おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

金沢城・兼六園。その2。

2018-04-18 21:29:38 | つかのまの旅人
                           「橋爪橋」を渡っていきます。


橋爪門
 橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられていました。文化5年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化6年(1809)に再建された姿を復元しています。

雁木坂」。 
                                          これはその一部の復元?
 このあたりには、橋爪門続櫓に接する雁木坂という石段がありました。橋爪門二の門を抜けると御番所と石垣台に仕切られた広場があり、そこから右手の雁木坂を登ると、石畳、そして二の丸御殿への玄関に至ります。

 階段になった坂を一般に「雁木坂」といいますが、もともとは木組みで造られていたのではないかと思います。東京・港区麻布に「雁木坂」と呼ばれる坂があります。
  木漏れ陽の下の急坂。
                (「都内の坂めぐり」より。2015・5・18撮影)

広大な空間「二の丸広場」に出ます。
                            向こうに見えるのは、「菱櫓」と「五十間長屋」。



                     
二の丸~金沢城の中枢~
 初期の金沢城は本丸を中心とした城作りが行われていたが、寛永8年(1631)の大火を機に中心は二の丸に移った。敷地を拡張し大規模な御殿が作られ、以後、城主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。
・・・二の丸御殿は、幾度となく姿を変えながらも幕末・維新期まで御殿としての機能を持ち続けていた。その後、陸軍の兵舎として利用されたが、明治14年(1881)の失火により惜しくも全焼した。
 現在金沢城内に二の丸の名残は見られないが、御殿正面玄関にあった唐門は場外へ移築され、現在は尾山神社の東神門(国登録有形文化財建造物)となっている。

跡は広大な空間になっています。

「二の丸」解説板。開館時間を過ぎていました。

周囲も薄暗くなってきて、そろそろホテルに戻ろうと思います。
                                      大きな楼台石垣が残っています。

「大手門口」から望む。  
                                                  「大手町」碑。

「大手堀」。

「博労町南」交差点。

「旅館すみよしや」。風情のある建物。

 百万石の城下町、金沢。
すみよしやは、この街で最も長い歴史を持つ旅館です。
けやきの一枚看板、ひと抱え以上もある松の梁などに往時を忍ぶ姿が見られます。
時代は移り変わっても、「ようこそ金沢へ、きてもってあんやとね,
なんもないけど いんぎらあーと していってたいね…」の心で、
これからもお宿一筋に努めてまいります。
どうぞ、ごゆっくりとおくつろぎください。
HPより)

                    「べんがら塗り」。

こちらは伝統を生かした家屋。

「近江町市場」にも立ち寄りましたが、この時間だとほとんど閉まっています。明日に期待。


落ち着いた街並み。

 ホテルにチェックインしたあと、しばらくして夕食へ。金沢はおいしい食事処が満載。さて? 事前に調べておいたお店に。
 

                  
                            「能加万菜 郷(のうかばんざい KYO)
 器が九谷焼、輪島塗、ガラス工芸と凝っています。特にガラス製の酒器は抜群。ゆっくりと能登のお酒、焼酎を飲みながら「おばんざい・おまかせ八寸」などをつまみ、仕上げには氷見うどん。
 若い男女がカウンターの中で手際よく食事をつくり、運び。店内には静かにジャズが流れる、シックでモダンな色調の落ち着いた雰囲気。けっこう満足しました。
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金沢城・兼六園。その1。

2018-04-17 23:00:51 | つかのまの旅人

 4月15日(日)。
 「新幹線」が金沢まで開通して以来、初めて金沢へ。前々からぜひ来て下さい、と。お祝いごとにかこつけて一泊二日で。上野から3時間余りの旅(「はくたか」は高崎から先は各駅停車。「かがやき」はもっと早く着きます。)に出かけました。

 会の終了後、駅近くのホテルまで送ってもらう車で途中下車。「金沢城」へ向かいました。その手前には、
「豪姫住居遺趾」。

 豪姫は1574年(天正2)加賀藩藩主前田利家とお松の方との四女として誕生したが、豊臣秀吉の養女となった。後に岡山城主宇喜多秀家に嫁ぎ、備前の方と称せられる。
 1600年(慶長5)、関ヶ原の合戦に破れた秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰る。三代藩主利常より1500石を与えられ、この辺りで居住したと文献は伝えている。
 1634年(寛永11)5月23日、豪姫はこの地で60年の生涯を閉じた。豪姫の人生の半分は両親ゆかりの金沢で過ごしたといってよい。

その奥にある建物。          
 



通りを挟んで立派な旧家。

黒門口」から城内へ。お堀。

枝垂れ桜。 

「金沢城跡」・「兼六園」の観光案内図。


                    

「近江町市場」、「武蔵が辻」方向を望む。

 城内に入った入ったとたん、芝生がびっしり敷き詰められた大きな広場が目に入ります。人の姿も見当たらず、ジョギングする青年、散歩中のお年寄り。・・・
 出会った方。「ここはすばらしいよ、朝夕、散歩に来ているんだ。すぐ裏手に住んでいるんですよ。お城の中よりもここの方がずっといいよ。」

「新丸広場」。しっとり濡れた芝生が気持ちいい。

                  
 二代藩主前田利長が跡を継いで間もない慶長4年(1599)頃に、新たに拡張された郭が新丸であるといわれる。
 新丸の東側は越後屋敷と呼ばれ、もともとは剣術の達人で重臣であった富田越後守重政の邸宅であったことが名前の由来となっている。江戸中期以降、参勤交代で江戸に滞在する藩主に代わって重臣たちが政務を行う場として利用されるようになった。西側には城内の建築工事などを司る作事所や、登城した藩士たちの食事を用意する下台所があり、いわば、新丸は城内の官庁街ともいうべき郭であった。
 新丸の西側には南北に伸びる水場があり大手堀へと繋がっていたが、現在は埋め立てられている。

「湿生園」。大きな白鷺がポツンとたたずむ。

「いつももっといるよ。今の時間、他はどこかに行ってるんだな。」

右手上には大きな城郭が見えます。

「河北門」へ。「一の門」。

 
ニラミ櫓台と太鼓塀
 一の門の右脇に設置された二十櫓が「ニラミ櫓」です。大手筋に「睨みを利かせる櫓」という意味でしょう。背後に見える二の丸の菱櫓(三重櫓)の偉容とあいまって、大手筋に威圧感を与えています。創建は17世紀前半とみられ、宝暦の大火(1759年)で焼失しあとは再建されず、櫓台の上に太鼓塀を巡らすだけとなりました。

豪華な城門「二の門」。

 「河北門」は「三の丸の正面」で、金沢城の実質的な正門に当たります。現存する「石川門」と「橋爪門」と共に「金沢三御門」と呼ばれていましたが、金沢城の建物の大半が消失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建され、明治15年頃に無くなるまで金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていました。
 約130年ぶりに蘇った河北門は、平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけて完成しました。復元にあたっては、現存する絵図、古写真、文献及び埋蔵文化財の調査結果を踏まえて、史実を尊重し、日本古来の伝統工法によって、戸室石による石垣積み、漆喰仕上げによる白壁、軸組をはじめとする木工事及び屋根鉛瓦など、構造、仕上げ部材の細部にわたり石川の匠の技が発揮されています。(以上「解説文」より)

門脇に設置された楼台から新丸広場を望む。

「二の門」の櫓部分(二階)から城内を望む。

         

石川門」。
 三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから石川門と呼ばれた。石川櫓は門の出入りと小立野方向を見渡す櫓でもあった。屋根は鉛瓦を葺いてある。
 国指定重要文化財である。
            「橋爪門」を望む。

「橋爪門」に向かう。
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旭川。自然の美しさと人間の営みの重さと。(その2。)

2016-04-27 20:59:28 | つかのまの旅人

 集会を終えて、長年お世話になっていた方のお墓参りに行きました。今度は北東の方向へ、やはり一時間弱。
 「愛別」。ここは、120年程前、愛知から入植し開墾したところです。
 この方もそうした入植者の子孫の方です。昨年亡くなられたのも知らず、人づてにお聞きして、当時、弔電一つ送らずじまいだった無礼をお詫びがてら、この機会にということで。

 お線香をあげたあと、その方の息子さんや親戚の方とあれこれ。

 「今はこうして平らの土地だが、周りの山くらいの高さがあったんだ。」
 「この前、俺があぜ道を歩いていたら、でっかい熊がのそのそ歩いてきたんで、びっくりしたよ。」

 冬眠明けの熊がえさを求めて山里まで下りてくるらしい。

 「愛知からは親類縁者を引き連れて入植した。」
 「原野を開墾してといったって、大木を切り倒して、上のところは売って、下の根っこのところを燃料にした。」
 「3年は無税で、その後は税金を払う。無理ならまた別の土地に移るというような条件だった。」

 愛知には遠い親戚が健在のようだ。

 「アイヌの人たちが石狩川の水辺に住んでいて(土地を追われたために)取った鮭を分けてもらったり、鮭の取り方を教わったりした。」
 「子供たちが草鞋ばき(温暖の地から来たため、防寒対策が不十分だった)を見て、鮭の皮で作った靴をもらったりした。まるで自給自足の生活だった。」

 昨日のことのように入植当時の熾烈な生活を語ってくれました。

 「故郷を出るとき、お坊さんを連れてきて、お寺を建てた」と。

 話題がTPPのことになり、

 「TPPが入ってきたらこのあたりは全滅だよ。アメリカじゃ種蒔きも刈り入れもヘリコプターなんか使って大がかりなやり方じゃないか。たちうちできっこないよ。」
 「今このあたりでも農地集約事業が始まったけれど・・・」
 「キノコ栽培もダメになって、結局売り払って自分はそこで従業員として働いている。」

 「前は14世帯あったけれど、今は10世帯になって。独居老人の家が増えた。」
 「お燈明もそのままロウソクに火を点けては消し忘れなどで危ないので、電池式のを勧めているよ。」

 「子どもたちには跡を継がせられないな。結局、札幌とか東京へ行ってしまう。」
 「土地を売るといっても二束三文だしね。」
 「東京のような大きな消費地が近くにない。出荷するには日持ちのしないものはダメだし、コストもかかるし・・・。お米も今はダメだね。」

 「ま、俺たちの代までは何とか頑張るけれどさ。」

 夕方近くなって一段と風の寒さも身にしみてきました。

 「冬は10度、20度くらいかな、それでも部屋の中は東京よりも暖かいよ。」この20度とはマイナス20度ということ。

 やっと寒く長い冬を終えてそろそろ暖かくなる時節。

 「今度は2月に来なさいよ。地吹雪はすごいよ。」と言いながらそれでも明るく笑う。

  石狩川。

    

                       
                     雪解け水を湛え、勢いよく流れる水辺には、フキノトウ。

 「旭川空港」への帰り。ちょっと食事を、ということで以前来たことのあるお店に立ち寄って、 食事のかたわら、地元のお酒、「男山」と「国士無双」を冷やで飲んだ。酔いの回りがいつもより早かった。

 「旭川にある大工場と言っても、日本製紙の旭川工場くらいだから。」

    
                           仙台市付近(帰りの機内から)。

 ところで、今朝、こんな記事が。

 旭川市で23日、毒草のイヌサフランをギョウジャニンニクと間違えて食べたとみられる男性(75)が死亡したが、上川管内では毒草による食中毒が過去10年間で2件発生している。山菜採りのシーズンを前に、旭川市保健所は「食用と確実に判断できないものは食べないで」と注意を呼び掛けている。
 上川管内では、2006年5月に美瑛町で9人、12年5月に旭川市で5人が、いずれも庭にあった毒草のスイセンをニラと間違えて食べ、食中毒を起こしている。
 道立衛生研究所(札幌)によると、イヌサフランの葉はギョウジャニンニクに形が似ており、数枚食べただけで死ぬこともある。・・・

 お気をつけて。
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旭川。自然の美しさと人間の営みの重さと。(その1。)

2016-04-26 22:40:55 | つかのまの旅人
  4月24日(日)。10年振りくらいに旭川に出かけました。お祝い事とお墓参りと。
 東京・羽田を出発するときは雨でしたが、旭川は初めのうちは雲が多い天気。が、夕方、帰る頃には雲一つない空模様。少し肌寒く感じましたが、お天気には恵まれました。
 飛行機からの画像。上の写真は、「十和田湖」。

その先は、「八甲田山系」。まだまだ雪に覆われています。

陸奥湾上空から青森方向。

その彼方には雪の岩木山。

    
   下北半島・大湊湾。                     函館・活火山の恵山(えさん)付近。

    
                              広大な大地。

 集会の開催まで時間があるというので、案内しますよ、と空港から向かいました。南東に進むこと、小一時間。「白金青い池」。

    
                      緑色の神秘的な池。

神秘的な魅力の青い池とその周辺
 青い池が青く見える理由
 上流の白金温泉地区で涌出している「白ひげの滝」などからアルミニウムを含んだ水が、美瑛川の河川水と混じることによりコロイドが生成されます。太陽光が水中のコロイド粒子と衝突し、波長の長い青い光が散乱するため、青く見えると言われています。


    
 けっこう観光客が訪れていました。水中には朽ちた太い樹木が横たわり、周囲には木立が。もともとは「十勝岳」の噴火対策で泥流対策のブロック堰堤を造成した結果、流れがせき止められて池になり、このような青い池になったようです。        
                

 その上流の「白ひげの滝」展望橋まで案内してもらいました。深くえぐれた谷筋。崖の上が温泉施設になっているのが残念! という感じ。

    


            
              雲の向こうには十勝岳が見えるはずでしたが。見えれば、絶景ですよ、と案内してくれた方。

 大自然の美しさを満喫して、集会の会場に向かいました。
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富士宮・狩宿の下馬桜。

2014-04-14 23:37:40 | つかのまの旅人
 法事があって出かけたところが富士宮の狩宿(白糸の滝の近所)。ちょうど「狩宿の下馬桜」が満開。この時期、「さくらまつり」も開かれ、大いに賑わっていました。法事後の会食の席がその狩宿。
 宴が始まるまでのつかの間、初めてこの曰く因縁のある桜を見に行きました。

 狩宿の下馬桜(かりやどのげばざくら)は、樹齢800年以上の日本最古級のヤマザクラで、学名はアカメシロバヤマザクラ。国の特別天然記念物に指定され、また日本五大桜にも指定されている、という。

写真上から(のこりの4つ)
・三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
・山高神代桜(山梨県北杜市)
・石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)
・根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市)
 ※このうち、狩宿の下馬桜のみ、「特別天然記念物」に指定されている。

 1193(建久3)年、源頼朝が富士山麓で巻狩りを行った際、馬から下りた所とされたことから「狩宿の下馬桜」と呼ばれるようになった。また下馬の際、桜に馬をつないだとも言われ、「駒止めの桜」という別名も。
 樹齢は800年を越え、かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木であった。しかし度重なる台風などの影響で、最盛期の姿はない。それでも、若木が出てきて薄い桜色(まさに)の淡い花を一面に咲かせていました。

下馬桜。

その下には、菜の花。取り合わせが春爛漫という雰囲気で、すてきです。

かつてのようす。幹周り8メートル以上、高さ35メートルという「偉容」を感じさせます。

説明板。
 最後に記された歌は、江戸幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜の詠んだ歌。

“ あわれその駒のみならず見る人の 心をつなぐ山桜かな ”


この桜はこの地の旧家である井出家の屋敷内にある。井出家は、頼朝が巻狩りを行ったときに泊まったとされる由緒あるお屋敷。
 
 
 ちょうど応募された短歌・俳句の表彰式が門前で行われていました。正面奥が「高麗門」と長屋。

 井出家に残されている門は高麗門と呼ばれるもので城の城門として使われる様式。


白壁。

 待てよ! たしかこの巻き狩りの時「曾我兄弟の仇討ち」という事件が起きたのではなかったか? そこで富士宮市のHPを開くと詳細に載っていました。以下引用。

 源頼朝は、今から811年前の建久4年(1193)5月に、白糸の狩宿に宿所を置き、多くの御家人を集めて現在の朝霧高原一帯で巻狩を催しました。
 その巻狩の最中に、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が父の敵工藤祐経を討った「曽我兄弟の仇討ち」といわれる事件が起きました。
 富士宮市内には、「富士の巻狩」と「曽我兄弟の仇討ち」に関係する伝説や地名が各所に残されています。これらを紹介しながら、この地域の歴史上もっとも有名な出来事を振り返ってみたいと思います。

1.富士の巻狩
 源頼朝は、建久4年(1193)に多くの御家人(将軍の家来)を集めて富士山の裾野で巻狩を行いました。この巻狩は建久4年5月8日から6月7日にかけて行われ、初めは現御殿場市から裾野市にかけての辺りで行い、源頼朝は5月15日に富士野の御旅館に入り、6月7日まで現在の上井出・原・内野・人穴・猪之頭を中心とする富士宮市北部一帯で巻狩を行いました。
 巻狩は単に狩猟を楽しむだけのものではなく、富士の裾野に諸国の御家人が集まり、将軍頼朝の前で勢子(鳥獣を追い出す人)の追い立てた獲物を馬に乗って弓で射る武術の訓練を目的とした催しで、大軍事演習といえるものでした。
 この武家集団による大規模な巻狩は、将軍頼朝を中心とした東国武士の力を京都の公家の人たちに認めさせるためだったと考えられています。それは、建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開き、武家政権を発展させていこうという頼朝の将軍としての実力を天下に示す機会ではなかったかと考えられています。

2.源頼朝の宿所 
【井出家周辺の地図】
 源頼朝が巻狩の時に宿所とした所が、現在の狩宿井出家及びその周辺だったと考えられています。近くには御家人の宿所も作られたようです。
 宿所の置かれた狩宿井出家の周辺は、西は芝川の深い谷となり、東は大沢崩れから流れてきた大石がごろごろする川原だったと考えられ、宿所を構えるために適した要害の地であったといえます。
 井出家居宅は安永5年(1776)に焼失し、さらに寛政9年(1797)再度焼失し現在地に再建されたといわれています。かつては、隣接する元屋敷といわれる所(現在は水田)に家があり、そこが頼朝の宿所の跡だと伝えられています。
 狩宿井出家の入り口に、狩宿の下馬ザクラといわれるアカメノヤマザクラの老木があります。巻狩のおりに、ここで頼朝が馬から下りた「下馬ザクラ」だとか、このサクラに頼朝が馬をつないだ「駒止のサクラ」だとかいわれています。また、頼朝が宿所の前に差した杖が根付いたものだとも伝承されています。

3.曽我兄弟の仇討ち
 巻狩は、現朝霧高原一帯で、御家人たちの武勇伝や失敗談など多くの話題を繰り広げながら進行していきました。そうしたおり建久4年5月28日の夜、降りしきる雨の中工藤祐経の宿所に押し入った曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟によって、工藤祐経と王藤内が殺戮されるという大事件が起きましした。いわゆる「曽我兄弟の仇討ち」といわれる事件です。
 仇討ちを果たした後、兄弟は騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、十郎祐成は新田四郎忠常に討たれ、五郎時致は女装した五郎丸によって捕らえられ翌日処刑されたといわれています。
 この地域の伝承として、音止の滝東側の工藤祐経の陣所が置かれたといわれる所には、祐経の墓があります。
 また、曽我八幡宮東の辺りに新田四郎忠常の陣所が置かれ、この近くで兄十郎祐成が討たれたといわれ、小高い丘の上に曽我兄弟の墓があります。

4.工藤祐経と曽我兄弟 
 工藤祐経は幼くして父を失い、その領地は従兄に当たる伊東祐親(曽我兄弟の祖父)が預かり、祐親は祐経から領地(伊東の荘)の実権を奪ってしまいました。祐経は、祐親の助けを受けて育ち、成人すると祐親の娘を妻として迎えました。やがて祐経は伊東の荘の正統な領主は自分であることに気付き、祐親に領地の返還を迫りましたが祐親がそれに応じませんでした。しかも、祐経は妻(祐親の娘)との仲も裂かれてしまった。
 そんなとき、安元2年(1176)10月に祐親が近隣の武士を集めて伊豆奥野で狩を催しました。その帰り道の祐親をねらって、祐経は家来の大見小藤太と八幡三郎に弓を射掛けさせました。矢は目指す祐親には当たらず、傍らにいた息子の河津三郎祐泰にあたり祐泰はその場で息絶えた。その時、祐泰には五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟がいました。
 祐泰の亡き後、妻満江御前は兄弟を連れて曽我太郎祐信の元へ再び嫁ぎました。曽我の荘で育った兄弟は、元服して兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗りました。

5.『曽我物語』の成立と広まり
 曽我兄弟の仇討ちは、巻狩に集まった多くの東国武士に鮮烈な印象を与えました。その東国武士の語る曽我兄弟の話が語り継がれ、それを『曽我物語』としてまとめたのは、箱根権現や伊豆山権現の僧であろうといわれています。
 その後十巻から成る真名本(漢字のみで表記)『曽我物語』が僧侶によって書写され、室町時代中ころになると仮名本(仮名交じり表記)が登場しました。
 『曽我物語』は、兄弟の不運な生涯と、その悲劇的な最期が民衆の間に共感を呼び、文学や芸能の分野でも盛んに取上げられ、次第に脚色されてきました。芸能分野では室町時代には能や浄瑠璃などで取上げられ数多くの作品が生まれました。
 江戸時代には歌舞伎の世界にも取上げられ、民衆の人気に支えられて次々と新しい趣向の作品が生み出されました。
 歌舞伎で「曽我物語」が盛んに上演されるようになると浮世絵にも描かれるようになり、数多くの「曽我物」と言われる物語絵・武者絵・役者絵等が出版されました。
HPより)

 少年時代、この話を絵本でも読み物でも見た記憶があります。しかし、たまたま居合わせた30代後半の息子・娘に聞いても全く知らない話だった! がっくり!

一面の菜の花畑。左奥が富士山。残念ながら雲に隠れていました。
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万葉公園。独歩の湯。(湯河原・箱根路。その1。)

2014-04-11 23:25:48 | つかのまの旅人
 春の風に誘われて、「湯河原」まで。一泊して翌日は、箱根。車での旅。湯河原温泉は、初めての地。温泉は、久々。
 何の事前の調べもなくやってきて、宿に着く前に、興味深い二つのところへ。

①万葉公園
朱塗りの橋をわたったところから始まる。「藤木川」と「千歳川」との合流付近。


 「千歳川」沿い。観光会館のところに車を駐めて、川沿いを上がって行きます。せせらぎの音と緑の散策道。

 ここは、万葉集で唯一、温泉を詠んだ、その歌の土地だそうです。

公園入口の説明板。

 足柄の/土肥の河内に/出づる湯の/世にもたよらに/子ろが言はなくに 万葉集・巻十四相聞・3368・詠み人知らず

 右の歌は東歌といい、総数230首。多くは相聞(恋歌)で、一部は比喩歌。相模の国の歌は15首。
 「足柄(あしがり)」は足柄(あしがら)の訛りで今の足柄上・下一帯の地。「土肥(とひ)」は湯河原の呼称で今も駅付近の地区名。「河内(かふち)」は川に沿う地域で万葉公園付近、千歳川と藤木川の合流辺。「たよらに」は揺れ動き不安定なさま。
「足柄の・・・出づる湯の」までが、温泉が噴き出して中空に揺れて消えてゆくさまを叙べて、「たよらに」を修飾する序詞。「子ろ」は上代の東国方言で娘子の意。・・・
 足柄の土肥の川辺に噴き出す温泉の湯煙、それが中空に漂い揺らぐように、あの娘は私との関係を不安げには言わなかったのに心配で、と漂い消えてゆく湯煙に託し揺れる男の恋心・・・


※「たよら」=揺れ動いて安定しないさま。いいかげんで定まらないさま。
※「なくに」=①…ないことだなあ。
       ②…ないことなのに。…ないのに。
       ③…ないのだから。…ない以上は。

 歌意は今ひとつすっきりきません。「たよらに」の解釈、湯煙なのか温泉そのものなのか、「世にも」と「言はなくに」とのつながり、・・・。

(例1)湧き出る温泉の(湯煙の)ように、心が揺れ動いているとは、あの娘はけっして言わないが、・・・
(例2)二人は、湧く温泉のように、絶えることはけっしてないとあの娘は言うのだけれども、・・・

 いずれにしても、不安な男心を詠った歌であることには違いないようですが。

 なお、説明板には相模の国の歌は15首とありますが、実は12首らしいです。

その一部

 ・相模嶺の小峯見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を音し泣くな
 ・我が背子を大和へ遣りて待つ慕す足柄山の杉の木の間か
 ・足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくもあやし
 ・百島足柄小舟歩き多み目こそ離かるらめ心は思へど
 ・あしがりの麻萬の子菅の菅枕あぜか纏まかさむ子ろせ手枕

「千歳川」の対岸は、静岡県熱海市。「千歳川」が神奈川県と静岡県との県境になっている。

所々に万葉集に輯録された歌とそれにちなんだ木々が植えられている。
 奥山の 八つ峰の椿 つばらかに 今日は暮らさね ますらをの伴 大伴家持
 天平勝宝2年(750)の旧暦3月3日の歌。越中の国守大伴の家持の館での上巳の宴。
 男たちよ、奥山にたくさん咲いている椿の花のように、今日一日、宴を大いに楽しんでください。


 残りたる雪に交じれる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも 大伴旅人
 残った雪にまじるように咲いている梅の花よ、雪が解けて消えても、そうすぐに散ってはいけない


 ぬばたまの夜ふけゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しばなく 山部赤人
注:「久木」=「あかめがしわ」のこと。

万葉集にちなんだ草花が植えられている。
 アザミ、アキノキリンソウ、リンドウ、アヤメ、ワレモコウ、ギボウシ、フクロウニンジン、・・・。
 
「国木田独歩碑文」。

 湯河原の渓谷に向かった時はさながら雲深く分け入る思があった

説明板。

②独歩の湯

 公園の一角にある「独歩の湯」足湯の設備。のんびりと効能を確かめながら足を温泉につける。



風呂桶の滝。
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藍綬褒章。ご隠居さん。高崎山。蘭。(あっという間の別府・大分。)

2013-05-07 20:21:35 | つかのまの旅人
 2年ぶりの大分・別府。かの名高い温泉に行ったわけではなく、長年、ある団体を通しておつきあい願っていた方が引退され、新しい方がその跡を継いだ、そのお祝いをするために出かけたら、それどころではなく、ご隠居さんが「藍綬褒章」。その話題で、持ちきり。新聞の地元版に写真入りで、でかでかと掲載されていた。
 この方、市会議員歴も長く、町会長、民生委員・児童委員、消防団の団長など、多彩な活動を行ってきた(とは噂で聞いていたが、本当だった!)。会えば、年に何回か、ため口どころか、こちらがえらいそうな口をたたく。実に恐れ多いことでした(とはまったく思ってもいませんが)。年の差は充分あるが、こちらの減らず口にも心優しく対応してくれ、ますますこちらも・・・。
 そこで、本来の目的はさっさと切り上げ、新旧交えて飲み会になってしまいました(理由はどうでもよく、気持ちよく飲めさえできれば)。
 まるで、「勲章」などに無縁(今までもこれからも一生)な小生。改めて、調べました。

 褒章(ほうしょう)とは、社会や公共の福祉、文化などに貢献した者を顕彰する日本の栄典の一つ。対象となる事績により、紅綬褒章、緑綬褒章、黄綬褒章、紫綬褒章、藍綬褒章、紺綬褒章の6種類がある、とのこと。
 褒章は天皇が授与する栄典! 法的には、戦前は大日本帝国憲法第15条の「其ノ他ノ榮典」であり、戦後は日本国憲法第7条7号に該当する国事行為。
 詳細は褒章条例(明治14年太政官布告第63号)により定められる。同条例1条によれば、紅綬褒章は「自己ノ危難ヲ顧ミス人命ノ救助ニ尽力シタル者」、緑綬褒章は「自ラ進デ社会ニ奉仕スル活動ニ従事シ徳行顕著ナル者」、黄綬褒章は「業務ニ精励シ衆民ノ模範タルベキ者」、紫綬褒章は「学術芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル者」、藍綬褒章は「教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠堤防橋梁ノ修築、田野ノ墾闢、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者又ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者」、紺綬褒章は「公益ノ為私財ヲ寄附シ功績顕著ナル者」にそれぞれ授与される、と。

 憲法第7条に基づく、天皇の国事行為!

 授与された褒章は、授与された本人に限り、終身これを着用することができる。褒章を着用するときは、左胸のあたりに着ける。ただし、授与された者が、懲役刑・禁錮刑・死刑に処された場合、褒章は没収され、褒章授与者としての地位は剥奪される。なお、褒章は独立行政法人である造幣局が製造している。
 なお、個人に授与される場合は、褒章(メダル)とともに褒章の記が授与される。褒状、褒章の記ともに、受章者・表彰者の氏名または名称、受章・表彰理由、授与・表彰の年月日と記号番号、天皇の名で授与・表彰する旨が記されて国璽がおされ、内閣総理大臣と内閣府賞勲局長が署名・押印する。日本の法令・行政上の扱いでは、褒章とは「○綬褒章」の名称をもつ褒章のみを指す。
 褒章の授与とともに、金銀木杯(賞杯)を授与することもある。特に、公益のために私財を寄附した者に授与される紺綬褒章を授与する場合には、あわせて授与される木杯の基準がその寄附額によって定められている。また、本条例によって表彰されるべき者が死亡したときは、金銀木杯または褒状をその遺族に授与し、これを遺族追賞という。
 既に褒章を授与されている者が再度同様の理由によって褒章を授与されるべきときは、その都度銀色の飾版のみを1個授与され、既に授与されている褒章の綬(リボン)に附加して標識とする。この飾版が5個(5回の受章)以上に達したときは、5個ごとに金色の飾版を1個と引き替える。
 紅綬褒章・緑綬褒章・黄綬褒章・紫綬褒章・藍綬褒章については、勲章と同様、毎年4月29日(昭和の日)及び11月3日(文化の日)に発令される。各回、約800名に授与され、それぞれ「春の褒章」「秋の褒章」、あわせて「春秋褒章」と呼ばれている。
 春秋褒章の授与は、衆議院議長、参議院議長、国立国会図書館長、最高裁判所長官、内閣総理大臣、各省大臣、会計検査院長、人事院総裁、宮内庁長官及び内閣府に置かれる外局の長が、候補者を内閣総理大臣に推薦して行う。内閣総理大臣は、推薦された候補者について審査を行い、褒章の授与について閣議の決定を求める。褒章の伝達は、「内閣総理大臣の命を受け、内閣府賞勲局長が所管大臣に伝達し、所管大臣が適宜受章者に伝達する。」と定められている。褒章の授与は、官報に掲載される。(以上、「Wikipedia」より)
 とまあ、仰々しいほどの権威付けがされています。即、褒章になるわけでなく、この方も、市長表彰、知事表彰、総理大臣表彰などここに来るまでにはそうしたものを何回も受けていたとのこと。その上で、ここにたどり着くというわけですね。

 そこで、「藍綬褒章(らんじゅほうしょう)」。
 
1881年(明治14)の太政官布告第63号「褒章条例」によって制定され、教育、衛生事業、学校・病院の建設、道路・橋梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖などに貢献した人に授与された。現在は、教育、医療、社会福祉、産業振興などの分野で公衆の利益を興した人、また、保護司、民生・児童委員、調停委員などの事務に尽力した人が対象となっている。範囲が広いため、毎回褒章の多くを占め、年間では約1000人が受賞している。◇英訳名:Medal with Blue Ribbon。
 ちなみに、褒章制度の根拠として明治14年に制定された「褒章条例」第一条では、藍綬褒章は次のように規定されている。

 教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠堤防橋梁ノ修築、田野ノ墾闢、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者又ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者ニ賜フモノトス
近年では、医師会や労働組合の代表を長年務めてきた者、民生委員・児童委員、国勢調査員、保護司、消防団の団長などが多く藍綬褒章を受賞している。

 実際、政財界の名士(?)への叙勲とは違って、保育園の園長さんや商店のおやじさんなどももらっている。主上が無名の民草を思いやっているぞ、という制度ですかね。
 いずれにしても、「天皇陛下の名において授与される」ということ。今回は、5月16日に伝達式が行われるということでした。モーニングか羽織袴ですかと聞いたら、略礼服でもいいそうだ、と。参列するための心構えや着付け、お祝いの電報の出し方・・・、微々入り、細に入りそのための業者の宣伝がインターネットにはありました。
 こうして、あれやこれや酒の肴に盛り上がり、しこたま飲みました。もちろん、お祝いされる人に飲み代は全部出してもらいました。ごちそうさまでした。これからもお元気で。平均寿命にあと1年余ですが、大幅に超えそうな勢い。
 この地でこの方の名を出せば警察も、自衛隊も、泣く子も黙るという権威者(と自称)。でも、最後に寄ったラーメン屋のおばさんは、まるで知らなかった! 今度は、晴れ舞台の東京でお会いしましょう。
 ご自宅に立ち寄ったら、地域の各界名士からは、お祝いの花束がたくさん。すてきな「らん」ばかりでした。これはちょっと「ラン」違い!

JR別府駅方向を望む。
アーケード街。このもの寂しさがいいですね。「SOL PASEO GINZA」。
駅前通りにあった看板。「タツノコプロ」「ENTERTAINMENT CITY BEPPU」。
はじめの写真は、「高崎山」。
 
 ま、出身高校に行けば、文化勲章を含めて、褒章・勲章となったら、東京の肉眼で見える星の数(チョッとおおげさですが)ほどいるでしょうが・・・。
 


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松山市立子規記念博物館。はがき歌。愚陀佛庵。「春や昔」。・・・。駆け足で松山・道後。その4。

2013-05-05 21:31:50 | つかのまの旅人
 今回のメインは、子規記念博物館。道後温泉駅から歩いて数分のところ。
掲示板。建物正面の門扉・飾り格子(細工物)が、俳諧雑誌「ホトトギス」の表紙を飾ったデザインを模したものとの解説がありました。
正面入り口。2階窓と扉に注目。「蔵」をイメージしたそうで、立派な建物です。
正面に大きな垂れ幕。「遠足の十人ばかり花の雨 子規」。
入ってすぐのところにある子規の「ブロンズ像」。
 館内は、写真撮影禁止。
 けれども、じっくり見ていると、時間の経つのを忘れてしまいそうなほど。子規(さらに漱石などゆかりの文人、高浜虚子などの多くの門人達の)句や絵画、生涯が展示され、活字と写真でしか見ていなかった多くの資料の現物(複製もあるようですが)を目にすることができ、改めて子規とその世界を心底、味わうことができました。
 道後・松山の歴史展示や「日露戦争と秋山兄弟」などの映像作品も、豊か。
 特に、「子規とベースボール」コーナーは興味深い。「野球」のぼーるを最初に用いた人物であるとか、ベースボールに熱中して結核を発病したとか・・・。話では知っていたことでもバットやユニホーム姿など展示で再確認。

・うちはつす球キヤツチヤーの手にありてベースを人のゆきかてにする (明治31年作)

ここだけは撮影可。愚陀佛庵(ぐだぶつあん)の一階部分の復元。
 この建物は、夏目漱石が愛媛県松山市に赴任していた時の下宿先。名称は、夏目漱石の俳号・愚陀佛に由来しています。当時の建物は太平洋戦争の戦災により焼失しました。1982年に萬翠荘(旧久松家別荘)の裏手に木造二階建ての建物として復元されていましたが、2010年7月に倒壊してしまいました。

 この建物は元々、松山市二番町にあった上野義方邸の離れである。1895年(明治28年)に夏目漱石が、英語教師として旧制松山中学校に赴任していた際に下宿として利用した。また、52日間に渡って俳人・正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これは後の漱石文学に影響を与えたと言われている。子規は、著書俳諧大要を残した。
 元の建物は戦災により焼失したが、1982年(昭和57年)に現在の地に復元された。松山城山腹で、周囲は深い森となっている。なお、当初の建物があった場所は現在(2009年現在)は繁華街の一角で、駐車場となっており、路傍に碑が設置されている。
 2010年7月12日、午前6時ころから短時間に大雨が降った影響で山腹の土砂が崩れ、愚陀仏庵が全壊した。現在、萬翠荘としては再建の意思があり、協力を呼びかけているが、計画は具体化していない。(以上、「Wikipedia」より引用。)
かつての「愚陀佛庵」。句会などが行われていたそうです。
復元された室内のようす。
 
 子規が亡くなる数時間前に書いた「絶句三句(複製)」なども展示されていました。

①糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
②痰一斗糸瓜の水も間にあはず
③をととひのへちまの水も取らざりき 

 これらの句にあやかって、子規の命日は、「へちま忌」という。明治35年9月19日死去。享年35歳。

 正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日(新暦:10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)で生まれました。翌年が明治元年ですから、子規の年齢は明治の年号と同じになります。本名を常規つねのり、幼名を升のぼるといい、父常尚つねなおは、松山藩士御馬廻番、母八重は藩校明教館教授大原観山の長女です。5歳のとき父を亡くした子規は、祖父大原観山の訓育を受け、叔父加藤拓かとうたくせん川(後外交官、松山市長)の影響を受けました。
自由民権運動に触発され、政治家をめざして明治16年に上京、第一高等中学校、帝国大学文科大学に進学します。しかし、22歳のときに喀血して「子規」と号したころから真剣に文学を志し、大学を中退して入社した日本新聞社で、俳句や短歌の革新を叫び、新体詩を試み、写生文をとなえました。明治28年からは脊椎カリエスの病苦にあえぎながらも、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表しつづけて、明治35年(1902年)9月19日に亡くなりました。
「写生」に根ざした子規の文学は、多くの仲間とともに子規山脈を形成し、近代文学史上に輝いています。(「子規記念博物館」HPより)
 記念館として俳句や短歌のコンクールを行っているようです。
「第18回はがき歌全国コンテスト」表彰式。
優秀賞。(どちらもHPより)
建物脇の子規の短歌。
「足なへの 病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば 子規」
「道後公園」入り口の子規と漱石の句碑。
「冬枯や鏡にうつる雲の影 子規」「半鐘と並んで高き冬木哉 漱石」。どうも漱石の句の方が分が悪い、と思うのは私だけか。
「子規堂」。伊予鉄「松山市」駅近く。子規が17歳で上京する迄住んでいた居宅の復元。帰りの飛行機までの時間がなくて、残念ながら、見学は省略。
JR松山駅前にある子規の大きな句碑。
「春や昔 十五万石の 城下哉」
《付》上京当時の仮寓の地。
隅田公園内。長命寺の桜もち「山本や」。
大学予備門在学中の頃。
・向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん
江戸時代のころの「山本や」。
「長命寺桜もち」。
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海に夕日が。漱石。「八幡浜風ちゃんぽん」。・・・。駆け足で松山・道後。その3。

2013-05-03 16:32:29 | つかのまの旅人
 革靴で石段を登ったので、けっこう疲れました。日頃の運動不足と膝の痛みも加わって・・・。地元の人が夕方の散歩で登ったり下りたりして、格好の運動コース。中には、高校生がダッシュで駆け上がり、駆け下りる。なかなかの気迫でした。
遙か向こう、雲の合間から夕日が海を照らしています。瀬戸内海・伊予灘。
くれなずむ眼下。
藤棚。ここは、サクラの名所でもあるようです。
がっしりとした石垣の上に木造の建物群。
 残念ながら開館時間を過ぎて中には入れず。外側をぐるりと。
天守の一部。入り組んだ中に落ち着いた雰囲気。
どの方向から見上げても「絵」になる。

 といっても、お城は居住だけの目的ではない。敵の侵入を防ぎ、撃退する建築物でもあります。したがって、頑丈な造り。
石垣の上に、堅牢な趣きを持つ。
攻めてくる敵軍を攻撃するための仕組みが随所に。そこから覗いたところ。
さてと下りましょうか。
下り道はスロープ。もう灯りが。
「登り石垣」。敵の侵入を防ぐため。

 帰りがけに。
「NTT」沿いにある漱石ゆかりの「松山中学校跡」の碑。「夏目漱石は明治27年、ここで英語を教えました。名作『坊っちゃん』は松山中学校を舞台にして書かれました。・・・」
漱石の一句。ユーカリの木の脇に。「わかるゝや一鳥啼て雲に入る 漱石」。
 夕飯には、例によって、「ラーメン」屋さんを探しましたが、見当たらず。しかたなくJR松山駅横の「喜多方ラーメン」のお店に。メニューにあった「八幡浜風ちゃんぽん」。一応「ご当地ラーメン」ということにしましたが・・・。そこで、本場のPRページより。

八幡浜ちゃんぽんとは?
 長崎などの麺文化を、八幡浜風に「ちゃんぽん」にして生まれた食べ物です。単なるご当地グルメを通り越して、八幡浜の「ソウルフード」として市民に愛され続けています。

八幡浜ちゃんぽんの歴史
 八幡浜市は、四国の西の玄関口と言われ、古くから九州や関西地方との海上交易が盛んで、商業都市「みなとまち八幡浜」として栄えてきました。
 八幡浜ちゃんぽんの誕生については、長崎・神戸・横浜をはじめとした全国各地のみなとまちにみられるように、本場中国の食文化が海を渡って伝わり、地元の食文化との融合の中で生まれたと言われています。現存する最も古い提供店は、昭和23年の創業です。

八幡浜ちゃんぽんの特徴
 長崎ちゃんぽんは、豚骨ベースで白濁した濃厚なスープであるのに対し、八幡浜ちゃんぽんは、鶏がら・鰹・昆布などでだしを取った黄金色のスープで、あっさり風味が特徴です。麺は太目の中華麺を使用するお店が多く、たっぷりの野菜に豚バラ肉、それに八幡浜の特産品である蒲鉾・じゃこ天など水産練り製品が具材として使われており、魚のまち八幡浜らしさを表現しています。

 現在、市内での提供店は、食堂やレストラン、カフェ、居酒屋、ホテル、お寿司屋など、50店を越えています。「ちゃんぽん」と「ライス」がセットになった通称「ちゃん定」(ちゃんぽん定食の略)をはじめ、エビやイカなど魚介類をふんだんに使った「特製ちゃんぽん」や玉子を入れた「ちゃん玉」など、お店によっては1ランク上のメニューもあります。
 いろいろ食べ比べていくと、ちゃんぽんの味だけでなく、お店の雰囲気や、八幡浜の生活風景なども楽しんでいただけると思います。
 
 ついでに写真も。




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松山城。よしあきくん。・・・。駆け足で松山・道後。その2。

2013-05-02 21:52:34 | つかのまの旅人
 松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸(二之丸史跡庭園)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城。別名を金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。
全体図。
「愛媛県県庁」の背後の山の上にお城があります(見上げるほどの高さ)。県庁の建物も重厚で歴史を感じさせる。
 そこで「県庁」。

1929(昭和4)年に本館が完成。1980年に別館が完成。そして、1982年に県議会議事堂に完成し、現在にいたる。
本館の工事費用はおおよそ100万円(当時)で、設計は木子七郎。老朽化により、1994年に洗い出し工法により、大修繕が行われました。
ドーム状の屋根(会議室がある)と左右対称が特徴。戦前は緑色で塗装されていました。帝冠様式とされるらしい。
2003年には、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケで本館が使用された、ということです。

 さて、登城するには? さっき改めてHPを見ると、次のような説明が。ルートは、5つあるそうです。

1.【ロープウェイ・リフト】ロープウェー街の東雲口ロープウェイ・リフトのりばより長者ヶ平へ、天守まで徒歩約10分(一般的なルートです。ロープウェイ・リフトからの眺めをお楽しみください。)
2.【徒歩】ロープウェー街東雲口登城道より徒歩約20~30分(一般的なルートで、スロープです。)
3.【徒歩】県庁裏登城道より徒歩20~30分(スロープです。登り石垣を見るならこのルートです。)
4.【徒歩】黒門口登城道より大手門跡まで徒歩20~30分(江戸時代ではこちらからが正規ルート。石段が多いです。)
5.【徒歩】古町口登城道より乾門まで徒歩20~30分、天守まで徒歩約3分(石段が多いです。天守の西側、乾門へ着きます。)
 
 そうとはつゆ知らず。結果的には、4のルートで登って、3のルートで下りてきたことに。
 午後4時過ぎ、駅前のホテルからお堀端に向かって歩き出し、お堀をぐるり。途中で横道にずれて賑やかなアーケード商店街(「銀天街」)に立ち寄って、
人通りも商店ももたくさん。
「松山市」駅側からの「銀天街」。老いも若きも・・・。

 そこから千舟通りに出ると、北の方角、緑濃き山の上を見上げると、お城が。では、行ってみるか。
 
 そこで県庁前に行き、その頃すでに時刻は、5時を回っていた(幸いにまだ陽は照っていましたが)。えい、そのまま登り始めた、という次第。上り坂の途中で道は右と左に。そこで、左に向かった(こちらの方が市街地を見下ろせるのでは、と思った)。
 実は、このルートは「二之丸史跡庭園」ルートでもありました。
「二之丸」の建物。
残念!本日はすでに閉園。
夕日を浴びて。
ここから上り坂。
「槻(けやき)門跡」。
庭園内のようす(上り坂の途中から)。
石段が続きます。
けっこうつづら折りの石段を上り、やっと天守の一角が見える頃には一汗。かつての登城道だった、とか。昔のお侍さんもけっこう大変だったらしい。
さすが見晴らしは抜群!
「よしあきくん」がお出迎え。
 「松山城築城400年祭を盛大に祝福すべく誕生した、松山城のマスコットキャラクターです。名前の「よしあきくん」は松山城の初代城主 加藤嘉明(よしあき)にちなんで名付けられました。お城山からいつも松山の地を温かく見守っています。」(観光「HP」より)
プロフィール。
ついでに、こちらがゆるキャラ知名度ナンバーワンの「ひこにゃん」。国宝・彦根城には何年か前に訪問済みです。
丸に三つ葉葵の紋。





  
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揺れて揺られて路面電車。坊っちゃん列車。・・・。駆け足で松山・道後。その1。

2013-05-01 22:50:59 | つかのまの旅人
 久々の四国・松山。今回は、行った日の夕方と帰りの午前中と半々で。もちろん、慌ただしく・・・。松山城。道後温泉。正岡子規。・・・ 市電に揺られて(ホントにすごい揺れでした。今の都電荒川線に比べて。)大人150円。JR松山駅前~道後温泉。道後温泉~松山市駅。松山市駅~JR松山駅前。JR松山駅~松山空港(これはリムジンバスで300円)しめて交通費750円。
電車は3種類。黄色い電車がメイン。
市内中心部の路線図。
ただし、400円で一日乗り放題というのがあるのを知らなかった。(写真は、伊予鉄のHPより)。
JR松山駅前。
松山市駅の「高島屋」。人の多さ、賑やかさは、JR松山駅の比ではありません。
「松山市」駅を出て、郊外に向かう「伊予鉄郡中線」。
「坊っちゃん列車」(松山市駅)。
「松山市駅前」から出て、繁華街を通過する「坊っちゃん列車」。
「子規堂」にあった「坊っちゃん列車」の車両。手前の像は、「坊っちゃん」の作者・夏目漱石さん。 
 乗り心地は、今、一つ。乗降の時の段差の大きさ。荷物を抱え、やっこらさ!という感じ。お年寄りの方も乗ってくる。そのたびに運転手が手を添えている、というのはけっこうですが。東京だとノンステップバスなどが多いが、市電の場合はそうもいかないのか。それでも、新型車両の導入を進めている(残念ながら古い木製の電車にしか乗れなかった)ので、そちらはノンステップ形式? 
 右に曲がり、左に曲がり、そのたびに大きく揺れ、音はうるさく、急ブレーキあり、がたがた道ありで、座席に座っている分には、けっこう「楽しめ」ます。でも、混雑時、立っていたら果たして? 地元の老人達、かえってこれで鍛えられているのかも知れない。
 郊外路線は、モダンな電車編成。「大手町」駅では、立体ならぬ平面交差があります。十字に線路が。電車が通る時は、遮断機が下りてきます。その他は、信号に合わせて待ったり、曲がったり・・・。
 自動車の「伊予の早曲がり」(右折優先)を期待していた? のですが、右折・左折の信号機表示のせいか、皆さん、マナーもよくて、そうした車も目にしない。「伊予の早曲がり」は、すでに「伝説」と化したしたのか?
「道後温泉駅」。ささやかな入れ替えのための車両基地。
「県庁前駅」を過ぎての大曲り。
 1日400円で乗り放題。観光客はもとより、市民の足としてすっかりなじんでいるようす。車道と分離された広い通りの中央に複線の線路。右折車などが線路に入っているときもあるが、その車も遠慮がちなのが、また、いい。
 観光と日常生活(平日は、そうそうきれい事では言ってられない、と思います)、その折り合いが難しいところ。
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さるぼぼ。ぼぼ。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その6。)

2013-04-27 22:01:16 | つかのまの旅人
 飛騨弁では、赤ちゃんのことを「ぼぼ」と言い、「さるぼぼ」は「猿の赤ん坊」という意味である。災いが去る(猿)、家内円(猿)満になるなど、縁起の良い物とされ、お守りとしても使われている。近年では、土産として飛騨地方の観光地で多く見られる。 よく見かける基本形は、赤い体に赤く丸い顔(目鼻口は省かれる)、赤い手足(指は省かれている)、黒い頭巾と黒い腹掛け(いわゆる「金太郎」)を纏い、座って足を前に投げ出しているか両足を広げ、両腕を上げて広げた(いわゆる万歳の)姿である。尚、全身に亘って色が赤いのは、赤は古くから悪霊祓い、疫病(とりわけ天然痘)除けの御利益があると見なされてきたからであるが、近年では赤以外に黄色や緑色などさまざまなカラーバリエーションが見かけられるようになった。(以上、「Wikipedia」より)
さまざまで、たくさん!「さるぼぼ」。

http://www.hidanavi.com/sarubobo.html飛騨高山観光ナビ・高山在住の「Hiro」さんのHPより

 さるぼぼとは、飛騨高山で生まれた郷土人形で、その昔子供が産まれたときの御守として、玩具の代わりに与えられたそうです。
おばあちゃんが子供や孫にこつこつ作ってあげたんですね~さるぼぼは子供たちの遊び道具として長く親しまれてきました。
「日本で一番古いぬいぐるみの原型」とも言われ、奈良時代に中国から伝わり、貴族の間で重宝されたようです。
またさるぼぼとは、飛騨高山の言葉で「猿の赤ん坊」という意味になります。赤い顔と体が猿の赤ん坊に似ていることが由来です。
「猿」という読みをかけて、「災いが”さる”」、「家庭”猿”満(かていえんまん)」、 「”猿”むすび(えんむすび)」など、厄除けや縁結び、女性の安産のお守りとしても、 さるぼぼは重宝されています。
 さるぼぼをお土産に!
 飛騨高山の「さるぼぼ」はお土産として観光客に有名です。僕も友人のためにお土産として買うことが多いです。「かわいい~」ってとても喜んでくれます (^^)
「さるぼぼ」の色は以前は赤だけでしたが、今ではイエロー、ブルー、ピンク、グリーンなど、とてもカラフルな色がそろっています。大きさも、大小さまざまです。
 飛騨高山では、「さるぼぼ」はどこのお土産屋さんでも買うことができます。飛騨高山を訪れる観光客は、必ずといっていいほど、さるぼぼを買って帰られます。多くの観光客に親しまれているんですね~
 旅の思い出、そして災いから身を守ってくれる「飛騨高山のさるぼぼ」。さるぼぼは今や、日本人だけでなく外国人観光客からも大人気のお土産です!一つ一つ、地元の女性の方々が丹精こめて作っています。
 お部屋に飾ったり、携帯につけたり、バックの中に忍ばせたり・・・飛騨高山のさるぼぼに、ぜひ会いに来てください!

 が!「ぼぼ」が赤ちゃんのことを言ったとは!初めて知った!「飛騨弁では」と言う限定付き! なのかどうか。ここからが本論!
 実は「ぼぼ」とは、女性性器(秘所)のことだとずっと思っていた! 通俗的な言い方で「オマ○コ」(最近は伏せ字ではなくなっているよだ!)。飛騨高山の店先で、観光に訪れた(と思われる)若い女性たちが手にとって「かわいい!さるぼぼ!」というのを聞いたとたん、ぎょっと! それくらいインパクトの強い言葉ではあったのだ!(私の言語感覚では) 
 したがって(どういうわけか)今回は、「!」マークを多用せざるをえない! はたして真実はいかに?

 インターネットで調べていたら、『げたのにれのやのげたにれの“日日是言語学”』(ameblo.jp/nirenoya/entry-10076586250.html)の記事が。実に詳しく解説がありました。気になっていたことがほとんど網羅されていて、これだけ徹底して調べ上げたこの方に、心底、脱帽(ダツボボ)!さすが!

「さるぼぼ」 の問題。 ―― “ボボ” の語源について。2008-03-01 18:16:01 (以下、省略して紹介)
・飛騨の方言で、【 ぼぼ 】 赤ん坊を意味します。つまり、【 さるぼぼ 】サルの赤ちゃん、ということです。
 なぜ、“さるぼぼ” を取り上げたか、というと 「ぼぼ」  というコトバは、日本の多くの方言で “女性器” を意味するからです。そういう地方のヒトからすれば、「さるぼぼ」 というのは、ものすごいインパクトのあるコトバです。

・子どもの頃使ったことのあるのは、マンコ、オマンコですね。この言い方は、関東 (東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県) から、山梨県、長野県、岐阜県、富山県という本州の中央部で使われるようです。なので、飛騨では “さるぼぼ” と言っても、いっこう問題がないわけです。

・沖縄では、ホー、ホーミ、ボボが通用するようです。「ホー」 と 「ホーミ」 は、ごく古い日本語に由来します。
【 ほと 】 女性器。『古事記』 (712年) から登場する、もっとも古い 「女性器名称」 でしょう。(ここで、『古事記』の該当部分を紹介し、音韻変化をふまえて懇切丁寧に解説して下さっています。)
 沖縄における 「ボボ」 という語彙は、近世に薩摩から入ったものではないでしょうか。というのも、漢字音や特殊な語彙を除けば、沖縄には、短母音の o は存在しなかったからです。つまり、bobo という単語はありえません。

・関西~中国~四国には、「オメコ」 が分布するようです。

・これら地域を内包し、ひとまわり広い地域では、「おそそ」 という言い方もあります。マキノ雅彦こと、津川雅彦さんの映画 『寝ずの番』 (ねずのばん) を見たヒトなら、例の 「おそその一件」 はよくご存じでしょう。 原作者の故中島らもは、あきらかに六代目の笑福亭松鶴 (しょうふくてい しょかく) 師をモデルにしていると見えますが、してみると、キッスイの大阪弁では 「おそそ」 のほうが主だったんでしょうか。

・東日本の 「オマンコ」、西日本の 「オメコ」 は、どうやら、語源をイツにするようです。語源は、
【 女の子 】 [ めのこ ]
(1) おんな。 (←→おのこ)
(2) おんなの子ども。 (←→おのこ)
あたりでしょう。(1)、(2) どちらの語義でも 720年の 『日本書紀』 から用例があります。あるいは、
【 女ん子 】 [ めんこ ]
【 真子 】 [ まこ ]
子どもまたは妻・恋人を親しみいつくしんでいう語。
【 女子 】 [ めこ ]
     (1) 妻。 10世紀末~17世紀
     (2) おんなの子ども。 11世紀~

・【“女性器” を指す 「ボボ」 という方言の分布】東北から南九州まで広く日本中に広まっていることを実証。
【女性器以外のものを指す 「ボボ」 系の方言語彙 】
 本州のあるラインを境に、キレイに意味が分かれているんです。東北、新潟、富山、長野、岐阜では、「赤ん坊」、「幼児」、「人形」 を指すことがわかります。「人形」 を 「赤ん坊」 に見立てるのは自然なことですね。そして、「ボボサン」、「ボボサマ」 というコトバに見られるように、これが、女性語・女児語ではないか、と思われるのです。

・いっぽう、「女性器」 を指す 「ボボ」 ですが、愉快なことに初出は 『日葡辞書』 (1603~04/江戸時代初期) です。つまり、ポルトガル人の第三者の目で記録されることによって、初めて 「ボボ」 というコトバが文字になったのです。
「Bobo (ボボ) 〈訳〉 女性の恥部。女性、少女らの用いる言葉」―― 『日葡辞書』

・「ボボ」 というのは 「女性、少女らの用いる言葉」 だったんですね。これは、「赤ん坊」、「人形」 を意味する北の 「ボボ」 と “使用者” が一致します。つまり、「ボボ」 は、女性・女児の使うコトバで、おそらく、“赤ん坊、幼児、人形” を意味していたが、本州のあるラインを境に、それより西で、“女性器” を指すためのコトバに専用されることとなったと言えそうです。そして、女性語・女児語であった語彙が、一般にも用いられるようになった。

・「女性器」 を指す “ボボ” という方言は、どうやら、「おぼこ」にさかのぼるフシがあります。実は、この 「ボボ」 の語源は、ほぼ確実に、「おぼこ」 にさかのぼると思われます。というのも、「オボコ」 と 「ボボ」 の中間の語形が、「ボボコ」、「ボンボコ」と見えているからです。
【 おぼこ 】
 (1) まだ世間のことをよく知らないために、すれていない男子や娘。
    うぶな男やきむすめ。また、そのようなさま。1548年初出
 (2) 女が、まだ男との肉体関係を知らないこと。男に接したことのない女。
    きむすめ。1689年初出
 (3) 子供。幼児。1775年初出
 (4) 赤児。1790年初出
 (5) 髪を切り下げて結ばないでいる児童。また、その髪形。
    きりかむろ。1819年ごろ初出
「赤ん坊」、「幼児」 の語義があるのがわかります。さらには、「オボコ」 は、「ウブコ」 にさかのぼります。
【 産 】 [ うぶ ]
     生まれたままの。生まれたなりの。生まれたときの。「産着」 (うぶぎ)、「産湯」 (うぶゆ)、「産声」 (うぶごえ) の “うぶ” ですね。この ubu が obo に転じた例は、他にも見られます。【 産土 】 [ おぼすな ]「うぶすな」 の転訛。「生まれた土地」 の義。【 産立 】 [ おぼたて、おぼだて ]<方言> 妊娠した婦人が五か月目頃に腹帯をしめる儀式。

・つまり、以上のことをすべてまとめると、
   「産子」 [うぶこ]   “生まれたばかりの子、生まれたままの子”
       ↓
   「おぼこ」 “赤ん坊、幼児、人形”
       ↓
   「ぼぼ(こ)」 “赤ん坊、幼児、人形” 北日本
   「ぼぼ」    “女性器” 西日本
と、たったコレだけのことですね。飛騨は 「ボボ」 の語義が異なるラインの北側にあるので、「赤ん坊」 の意味になります。ですから、
“さるぼぼ” =「サルの赤ちゃん」というコトバができあがるわけです。・・・

 安産のお守りということでは、なるほど納得!
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抗加齢科。ジャズが流れる高山ラーメン。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その2。)

2013-04-23 21:25:55 | つかのまの旅人
 むしろ、「はじめての高山」といった方が正しい感じです。たしかに見所満載。日曜の夕方と月曜の午前中。ぶらりと散策。中国人など外国人観光客が多く目につきました。先週が春の「高山祭」。屋台を繰り出しての大がかりな祭。

 高山祭は日枝神社の春の山王祭(4月14・15日)と、桜山八幡宮の秋の八幡祭(10月9・10日)の総称で、日本三大美祭のひとつに上げられています。
 祭の起源は飛騨の領国大名金森氏の時代(1585~1692年)、屋台の起こりは1718年頃にさかのぼります。
巧みな人形の動きを披露するからくり奉納、仕掛けが施された戻し車など、屋台にも匠の技が生きています。
 総勢数百名におよぶ祭行列は、闘鶏楽や裃姿の警固など伝統の衣装を身にまとい、お囃子や雅楽、獅子舞に先導され祭地域をまわります。夜に入ると各屋台はそれぞれ100個にもおよぶ提灯を灯し、艶やかに夜の闇を飾ります。飛騨人の意気が高まる高山祭。高山の揺るぎない誇りです。
春の高山祭・・4月14日・15日
秋の高山祭・・10月9日・10日                (以上高山市HPより)
 
 高山祭は京都の祇園祭、秩父の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の一つに数えられているそうです。

「高山陣屋」前、宮川に架かる「中橋」を渡るようす。
祭の屋台は、各町内の屋台蔵に保管されていて、街中を歩くと、いたるところで正面に大きな扉のついた白壁の土蔵のような「屋台蔵」があります。琴高台。
崑崗台。
飛騨国分寺塔跡(奈良時代)七重大塔の心礎(心柱の礎石)、上面に径1.3メートルの円柱座と舎利孔がある。
その隣にあった「カメ」状の大きな石。特に説明板はなかった。
古い街並み。伝統的建造物群保存地区。
土産屋さんとか喫茶店などが多い中で、こうしたお医者さんなどもあり、日常生活とマッチしながら保存されているところがすばらしい。
番外編1
「筏橋」手前の古くからあるお医者さん(らしい)門前の看板「抗加齢科」がとてもタイムリー。
番外編2
 ご当地ラーメンを食べるのは、最近の傾向(福岡が地元の友人に、博多で「一蘭」に入ったと言ったら複雑な笑いをされましたが・・・)。ここは「高山ラーメン」を。そこで、駅前のあまり人も入らなそうな「無名」?のラーメン店。おばさんが一人でまかなっている。
 けっこうおいしかった。何よりもいいのは、店内にモダンジャズが流れていること。その前に座ってしばし聞き惚れた。すてきな店でした。隣の「鶏ちゃん家」が賑わっているらしいが。
 帰りの列車では、飛騨牛の寿司を昼飯にしました。これもおいしかった!

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高山本線。雪景色。満開のサクラ。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その1。)

2013-04-22 23:34:02 | つかのまの旅人
 お祝い事があって、飛騨高山に。20代の後半、名古屋から夜行列車でここまで来て、バスに乗り継ぎ、新穂高温泉経由で北アルプス・槍から西穂まで縦走したときに来て(通って)以来のこと。その時は降り立っただけ。ということで新幹線と特急を利用しての旅。それでも、我が家の最寄り駅から東京~名古屋~高山駅まで、乗り換え時間も含めて、約5時間。飛行機で沖縄に行くよりもはるかにかかる。日本は狭いようでまだまだ「広い」。なるほど、高山は、岐阜と長野と富山と、本州の名だたる山並みのへそみたいなところに位置しているのを、実感。
 ところで、「高山本線」。本州では「本線」とついていながら、唯一、地方交通線に分類されているそうです。それに非電化。
 久々に気動車に乗りました。ディーゼル・カー。独特の懐かしい、うなり声をあげながら上っていく風情がなによりよさそうでした。この「本線」、岐阜から富山までの区間。飛騨高地の山間部を木曽川・飛騨川沿いに走り、名古屋・中京と富山・北陸を結んでいます。生活路線というより、途中にある「下呂温泉」や高山市、飛騨市への観光路線としての性格が強そうですが、名古屋からの乗客は、日曜日でもそれほど乗ってはいませんでした。高山には大勢の外国人観光客がいましたので、大型バス輸送が中心になっているのでしょう。
 電化の計画・構想もあったようですが、立ち消え。それでも、国鉄時代の早い時期から列車行き違い設備の増設や列車集中制御装置 (CTC) の導入といった輸送近代化が行われ、列車の増発が可能になり、国鉄分割民営化後は、岐阜駅 - 高山駅間において行き違い可能駅で両開き分岐器(Y字ポイント)を高速通過が可能な型に取り換えるなど、気動車も新鋭の機種に変えて電車特急に負けないほどの高速運転が行えるようになったようです。
 ワイドビュー「ひだ」号。国道41号線とほぼ同じルートを流れを渡り、渡り返しながら、だんだんと高度を上げて高山に向かいます。沿線は、飛騨木曽川国定公園に指定されているだけあって、2時間30分ほど、美しい遠くの山々や渓谷美が楽しめます。桜がようやく満開を迎え、そして、時ならぬ名残り雪の景色でした。浅い緑一面の山々と深い水の青さと大小様々な岩の間を縫う急流。・・・。
一面の雪景色。
高山の手前付近。

「宮川」沿いに桜などの木々が。
流れに被さるような満開のサクラ。
少し風が冷たいですが、散策にはほどよい季節。
シダレザクラ。
「筏橋」。
ソメイヨシノ。
梨の花。

帰りは穏やかな川面の春景色に。列車での長旅もたまにはいいもです、疲れますが。



 
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織部ヒルズ、道の駅「志野・織部」、そして「だち窯やまつり」。

2012-05-05 20:12:24 | つかのまの旅人
 よく歩きました、朝から。最初に行ったところは、「織部ヒルズ」での陶器市。森を切り崩した小高い丘の上一帯が、陶器工場の集積地。続々と車の列、やっと臨時駐車場に入れました。そこから歩いて会場に。道の両側にはテントが数え切れないほど。様々な陶器が展示され、本当に安く売られています。
 3日間で35万人以上の人々が訪れるとか。岐阜ナンバーだけでなく、千葉ナンバーも。全国からやってくる市あげての催しのようです。買い物用のカートを持っている人も目立ちます。大量に買うつもりなのでしょう。
 ちょっと下った国道沿いには、道の駅「志野・織部」。ここにもたくさんの陶器が展示され、買い物客でいっぱいでした。しかし、我々の今回の目的は、駄知の窯を訪ねること。一通り歩いてから(けっこうな運動になりましたが)、車で駄知に移動しました。だんだん山の中に入っていく、この先どうなるのか、というほど一面、緑が美しい。
 小さなトンネルを抜けると、目の前がぱっと開け、駄知の町。周囲を山に囲まれ、小さな窪地の中に広がる町並みでした。ここに、多くの窯元があるとのこと。最初に「すりばち館」南楽窯・マルホン製陶所。大小問わず、用途別にたくさんのすり鉢が展示されています。我が家では今やすり鉢もなく、セラミック製のもの。すりこぎもすでにない。ここでは、線の細かさと独特のざらざら感がひとしお。懐かしい雰囲気に満たされました。いきなり満足感。そこから清山窯、藤山窯、丹山窯と巡りました。
 かつては薪を燃料にしていましたが、環境問題などで、今はすべてプロパンガスになってしまって、煙突からの煙も上らなくなったようです。少し物足りない感じですが、これも時代の流れですか。
 最後に知人宅の近くの「快山窯」に。ここの先代は人間国宝。青磁、白磁のすばらしい作品が展示され、今にその技術を受け継ぐ製品が売られています。その中で、銘々皿を買いました。驚くほどの安さ、その上に値引きをしてくれました(知人に感謝です)。すてきな青磁と白磁のお皿。さて、何を盛りつけたらよいか、家人の困ったような顔がふと浮かびました。
 今や西洋文化中心。住生活はもちろん、食生活もそれにならって食事を彩る器も変わりつつあります。こぎれいで、大量生産の安い製品も続々と売られ、あまり食器にこだわらないような風潮。その中にあって、地域をあげて、日本の伝統文化を守り、育てるために、何とか頑張っている気迫を感じました。思ったより、若い職人さんや子連れの顧客が多いのにも、一安心。
日本一のすり鉢。約70㌢。
かつての窯の内部。
もう使用されなくなったマルホン製陶所の煙突。こういう煙突があちこちにあり、煙が立ち上っていたそうです。今は、ガスのために煙は出ない、とのこと。
快山窯の煙突。
右手の奥が「どんぶり会館」。遠くからは、屋根がどんぶりのふたのように見えます。ここの食堂で食べる(ご飯物でもアイス一つでも)と、記念にどんぶりをくれます。けっこう粋な企画です。でも、帰りはお土産も含めて、荷物はかさばり、重かった!
見渡す限り、緑、緑。晴れていれば、南アルプスやおんたけさんがよく見えるそうです。
野外の作品も皆、陶磁器製。
銘々皿(白磁)
銘々皿(青磁)
どんぶり会館でもらったどんぶり二つ。けっこう深くて大きい。
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