆様への問題提起です。ご意見を頂ければ嬉しく思います。

(1)1912年に辛亥革命が成功し中華民国が南京を首都として発足し、孫文が初代臨時総統になりました。しかし北京を統一するために北京の大軍閥の袁世凱へ総統の席を渡してしまいます。袁世凱は古い軍閥で、その後、国内混乱が続きます。その混乱は蒋介石が政権を取る1928年まで続きます。

袁世凱へ総統の席を渡したのは失敗でした。孫文がそれに気付き、国民党がもう一度政権を取るためにソ連の共産党の強力な支援を受けたのです。そして国民党と中国共産党の協力関係を作ったのです。

1917年に、レーニンは共産革命を起こし、ロマノフ王朝のニコライ皇帝を追放し、全国を統一したのです。孫文がそれを手本にして共産革命へ心が傾いていったのも自然なことです。

分かり易く言えば孫文は国民党の生みの親ですが、同時に中国共産党の創立の貢献者でもあったのです。ですから孫文は台湾の国民党からも北京の共産党からも最大の英雄として現在も崇められているのです。

(2)第二次大戦末期と戦後の1949年までは中国国民党共産党は国内で戦争を繰り広げ、政権を武力で奪取しようとします。

その間、ソ連は中国の共産党側へ膨大な武器援助をしました。一方のアメリカは日本占領ととヨーロッパの経済復興に全力をあげていて、中国の国民党を見殺しにしてしまったのです。アメリカの中国大陸政策の失敗が、その後の沖縄基地の強化へと連続するのです。

(3)1989年、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が共産党独裁から議会制民主主義の導入をしました。しかし1989年に北京で起きた天安門事件のとき鄧小平は戦車を繰りだして弾圧し、共産党独裁を確立します。鄧小平がソ連の崩壊でポーランドやバルチック3国が独立したのを知って、チベットやウイグル族や内モンゴルが独立するのを恐れたのです。経済活動だけは資本主義に変え、政治はあくまでも共産党独裁の国作りを完成したのが鄧小平です。

如何でしょうか?隣の国の歴史を自分の考えで整理しました。

その結果を正しいと主張するつもりは毛頭ありません。問題提起としてご紹介して見ました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

下に私が好きな孫文と蒋介石の写真をWikipedeaからお借りして掲載します。

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ネットのご縁は人生を豊かにしてくれます

2010年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ネットがご縁で知り合った方と、秋風のなかのセイリングを楽しみました。彼は小型ヨットを持っていてセイリング技術は完璧です。

その上、今日は沖ですれ違ったクルーザーへ手を振って、挨拶したら、「貴方のブログを見て居ますよ!」という大声が返ってきました。船の名前が見えなかったので何方か分かりません。すぐ写真を撮りました。下の写真を、沖でお会いした方へお贈りしますので、メールアドレスを記入してコメントを送って下さい。

今日のセイリングも秋風が程良くて、6から7ノットで快走しました。変わりばえのしない写真ですが、下に示します。

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人々へ感謝しつつ死んで行く(3)職業の世界で助けてくれた方々

2010年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

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私は東京の大岡山にある工業大学で一番長い間働いていました。その職場の方々には非常にお世話になりました。大切にして貰いました。私の出身大学は仙台にありましたが、同窓のように先輩も後輩も助けてくれます。その工業大学では皆が紳士で、静かな人々でした。当時の卒業生の幾人かとは現在もお付き合いをしています。大岡山で私を助けて下さった全ての方々へ深く、深く感謝しています。

職業の上でお世話になった方々は数多く、感謝の気持ちを書きだしたら数千ページにもなります。しかし散々迷った末に東京の本郷にある大学のMT教授のことだけを書くことにしました。それは運命的な出会いでした。不思議な縁でした。

1961年、オハイオ州立大学に留学中にMT教授が視察に来たのです。見送りに行った飛行場でいきなり、自分が日本での就職を世話してあげるから本郷に帰って来なさいと言うのです。将来の仕事場が決まっていなかった私にとっては嬉しい限りでした。自宅へご招待し、妻が手料理を出したのも楽しかったと言ってくれます。

その年の秋に、Ph.Dを取得後、本郷のMT教授の研究室へ帰って来たのです。それから丸4年間とても大切にして頂き、助教授にもしてくれました。その上、名古屋の大学と東京の大岡山の大学の就職口を探してくれて、どちらでも好きな方へと言ってくれたのです。妻が東京育ちなので結局、名古屋へは行きませんでした。

MT教授はある学会の中心的な人です。大岡山へ移ってからも私を引き立ててくれます。学会の論文賞や功労賞などを下さいました。中国やドイツへとの会議へ何度も連れて行ってくれました。お正月には毎年、妻と一緒にMT先生の自宅へ招んでくれます。このMT先生と私は弟子ではありません。全くの他人なのです。遇然、オハイオ州で1961年にお会いしただけのご縁でした。

そのMT先生も昨年、肺の病気で静かに旅立ちました。しばらくして落ち着いた頃、柿の木坂を登ったMT先生の自宅を妻とともに訪問しました。奥様が一人元気にお住まいでした。家内も奥様に随分と大切にして貰い、一緒に外国へ行ったり、ピアノ演奏会へ行ったりしました。そんな思い出話をして楽しい時間を過ごすことが出来ました。そんな様子を天国からMT先生が笑顔で見て下さっているようです。

私は生前のMT先生のお姿を想像しながら静かにしていました。

人生には不思議なことがあると心底から思っています。

皆様にもきっと同じようがご経験があると思います。

今日は、そのような恩人と、助けてくれた全ての方々へ感謝し、ご冥福を心からお祈り申し上げます。藤山杜人


チリーの鉱山落盤事故の救出成功 おめでとう!!!

2010年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

最近の国際ニュースは尖閣居諸島問題など心を暗くするものが多かったですね。先程、始めての救出者が600mの地下から元気な姿を現わしました!

家族や仲間が喜んでいる映像ほど楽しいニュースはありません。久しぶりに明るい気持ちになりました。救出にいたるまでの多くの人々の協力と、地下に閉じ込められた33人の秩序正しい毎日の生活、そして、そのリーダーの立派さに感動していました。

人間は素晴らしいと感心しています。本当に良かったですね。この喜びを皆様と分かち合いたいと思い一筆したためました。有難う御座います。(終り)

下にWikipedeaの「チリ共和国」より風景写真をお借りしました。

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共産党独裁の中国・しかし中国人が大好きです(2)人情の深さに魅了される

2010年10月13日 | インポート

1981年、北京鋼鉄学院の劉学長たちが私一人を北京の彷膳飯店へ招待してくれました。親しい周栄章教授も一緒でしたので気楽な宴になります。食後、中国の近代史が話題になった時、私は共産主義の欠点を率直に話しました。劉学長は優しい微笑みを絶やさず熱心に私の話を聞きます。長い話を終えた時、彼はニコニコしながら、「人間の考える思想や主義には限界があるものです。貴方は中国人が好きなので言ってくれたのです」と、一瞬深い情に満ちた目になり、大きな溜め息をつきました。

私は、「結果論ですが、欧米の植民地主義を中国から追い出すには共産主義を選択せざるを得なかったと思います」と言いました。歴史の運命の歯車は個人の力ではどうする事も出来ないのです。しかしその話題はそこでお終いになりました。

彷膳飯店からの帰り道、送ってくれた周栄章教授が私の考えに賛同すると言います。中国人は欧米と日本の植民地主義でマカオ、香港、上海租界、青島、北京租界、満州、台湾と武力領有されて来たのです。

個人主義が徹底している砂粒のような中国人を団結させ、欧米と日本の植民地を中国から追い出すためには共産主義という強力なイデオロギーが必要だったのです。

私は中国が共産主義独裁国家になったことへ、現在でも深い同情を禁じ得ません。一国がどのような政治体制になるかという歴史的ないきさつを無視すべきではありません。民主主義を無理に押し付けようとするアメリカのやり方は内政干渉と思います。

我々日本人は人権を守り、民主主義を遵守することは正義と信じています。その正義のために戦争をしているアメリカを支持しています。しかし相手の国々の正義は別なのです。

中国の清朝後半から1949年の中華人民共和国が成立するまでの人々の塗炭の苦しみを忘れては中国人と円満に付き合えません。しかも日本も大きな苦しみを与えたのです。

中国の近代革命は1912年の辛亥革命です。孫文が初代臨時大統領になり清朝最後の皇帝、溥儀を追放し、中華民国という共和国が出来ます。その後、紆余曲折があり最終的には毛沢東が権力を握り、1949年に中華人民共和国が成立したのです。下に、1912年、中国が初めて作った欧米流の内閣の閣僚の写真をWikipedeaから転載します。

今日は皆様が中国の近代史へ深い同情をお持ちになるように、お祈り申し上げます。藤山杜人

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1912年の中華民国内閣初組閣時の記念写真:
後列左より 農林総長宋教仁・交通総長施肇基・陸軍総長段祺瑞・司法総長王寵恵・翰長魏宸祖
前列左より 教育総長蔡元培・商工総長代理王正廷・海軍総長劉冠雄・外務部総長代理胡惟徳・総理唐紹儀


もう一つの男の隠れ家、水の上・・・その昼と夜

2010年10月12日 | 写真

今日はヨットの整備へ行きました。エンジンの水冷の為のゴムパイプが老化して水が漏っていました。テープを巻いて、麻ひもで絞めつけて完全に止めました。しかし何時かは新品のゴムパイプに交換するつもりです。

修理後、キャビンでゆっくりコーヒーを淹れ、軽い昼食をとりました。このキャビンも私の隠れ家です。湖の上に浮いています。その昼と夜の風景をお送りいたします。

ご想像してお楽しみ下さい。実際は暑すぎたり、寒かったりで隠れ家も快適な時だけではありません。今日は秋風は気持ち良くて快適でした。

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山に作った男の隠れ家の風景

2010年10月12日 | 写真

私は昔から何故か「男の隠れ家」に憧れていました。子供の頃の木の上に作った巣の延長にあるのかも知れません。山の中に40年前の1974年、34才の時作りました。もう一つは22年前から霞ヶ浦に浮かぶクルーザーのキャビンを湖上の隠れ家としています。今日は甲斐駒や八ヶ岳の見える山の隠れ家の風景を写真でお送り致します。このような場所で良ければ近所の山林の中の土地を売りたがっている人がいます。ご希望の方はコメントにメールアドレスを記入の上、ご連絡下さい。個人情報の守秘義務は守ります。

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共産党独裁の中国・しかし中国人が大好きです(1)民主国家になれない中国

2010年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム

今年度のノーベル平和賞の受賞者、劉暁波さんは現在、犯罪人として中国、遼寧省の刑務所に居ます。共産党独裁を止め、選挙で政治家を決めるべきと主張したので刑務所へ送られたのです。国家転覆罪に問われ12年の懲役という判決でした。

私が尖閣諸島は中国へ渡すほうが良いとこのブログに書いても、日本では警察が来ません。個人がどのような意見を言っても自由なのです。日本国は、そんな事で転覆するような脆弱な国家ではないのです。アメリカには軍事秘密を敵国の人へ流せばスパイ罪になります。日本にはそのスパイ罪さえも無いのです。

これこそ平和で自由な民主国として誇りにして良いと思います。

チベットや中国西部のウイグル地区で独立のためのデモをし、鎮圧しようとする警察隊へ反抗すると国家転覆罪として重罪になるのです。日本では公務執行妨害罪になるいだけです。戦前の日本には「治安維持法」があり政府や軍部の方針へ反対すると特別高等警察が来て逮捕し、拷問にかけ、刑務所へ放り込んだのです。

現在の中国はそのような社会なのです。人権なんて無に等しいのです。欧米側はその事を充分理解していますが、日本人はその事を忘れ、気楽に中国政府と外交交渉をしています。日本の経営者はよく「敵を知り、己を知れば百戦危ふからず」という台詞を口にします。しかし政治家や外務省の役人がそれを実行しようとしません。

中国政府から、なにがしかの譲歩を引き出そうとする場合には、共産党独裁を支持し、人権問題を黙認すれば良いのです。まかり間違っても自由と民主主義の話をしてはいけないのです。

それでは中国が日本のような自由な民主国家になれる可能性はあるのでしょぅか?

それは皆様がお考えになる問題として将来に残る問題です。

しかし私見を申せば、中国が民主国家になるのは殆ど不可能です。国家転覆罪が無くなり、選挙で政治家を決める社会へ変わらなけれが不可能です。それを可能にする為には、中国人民が市民革命を起こし、共産党独裁を葬り去る必要があります。

それが出来ないのならアメリカが軍事的に中国を完全に占領して、強制的に民主国家にする方法もあります。

これからの数十年はどちらも非常に困難と思えます。しかし私は中国人が大好きです。この続編で何故かを書きます。続編の題目です:「共産党独裁の中国・しかし中国人が大好きです(2)独裁でやっと団結、その苦しみの歴史へ深い同情を!

我々日本人はそのような国を隣国として付き合って行く覚悟と知恵が必要なのです。皆様は中国とどのように付き合って行けば良いと思っていらっしゃるのでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


明日の掲載記事の予告:共産党独裁の中国・しかし中国人が大好きです(1)民主国家になれない中国

2010年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

明日の掲載記事の予告です。続編は、共産党独裁の中国・しかし中国人が大好きです(2)独裁国家の歴史へ深い同情を!・・・を明後日に掲載する予定です。

今回の尖閣諸島問題をより深く、歴史的な観点から冷静に考えたことを2つの連載記事として掲載予定です。皆様、どうぞ感情的な怒りを鎮めて静かにお読み頂きたいとお願い申し上げます。敬具、藤山杜人


昭和記念公園のコスモス畑の写真をお楽しみ下さい!

2010年10月11日 | 写真

今日は朝から快晴です。抜けるような青空の向こうに奥多摩の山並みが鮮明に見えます。昭和記念公園へ行ってコスモス畑の写真を撮ってきました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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日本の文化を楽しませてくれる地方の小さな酒蔵

2010年10月11日 | 写真

昔の甲州街道の台ケ原宿に江戸時代から続く小さな酒蔵があります。七賢という屋号です。台ケ原宿は甲府から西へ歩き、韮崎を過ぎ、武川村の先にある宿場町です。現在も旧甲州街道にそって江戸時代の宿場を偲ばせる家々が並んでいます。

地方の酒蔵を訪問すると、ああ、これが日本の文化なのだと楽しい気分になります。そのせいで私はよくこの七賢に来ます。山小屋から車で15分くらいの所にあります。近所に祝い事などがある時に贈答用に地酒の一升瓶を買います。山小屋のある地方の文化を東京の人へ伝えるようで、少しばかり誇らしい気分です。

その七賢の向かい側に和菓子の老舗があります。明治から続く金精軒という店です。信玄餅というお菓子を始めて作ったということです。この店にも必ず寄ります。丁寧に作った和菓子はどれも美味です。2階がギャラリーになっていてその地方に住む人々の作品の展示会を開いています。下に写真を示します。

このような日本の文化を感じさせる酒蔵は全国にあります。私達の旅の日々を楽しくしてくれます。皆様の住んでいらっしゃる所にはどのような酒蔵がおありでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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京都の静寂・・・それを写す玲さんの日本画の世界

2010年10月10日 | 写真

このブログの左サイドバーに推薦するブログの項目があり、その中に玲さんのブログが御座います。父上が水戸の市長をつとめた名家のお嬢様です。写真がお上手なだけでなく、社交ダンスもプロ級です。何をしても才能がある才色兼美の方です。最近、京都旅行をされて美しい写真をブログへ掲載していらっしゃいます。写真ですが、どれも一幅の日本画のようです。写している方の心の静寂が写真の向こうに見えるような素晴らしい写真です。先日、転載のお願いをして、お許しを頂いたのでご紹介いたします。京都の静寂をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。http://blog.goo.ne.jp/koiredawa をクリックすると、もっと沢山の写真が御座います。

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人々へ感謝しつつ死んで行く(2)キリストの周りで会った人々への感謝

2010年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム

人間が74年も生きていると、実に数多くの人々に会い、親切にして貰い、支えてもらって来た事に気が付きます。全ての人々へ頭を垂れて感謝しています。

その事を書き続けるシリーズ記事の第二回は何を書くか随分迷います。家族。学校の先生や友人達。仕事の上での恩人。趣味の生活で大変お世話になった方々。近所の人々。そして宗教に関して私をそれとなく導いてくれた人々。その上、最近始めたネット生活で深くお付き合いをしてくれた方々。

みんな、みんな、私は同じくらい深く感謝しています。感謝の大きさ、深さはみんな同じなのです。等しいのです。ですからこそ書く順序に迷います。迷い、まよい、そして書き出します。ですからどうぞ順序にこだわり無くお読み頂けますようにお願い申し上げます。

さて今日は日曜日です。そこでキリスト教の関連でお会いした方々への感謝を書きたいと思います。私に個人的に会ってくれて、私を大切にしてくれた人々です。主任司祭様や神父様、牧師様のことは今まで何度も書いて来ましたの割愛いたします。

心に残る3人を選びました。気楽にお読みください。

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(1)ドイツのローテンブルグで会ったインド人のフェルナンデス君のこと・・・

それは1969年の夏から秋にかけてたった3ケ月間だけのお付き合いでした。毎週日曜日に私を誘ってカトリックの教会へ行ってくれました。ドイツ語のミサなので理解出来ません。ミサ後、一緒に昼食をたべました。メニューはチキンの半分をオーブンで焼いたものとパンとスープでした。彼は細身で小柄なインド青年でした。英語で会話をしました。しかしキリスト教のことは一切説明しません。ただニコニコと笑って食事をするだけです。何も話しませんでしたが彼が私を非常に大切に思ってくれている事が分かります。かれの優しくて穏やかな笑顔を見て私は決心したのです。来年帰国したら日本で洗礼を受ける決心をしたのです。

(2)神田、ニコライ堂で会った金田一豊さんのこと・・・

宗教で一番注意しないければならない事は狂信しないことと思っています。ですから私は仏教も勉強しますし、キリスト教の他の宗派の教会も広く訪問しています。色々な神父様、牧師様とお会いしましたが、ニコライ堂で偶然お会いした伝道師の金田一豊さんの事が忘れられません。

ロシア正教の影響を深く受けた日本正教会の本部教会はニコライ堂です。その歌ミサの藝術的美しさに惹かれて見物に行ったのです。昨年の11月の事でした。初対面の私を昔からの幼馴染のように大切にしてくれました。かれは聖職者ですからミサの最中は他の聖職者と一緒に祭壇の上に立っています。それが途中で祭壇を下りて、私のそばに来て、「どうですか?違和感を感じませんか?」と聞いてくれたのです。それも3回もです。カトリックの私が正教会のミサへ自然に溶け込んでいるか気をつかってくれたのです。正教会もカトリックも同じイエス様を拝んでいるので私は大らかな気分で歌ミサを存分に楽しみました。一緒に御祈りもしました。

ニコライ堂のことは、宗教に少しでも関心があったらニコライ堂の日曜礼拝を一度は見て下さい という記事にしました。

(3)ネットで知り合ったオカブさんの事・・・

このブログの左サイドバーに推薦したいブログとして「昼のガスパール」というブログがあります。それを書いているのがオカブさんです。ヨーロッパ文化を愛し、ウィーンに何度もいっている方です。ある時、下北沢の喫茶店で会いました。そして彼の行っている世田谷教会の礼拝へ誘ってくれたのです。数週間後に三軒茶屋駅そばの世田谷教会の礼拝に出席しました。彼はその独立採算のプロテスタン教会の運営の責任者の一人でした。牧師さんへも紹介してくれました。オルガンを弾いている奥様も紹介してくれました。オカブさんは宗派の違う私を非常に大切にして下さったのです。そして他の宗派の教会を訪問することを薦めてくれました。そのお陰で小金井市内のメノナイト系の貫井南町教会の牧師様や日本キリスト教団の小金井教会の牧師様にもお会いし、親しくお話を聞くことが出来ました。どちらの牧師さんも初対面の私をとても大切に思ってくれたのです。

以上の文章の中に「私を大切にしてくれた」という表現が何度も出て来ました。そのことで、皆様は下手な文章だとお思いになったことと存じます。実はこの大切に思われた体験こそが、私にとって「イエス様に愛されている」という体験と同じなのです。イエス様の愛は神父様を通してだけ感じるのではありません。何気なくお会いした方々を通して感じることが出来るのです。そういう事を私に感じさせた全ての人々へ感謝しているのです。ここでは3人の例だけを書いたのです。

今日はこの文章を読んで下さった皆様を心から大切もおもいます。そして、

皆様の周りに貴方を大切に思ってくれる人が多いことを心からお祈り申し上げます。藤山杜人

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世界遺産、ドイツ騎士団修道院と航空母艦の艦隊の写真をお楽しみ下さい!

2010年10月09日 | 写真

今日は一日雨なので暇にまかせてWikipedea を、いろいろな項目で開いて遊んでいました。「ドイツ騎士団」の項目に現在ポーランドに残っている世界遺産のマリエンブルグ修道院の写真がありました。

一方、「アフガニスタン戦争」の項目ではアフガニスタン沖の洋上を航海中の航空母艦とその護衛艦からなる大きな艦隊の写真がありました。NATO軍事同盟の5つの国の艦艇で編成された艦隊です。2001年9月11日の同時多発テロの直後にアメリカとNATO軍がアフガニスタンへ侵攻したときの支援艦隊です。

ドイツ騎士団は13世紀に始まった武力集団でカトリックを異教徒から守り、バルト海沿岸の異教徒の土地を占領して後のプロイセンやケーニッヒベルグ、そして現在のカリングラードと呼ばれるキリスト教の国を作ったのです。

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一方、航空母艦艦隊は自由と民主主義陣営をイスラムのテロ攻撃から守る正義の戦なのです。どちらも正義の戦いという意味で似ています。800年たっても人間はあまり変わりません。そんな事を考えながら写真の美しさを楽しみました。皆様もお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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山里に自生するコスモスの花々の写真をお楽しみ下さい!

2010年10月09日 | 写真

山梨県の甲斐駒や八ヶ岳の麓を車で散策しながら、自然に生えて花を咲かせているコスモスの写真を撮ってきました。9月27日の曇り日でした。秋の淋しさが漂っていました。そんな風情をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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