後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武田一族興亡の地をめぐる旅(6)武田勝頼の敗北、武田家の断絶

2010年10月09日 | インポート

武田信玄は徳川家康や織田信長と覇を競う大型戦国大名でした。しかし、1573年上洛の途中で病没し、勝頼が家督を継ぎ、武田家20代目になりました。

しかし、徳川・織田連合軍は、信玄の死で勢いつき、甲州攻撃を本格的に始めたのです。それに加えて勝頼は人望がなく戦いの戦略も稚拙でした。その結果信玄時代の有力な武将がつぎつぎと敵方へ寝返って行ったのです。天正10年、1582年には徳川・織田連合軍が甲州に攻め込み、勝頼は敗走します。甲府盆地から逃げ出し天目山を越えて大月の岩殿城の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、小山田氏の謀反によって天目山を越えられずその麓で追手に追いつかれ惨殺されたのです。次から次へと部下の武将の謀反にあい失意のうちに悲しい最後を遂げたのです。武田家450年の歴史の終焉でした。享年37歳でした。そのお墓は天目山の麓の景徳院という山寺にあります。侘びしい粗末な墓石です。しかし悲しい最期を遂げた勝頼を哀れんで近所の人々が花を絶やさないそうです。先月の28日に撮った写真を示します。写真の下にはWikipedeaの「武田勝頼」の項目の一部を参考資料として付け加えておきます。勝頼の悲しい運命が書いてあります。(この記事をもって、「武田一族興亡の地をめぐる旅」シリーズを終了致します。有難う御座いました。)

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====武田家滅亡のいきさつ・・・Wikipedeaの武田勝頼から抜粋=====

天正9年(1581年)、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが(高天神城の戦い)、もはや勝頼には後詰することが出来なかった。高天神城落城は武田家の威信を大きく下げることとなり、国人衆は大きく動揺した。これを境に織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。

勝頼は、近い将来攻め込んでくるであろう織田・徳川連合軍への備えのため、躑躅ヶ崎館より強固な韮崎の地に新府城を築城して防備を固めるとともに、武田軍団の再編成を目指した。しかし、そのために膨大な軍資金を支配下の国人衆に課すことになり、皮肉にも却って国人衆の造反を招く結果となった。なお国人衆の反発は勝頼の中央集権化を目指した政策に原因があるとする意見もある。

天正10年(1582年)2月には、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返る。勝頼は外戚の義昌の反逆に激怒し、即座に木曾討伐の軍勢を送り出した。しかし雪に阻まれ進軍は困難を極め、地理に詳しい木曽軍に翻弄された。その間に織田信忠が伊奈方面から、金森長近飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻してくる(武田征伐)。

これに対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て甲斐に敗走し、信濃伊那城においては織田軍が迫ってくると城主・下条信氏が家老によって追放され、織田軍を自ら迎え入れてしまった。信濃松尾城主の小笠原信嶺、駿河田中城主の依田信蕃らも織田・徳川連合軍の侵攻を前に戦わずして降伏する。さらに武田一族の重鎮である穴山信君までも勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓った。これにより武田氏に属する国人衆は大きく動揺する。

この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、疑心暗鬼に苛まれた将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては次々と逃げ出したのである。唯一、抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。また母の実家である諏訪家の一門諏訪頼豊は「勝頼から冷遇されていた」と言われているにも関わらず、武田征伐に乗じて諏訪家再興をしようとする家臣の意見を聞かずに鳥居峠の戦いで戦死している。

同年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。甲斐国の有力国人で一門衆の小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、勝頼を受け入れることを表明した。勝頼が選んだのは武田家の本領である甲斐国人・小山田信茂の居城である岩殿城であった(注:小山田氏の居城は谷村城で、岩殿城は小山田領内の武田家直轄の城であるという説もある)。しかし、信茂は織田信長に投降することに方針を変換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。

しかし、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。享年37。これによって、450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡。勝頼父子の首級は京都に送られ一条大路の辻で梟首された。

後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。

江戸以降に再興する武田家は勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜である。


人々へ感謝しつつ死んで行く(1)妻への感謝

2010年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム

70歳を過ぎてから私は自分の死に方を考えるようになりました。病気は天命なので神様へお任せです。しかし死に至るまでの精神状態は自分で作りあげる事が出来ます。

4年間考えてこうして書いて公表できる境地にいたりました。それは私にかかわって下さった人々へ感謝し、その事を時々文章に書くことです。それは楽しい作業です。感謝しながら死んで行くのが最良の精神状態という確信にいたったのです。この世に し残したことも 恨みに思うことも一切ありません。ですから死んでも幽霊にならないのです。恨みをもって死ぬと幽霊になるらしいです。

現在、74歳ですが、もし20歳代で死ぬような運命に見舞われたとしてもこの境地になれれれば幸せに死んで行けたと思います。今回から数回にわたっていろいろな人への感謝の文章を書く予定です。

始めに妻への感謝を書くのはあまりにも月並です。随分躊躇しましたが、素直な気持ちになるとこれが一番始めになります。両親や祖父母への感謝もいずれ書きますが、一緒に住んだ年数が妻のほうが圧倒的に長いのです。もう50年になります。

良い家庭を作ってくれた。子供を育ててくれた。料理が上手だった。いつも夫へ優しく接してくれた。などなどをクドクド書き出していたら皆様に笑われてしまいます。

そこでたった一つだけ感謝の理由を書いて終りに致します。それは言葉が綺麗なことです。敬語と丁寧語を使い分け、何時も優雅に話します。声が特に良い訳ではありませんが、東京流のアクセントで歌うように話します。私が感心するだけでなく多くの人がそのことを褒めるのです。

歳老いて、容姿は衰えましたが、声と言葉だけは昔のままです。私は脳溢血になったわけでもないのですが、最近、ろれつが回らなくなり言語不明瞭です。それに比較すると老妻の発音の美しさには毎日感心しています。

それを褒めると源氏物語の一節を原文のまま朗読してくれます。これは勘弁です。意味が解らない上に、私には興味の無い講釈のおまけが付くのです。困ったものです。

それにしても下らない妻の自慢話は止めにします。しかし妻に感謝しつつ死ねる自分の幸運に深く感動しています。このような精神状態を臨終の時まで持ちたいと願っています。下は妻が大好きだった桜の花の写真です。春になると、毎年数回も見に行った小金井公園の桜です。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

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野川のほとりの小さくて、地味な花々の写真をお楽しみ下さい

2010年10月08日 | 写真

さわやかな秋風に誘われて、野川のほとりを2時間程散策し、足元の小さな花々の写真を丁寧に撮って来ました。家内と弁当を持っていって木陰のベンチで食べて来ました。地味な花々ですが目を凝らしてジッと見つめていると美しさが分かります。野川とは普通名詞でなく、国分寺市を水源にして、小金井市、調布市を流れ下り、多摩川へ合流する小さな川の固有名詞です。一番上の写真が野川の風景です。

小さな花々の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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日本人の領土問題への理解が浅さ過ぎる!・・・感情的過ぎる!

2010年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

バルチック3国のリトワニアとポーランドに囲まれたカリーニングラードはロシア本国から孤立したロシア領の飛び地です。バルト海に開けた重要なロシア海軍の基地のあるところです。その歴史を検索してお読みになると領有権が色々な国へ移動したことが分かります。カリーニングの歴史を知るとヨーロッパ人の領土に対する激しい抗争のいきさつが分かります。下にWikipedeaから借りた現在の風景写真を示します。

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このロシアのカリーニング州は1255年からドイツの騎士団が領有する国で、19世紀にプロイセン王国が出来てから、1946年まではドイツ領でした。ケーニッヒベルグと呼ばれていました。第一次大戦後、周囲がポーランド領になり、ケーニッヒベルグはドイツの飛び地になったのです。下に当時の風景写真をWikipedeaのカリーニングラードの項目からお借りして示します。

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国家間で領土の領有権を争う場合、感情論だけでは解決しません。軍事力占領の他に、文化的支配と経済的支配など種々の支配方法があるのです。感情論だけで、形式的な領有権を主張して日本の領土と思い込み、自己満足するのが日本的なやりかたです。その考え方はどうもヨーロッパ人と随分と違うようです。

ヨーロッパ人は軍事占領はかりそめの領有権。そして経済的支配と文化的支配が完成したときに固有の領土権が確立すると考えているようです。かねがね、そう思っていましたら、昨夜偶然にもBBCのバルチック3国とロシアの飛び地のカリーニング州の観光・紀行番組をテレビで見ました。観光番組として作られたので美しい町並みやのどかな海岸風景が半分です。しかし、バルチック3国とカリーニング州の何処に行っても、その地方の固有の領土権は何処にあるかという問題を探る旅行記でもあるのです。町で会った多くの人にインタビューをしています。領土権が何処にあるかを直接聞いたりはしません。貴方はソ連の文化が好きでしたか?自分の国の文化はロシアとは違いますか?ソ連時代には生活は良かったですか?などどさり気なく聞くのです。この町の美しい建物はどれですか?というような質問に混ぜて聞くのです。本音の答えが返ってきます。

この番組の結論を言います。ソ連はバルチック3国を軍事占領し、経済的支配をしていたが、文化的支配に失敗した。従って独立した。一方、カリーニングラードは軍事占領、経済支配、そして文化支配も完成しているのでロシアの固有の領地になってしまった。BBCのこのテレビ番組を見ると視聴者がおのずとそのように考えるような編集になっているのです。ドイツ領だったケーニッヒベルクは人類の歴史から消えて無くなったのです。

中国はチベットの文化的支配に成功していません。日本は尖閣諸島の巡視艇による防衛には成功しましたが、住民が居ないので、完全な領有権の主張が弱いのです。一方北方4島はロシアがカリーニングラードと同じような政策を取り出しました。日本はその意味を軽く考え過ぎています。日本の大臣が北海道から国後島を見に行くなどという行為は無駄な事です。選挙民の感情へ訴えるだけです。

このように冷静に考えてみると領土問題で感情的になる必要が無いことがお分かり頂けると思います。国家とは何でしょう?その領土から遠方に住んでいる人間にとって、そんなに重要なものでしょうか? 人間とは何処から来て、何処へ行くのでしょうか?昨夜見たBBCのテレビ番組はそのような事を考えさせる観光番組だったのです。

日本のテレビの観光番組に領土問題を考えさせる内容が織り込まれていません。美味しいものの情報が多すぎます。何故か日本の将来が心配になります。貴方は日本の将来が心配になりませんでしょうか?

今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


秋ですね。雲と水面の輝きの風景写真をお楽しみ下さい!

2010年10月07日 | 写真

今日は北東の秋風が霞が浦の水面を吹き抜けていました。強風ですが一定の方向と風速でした。一緒にセイリングをしたTSさんは小型ヨットのディンギーを10年以上しているので安心して舵をまかせました。快走です。メインセイル1枚で7・6ノットです。沖まで行って帰港しました。

TSさんは器用な方で、ヨットの修理を何でもしてくれます。先日はエンジンの致命的な不具合を直してくれましたが、今日はメインセイルを引っ張り上げるワイヤーとナイロンロープの繋ぎ目のほつれを完璧に直してくれました。実に頼りになる若い友人です。ネットのお陰で友人になった方です。

下に示した写真は今日撮って来た雲と水面の輝きの風景写真です。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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秋の花々の写真をお楽しみ下さい!

2010年10月07日 | 写真

最近はさわやかな秋風が吹いていて心地よい季節になりました。秋風に誘われて毎日、近所の散策に出るようになりました。足元を丁寧に見ると、秋の季節の小さな花々が咲いています。そのような花々を写真に撮りながら妻と散歩をしています。最近撮った写真をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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中国は外交戦で日本の優位に立っている・・敵を知り、己を知れば外交に勝つ

2010年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム

Images11 今回の尖閣諸島の問題で、中国は外交戦に勝ったと言われています。日本を経済的に痛めつけて、中国の面子を保ち、しかも尖閣諸島の固有の領土権を国際的に宣言したのです。日本は巡視艇の守りによってかろうじて実効支配の形をとり続けました。しかし日本人の常住していない離れ島は何時、中国側から占領されても抵抗も出来ない危うい状態です。

何故、外交戦で日本が敗れたのか?その理由は民主党政権が相手国、中国の外交上の強みと、日本の弱みを知っていなかったからです。

国際的に見ると中国政府は経済力という外交上の強みを持っています。まだまだ地方の農民は貧しくても、中国政府は多量のアメリカの国債を買い入れ、更にEUの赤字国、ギリシャの国債も買い始めました。これでは、中国がチベットやウイグル地域を占領していても、欧米諸国はあまり露骨な外交上の圧力をかけることが出来ません。

日本は己の弱み、すなわち負の遺産を忘れて外交を進めます。負の遺産とは日清戦争以来、日本が中国を侵略し、残虐行為を続けて来た事実です。中国人も我々と同じ人間ですからその怨念は決して忘れません。我々が原爆投下に対してアメリカを永久に許さないのと全く同じです。

日本と中国は友好平和条約を交わしたので過去は流せたと思うのが日本人の浅墓さです。表面的には水に流しても一旦緩急今回のような問題が起きると、中国政府は人民の日本へ対する怨念を最大限に利用するのです。従って中国は官民一致団結して日本と争います。この負の遺産は未来永劫に日本が背負わなければならない弱みです。政府と国民が一致団結すると外交的に非常に有利な戦いを進めることが出来るのです。

中国が負の遺産を上手に利用するのは日本へ対する場合だけではありません。清時代から中国はイギリス、ポルトガル、フランス、アメリカに租借地や租界を強制的に取られ、彼らの植民地主義の犠牲になってきた歴史を有しています。この歴史的事実によって、欧米諸国は中国へ対して莫大な負の遺産を持っていることになります。

同じように植民地支配の怨念を持っているのはアフリカ諸国です。アフリカ諸国と連帯感情を共有しやすいのです。従って中国はアフリカ諸国へ進出し、経済援助をしてきたのです。冷戦の間はソ連と欧米へ対抗するために、中国はアフリカ外交を推進して来ました。冷戦終了後はEUやNATO軍事同盟へ少しでも影響力を強めるために続けているのです。

冷戦が厳しかった頃に北京へ行きましたが、アフリカからの黒人留学生が北京の風紀を乱すと中国人が騒いでいるのを見聞したことが有ります。その時、中国政府はソ連がアフリカへ浸透しているのを防ぐためだと言って、アフリカからの留学生の受け入れを正当化していました。

このように中国の外交戦では、欧米諸国が嘗ての植民地国故に残した負の遺産を実に巧みに、そして有効に利用しているのです。そのような事を無視しがちな民主党政権を中国人は理解が浅いと冷ややかに見下し、組し易いと判断しています。中国政府のある幹部が「自民党のほうが理解の仕方が深い」と言ったのは彼等の本音です。

「敵を知り、己を知れば百戦危ふからず」とは中国人の考え方です。これは武力を用いた戦争だけでなく、外交戦でも同じなのです。民主党の政治家は理想論だけに目が行って、人間の負の情念を軽視し勝ちです。その結果、中国が外交上で日本の優位に立ってしまうのです。

皆様はどのようにお考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


北海道、空知川の秋景色の写真をお楽しみ下さい

2010年10月06日 | 写真

2010100612542557b1 北海道の富良野に住んで、ノルディック・ウオーーキングの指導をしている あとみんさんという方がいらっしゃいます。「富良野健康生活」(http://furano2008.blog95.fc2.com/)というブログを書いていらっしゃいます。北海道の悠然たる自然の美しさに溢れた写真を掲載しているので、時々お願いしてご紹介しています。今回は秋の空知川の風景がいかにも秋深しという風情なので2枚お借りしました。皆様にもお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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武田一族興亡の地をめぐる旅(5)信玄が長野から持ってきた善光寺

2010年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム

武田信玄は長野を占領するとすぐにその善光寺を甲府へ持ち帰ったのです。

お寺を武力で持ちかえるのは感心しませんが、戦国時代はそんな時代だったのです。

それにしても善光寺には面白い歴史があるので、簡略に書いてみます。

今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいました。 ある時、善光さんが都へ帰る国司について難波へ行ったそうです。ところが難波の堀の中から一光三尊の像を見つけました。それを拾い上げ、飯田へ持ち帰ったのです。 自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝きます。それで座光寺(善光寺)を作ったという伝説が残っています。推古天皇10年(603年)の事です。 

それから41年ほどして皇極天皇元年(644年)に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野、善光寺が出来ました。 

移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させました。そのような経緯から、座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになったのです。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると現在でも信じられています。 

さて現在、甲府市にも立派な本堂を誇る3つ目の善光寺があります。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約900年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものです。武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返しました。 

ご本尊は返しましたが、甲府の善光寺も現在に至るまで立派に存続しています。

三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。 善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。そのような経緯で出来た甲府の善光寺の写真を示します。9月28日に撮影しました。(続く)

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ハンガリーの苦しみの現実と夢の世界・・・「ドナウの四季」より

2010年10月06日 | インポート

ネットで知り合った方に盛田常夫さんという人が居ます。ハンガリーに何十年も住んでいます。東京で2度お会いし、ハンガリーが共産主義から資本主義に転換する苦しみの歴史を詳しくお聞きしました。それは何か地獄絵の様な感じを受けます。我々日本人の想像を絶する混乱と不幸な出来事が起きます。そのようなハンガリーの体制変換を理論的に考察し歴史学的な専門書にまとめ上げ一冊の本を出版しました。昨年の12月に日本評論社より出版された「ポスト社会主義の政治経済学」という題目の専門書です。

盛田さんはそのかたわらハンガリー在住の日本人のお世話もしながら「ドナウの四季」という季刊誌も出しています。その2010年秋季号に明るい記事が出ていました。ハンガリーで熱気球の世界大会が開催されるという記事です。日本から参加している加藤詩乃さんが書いている記事です。熱気球はロマンチックな夢の世界です。社会的な苦しみが続くハンガリーで開催されると知って何故かホッとしました。ああ、ハンガリーの人々にも夢を追うゆとりが出て来たと安堵しました。嬉しくなりました。そこで加藤さんの記事の冒頭部分を転載いたします。写真は「佐賀バルーンフェスタ」のWikipedeaの記事からお借りしました。「佐賀バルーンフェスタ」で検索すると熱気球の情報が詳しく出ています。熱気球、その夢の世界をお楽しみ下さい。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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ドナウの四季、2010年秋季号、No.8、「大空への挑戦」(準備編)加藤 詩乃

みなさん、こんにちは。ただいま、925日。名古屋からヘルシンキへ向かうフィンランド航空の機中です。これからヘルシンキを経由しブダペストへ向かいます。ハンガリー・デブレツェンで開催される熱気球世界選手権(102日~10日)に参加します。 今回、『ドナウの四季』にスペースをいただける事になり、スカイスポーツの一つである「熱気球競技」とその世界選手権について、「どぶ板」活動をご報告したいと思います。

~競 技~

 熱気球を実際にご覧になったことはなくても、映像や歌や写真などに「風まかせ」のロマンティックな乗り物として登場するので、皆さんご存知かと思います。空を風に乗って飛ぶ事を楽しむファンフライトや、長距離や山岳フライトなどのアドベンチャーフライト、そしてターゲットにいかに近づけるかを競う競技フライトなど、熱気球のフライトにも様々な種類があります。

 熱気球の大会は、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなど世界各地で開催され、日本でも佐賀をはじめ各地で行われています。これらのレースに出場している選手にとっては「競技」ですが、一般のお客さんからみると、季節の風物詩。色とりどりの熱気球が、空にふわりと浮かんでいる、鮮やかな美しい世界です。

 ここに紹介する写真は2006年にドバイで開催されたバルーンフェスティバル。そして、アジア最大規模(観客動員数では世界最大)の熱気球大会「佐賀バルーンフィエスタ」の写真です。今回、ハンガリー・デブレツェンには、120機もの熱気球が集まります。世界各地の国内予選を勝ち抜いてきたトップレベルのテクニックを持つパイロットが集まります。

 世界選手権では、「いかに正確に飛ぶか」を競います。熱気球のフライトは風まかせです。しかし、風は高さや時間の経過によって異なる方向に吹いています。その見えない風を各種データと経験から予想し風をとらえます。たとえば5キロ離れた距離から目標となる地点までフライトし、数センチメートルの単位まで寄せるといった、高い精度を競います。

 熱気球競技は、気球に乗るパイロットと、地上で支えるクルーのチームプレーです。ただ「スポーツ」というよりは、近年では各種計器や測定器・パソコン操作なども絡み、かなり複雑な頭脳プレーも混在したゲーム性の高い競技です。目標地点に向かって正確に飛ぶといった面ではゴルフを三次元競技にしたようなイメージ。そこにF1のようなチームでの役割分担が必要となる競技。そんなイメージでしょうか。

 日本選手はまだ世界選手権で優勝したことがありません。

~熱気球の歴史~1783年フランス・リヨン近郊で「モンゴルフィエ兄弟」による熱気球フライトが人類初となります。国土の広いヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアはじめ、各国で熱気球愛好家が活動しています。特に、ヨーロッパでは「貴族の遊び」として定着してきたとも聞いています。

 日本の熱気球の歴史は、1969年にはじまりました。第二次世界大戦が終わり、日本が経済成長に突入した1960年代、日本でもスカイスポーツへの関心が高まってきました。当時京都の学生だった「島本伸雄」、「梅棹エリオ」によって製作された手作り気球「イカロス5号」が日本初の熱気球として飛行に成功し、日本中を沸かせました。

梅棹エリオさんは今年ご逝去された梅棹忠夫先生のご子息です。当時の国内に熱気球のノウハウは皆無。暗中模索で熱気球の技術を探り、資金繰りに東奔西走しながら、1969927日「イカロス5号」の飛行を実現させました。このように日本の熱気球スポーツは、どちらかというと学生の活動からスタートし、やる気と情熱さえあれば誰でも参加できる世界です。

 それから40年。ヨーロッパなど各国からは大きく遅れをとったスタートでしたが、日本の熱気球の競技レベルもぐんぐん上がり、今回の世界選手権には日本人パイロットは7人と世界各国の中でも最多のレベルとなりました。天才的なフライトテクニックを持つ2世パイロットも誕生し、今回こそ日本選手の優勝をと意気込んでいる。・・・・以下省略


山梨県立文学館と樋口一葉関連の情熱的な展示、そして一葉記念館

2010年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

先日ご紹介しました山梨県立美術館の向かい側に広壮な文学館があります。明治、大正、昭和の文学者の直筆原稿や初版本などが作家ゆかりの机、文房具とともに展示してあります。

樋口一葉の両親が山梨県甲州市塩山の出身故に第一室にゆかりの品々が展示してあります。しかしその収集と展示には圧倒的な情熱が注がれています。そこで以下の紹介では他の文学者については省略して一葉だけについて書きます。

Higuchi_ichiyou1 一葉の作品は悲しく、美しく、人間の運命のはかなさが白黒写真に写したように描き出されているのです。しかしかすかな救いが暗示されているようです。読後に、輪廻転生を想い、自分で自分を慰めています。

この文学館には「たけくらべ」の始めの部分の朗読がイヤホーンで聞けるブースがあります。下の文章からはじまります。

たけくらべ:

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶの燈火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、・・・」に始まり、結末は「ある霜の朝水仙の作り花を格子門の外より差入れ置きし者のありけり。…信如がなにがしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。」

(博文館 明治38年15版、一葉全集(家内の蔵書、下に写真))より。

そのあらすじ:花街に育った少女美登利と僧侶の息子信如の淡い恋物語です。

勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ。 対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年である。美登利と信如は同じ学校に通っているが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまう。ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまう。 美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げる。だが信如はこれを受け取らず去って行く。美登利は悲しむが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞く。 その後美登利は寂しい毎日を送るが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思う。この日信如は僧侶の学校に入った。

=====下に9月28日に撮った文学館の写真を示します========

樋口 一葉(ひぐち いちよう):18725月2明治53月25 - 1896明治29年)11月23)は、日本小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去。『一葉日記』も高い評価を受けている。この1年2ケ月は奇蹟の14ケ月と呼ばれ、日本の近代文学の礎になる作品が生まれたのです。まさしく樋口一葉は薄幸の天才でした。

一葉記念館は彼女が住んでいた下町の住民が戦後に寄付を集めて作りあげました。そのHPを見るとまた泣けてきます。何故か、記念館を作った人々の切々たる気持ちが伝わってくるのです。http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/index.html を是非ご覧下さい。一番下の写真はこのHPから転載させて頂いた一葉記念館の夜景です。

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丹沢の東山麓の宮ケ瀬湖の秋景色をお楽しみ下さい!

2010年10月05日 | 写真

今朝は薄曇り。さわやかな秋風が吹いています。車を駆って1時間30分、丹沢の東山麓の宮ケ瀬湖の周辺を家内と一緒に散策して来ました。秋景色の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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老境こそ人生で最も幸せな時期・・・そうする為の3つの秘訣

2010年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

老年になると苦しい事や悲しいことも有るが、一生を通して考えると、一番、夫婦の生活が楽しい時期と思っています。家人もそう言っているので本当と思います。

理由はいろいろありますが、何と言っても子供を育て上げるという最大の義務を達成したことと、曲がりなりにも同じ男女が我慢しながらも添い遂げてきたという満足感が両方にあるからと思います。

一生独身で過したり、子供のいない人々も、事情は少し違いますが老年期が一番豊かな気分になり、幸せな時期ではないかとも信じています。

しかし夫婦のどちらかが病気だったり、早く旅立った方々へは深く同情を致します。そして、神様の慈しみが豊かにありますようにお祈りいたします。

老人の強みは色々な経験をしてきたので、もう何も恐れる事が無いのです。この境地が素晴らしい心の豊かさを与えるのです。

しかし、夫婦関係は何歳になっても危険なものです。そこで私共は色々考えて危機回避の手段をとっています。夫婦円満を保ち老後を幸せにするための秘訣です。

その秘訣を3つほどご紹介いたします。

(1)一時的に夫婦解散を実行します。

両方とも仕事が無く、暇なので四六時中一緒に同じ家にいます。それが危険なのです。そこで我が家ではよく朝ご飯の後で、「今日は夫婦解散!」と宣言して夕方まで別れて、それぞれの趣味を楽しみます。家人は源氏物語や現代文学の講読会を何十年もしています。私は近くの山やヨットへ行きます。夕方になり再び集合して夕食は一緒に食べます。「一時夫婦解散!」と大きな声で宣言すると気分的に本当に独立しますので、宣言することが秘訣です。

(2)お互いに明るいところでジロジロ見ない。

どんな美女でも老いれば見る影もありません。よく「腐っても鯛」と言いますが、容姿に関する限り通用しません。しかし美声と丁寧な言葉だけは不思議に若い時と変わりません。そこで明るいところではお互いにジロジロ見ないことが秘訣です。そして食堂に家人の若い時の写真を数枚飾って置き、それをチラチラ見ていれば本人も喜びます。

先日、琵琶湖のそばに住んでいるネット友の ちひろさんが、「私は声美人です。ですから職場では電話番をするようにしています」というコメントを頂きました。声美人は若い時は容姿も美形な筈と信じています。そういう風に信じることが老境を楽しく生きる一つの秘訣なのです。

(3)家事を分担する。

夫婦で家事をしてみるとお互いに得意なものと苦手なものがはっきりして来ます。例えば家の中の整理整頓は私の得意とするところです。家人は拭き掃除や細かいとこところの仕上げ掃除が得意です。料理でも私は揚げたり、炒めたり、圧力鍋を使うのが得意です。家人は野菜や肉を刻み、味を付けるのが上手です。その上、「甘酢あん」の味付けが絶妙です。ケチャップを隠し味にいれロマンチックな洋風の「甘酢あん」にしたり、中華風の香料を少し効かせて中華風の「甘酢あん」を作ります。もちろん和風の「甘酢あん」も作ります。この分野だけは脱帽です。真似が出来ません。一時。「鯉の丸揚げ」を作ることに凝っていた時期がありました。その頃は家人の絶妙な「甘酢あん」に何度も助けられました。

こんなつまらない事を書いて失礼いたしました。しかし人間が幸福になるためには「つまらない事」を大切にする事が重要なのです。それは若い時も老境でも同じ原理です。

皆様の心がけていらっしゃる秘訣をお教え頂ければ助かります。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。  藤山杜人

下に、昨年の10月に夫婦一緒に行った裏磐梯の五色沼の紅葉の写真をお送りいたします。今年も間もなく全国で紅葉が輝き始めす。(雨模様の裏磐梯、五色沼の紅葉の写真

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雨が降り、止み、そして又降って、次第に秋が深まりますね

2010年10月04日 | 写真

秋雨が冷たく降る季節になりました。そして足早に秋が深まって行きます。何故か淋しさを感じる季節です。そんな季節を感じさせる ちひろさんの写真をお送りいたします。出典は、http://blog.goo.ne.jp/hanafubuki33 です。

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カトマンズから見たヒマラヤの夕焼け風景をお楽しみ下さい

2010年10月04日 | 写真

ブログの楽しみ方の一つは外国の風景写真を自分のブログへ掲載する事です。勿論、写真を撮った方の転載許可を丁寧な文章で頂きます。そうするとその方へ友情を感じます。写真を慎重に選び、掲載順序を考えていると撮影者の気持ちがしみじみと分かってきます。

ここにご紹介する3枚のヒマラヤの写真はBYOOLというSNSのマイフレのSiomさんが昨年の晩秋に撮った写真です。カトマンズは政治が悪くて、停電と水不足、そして経済的困難で貧民が溢れています。其処に常駐して、働いているSiomさんがカトマンズの地上の現実に比較して、あまりにも美しいヒマラヤの姿に息を飲んで、見とれている様子が想像出来ます。

カトマンズには今年の5月に肺ガンで急逝した ひかるの さんが住んでいました。現地の人々に交じわり、停電や水不足の苦しい生活について克明な記事を沢山書いていました。そのひかるのさんもきっと喜んでくれると思い、以下に3枚の写真をお送りします。皆様もお楽しみ下さると嬉しく思います。出典は、http://www.byool.com/sns/menu/Relation?s_0_0_0_0_args1=211802610567010264 です。

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