おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その3。満開のツツジ。「等々力」。多摩川緑地広場。世田谷区から大田区に。多摩川台公園(大田区田園調布)。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-07 20:35:24 | 都県境を探ってみる

沿道に満開のツツジ。        

               

     「等々力排水樋管」。

「等々力」という地名は、対岸の川崎市にもあります。

当地は、もともと多摩川の流れが南に屈曲していたところに張り出した、荏原郡等々力村に属する半島状の土地であったが、洪水や多摩川の付け替えが行われた結果、対岸の飛び地となった。宝暦12年(1762年)の小杉村絵図にも、現在の川崎側の等々力の南側を、多摩川の本流から分流して蛇行した流路が「古川」として描かれている

江戸時代には旧河道の土地をめぐり等々力村と小杉村で争いとなり、宮内村が立ちあって境界が定められ、幕府側でのその裁決の文書には大岡越前守の名も残っている

明治末期に、多摩川に沿って府県境が引き直され、当地は神奈川県橘樹郡中原村へと編入された

・・・江戸時代に「等々力」の字が当てられた

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。○が飛び地だったところ。

余談ですが、「田園調布駅」を中心に同心円状に住宅地が広がり、都内有数の高級住宅地となっています。

田園調布は、1918年大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた「理想的な住宅地『田園都市』の開発」を目的とする田園都市株式会社により主に開発され、1923年(大正12年)8月から分譲開始した地域である。田園都市株式会社は東急電鉄東急不動産の始祖にあたる会社である。(「Wikipedia」より)

川崎市側は「等々力陸上競技場」等、大きな運動広場になっています。川崎市中原区等々力。

                      1880年代のようす。かなり蛇行する流路。

 

大きな広場が続きます。

多摩川緑地広場。

         遠くに武蔵小杉のタワーマンション群。

東京都市大学グラウンド。

     テニスコート。

         

この先で、世田谷区から大田区に入ります。

けっこう長く「世田谷区」区域を歩きました。

振り返る。

上沼部排水樋管。

河口まで大田区になります。

                   

東急線、丸子橋が遠くに。

               

左手に森が迫って来ます。

               「多摩川台公園(大田区田園調布)」。

                 亀甲山古墳、宝莱山古墳や多摩川台古墳群があるようです。

案内図。

「田園調布4丁目」信号。

上流を望む。

             

下流を望む。対岸に釣り人の姿。

岸辺で釣り人が。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その2。孤独なライオン。等々力大橋。玉川排水樋管。等々力渓谷。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-06 20:43:12 | 都県境を探ってみる

「孤独なライオン」。     

どういうわけで、一頭だけ?

この疑問を追求したブログ「デイリーポータルZ」には、その疑問が解決されていく記事が掲載されています。

それによると、

40年近く前、ライオンの近くには

・パンダの遊具があった

・「前後に揺れる遊具」や砂場もあった

・ライオンは台風のたびに埋まる

当時の写真などを発見、ついに、区役所による周囲の発掘作業に立ち会うことになります。そこでの発見は?

事の次第・興味深い話は、下記の記事をご覧下さい。(写真・図を借用しました。)

多摩川に埋まる遊具「孤独なライオン」の発掘調査に立ち会った【完結編】 :: デイリーポータルZ (dailyportalz.jp)

2010年代のようす。

1970年代のようす。ライオンなど遊具があった?

上記のような経緯があり、ライオンだけ撤去されずに残されて、今に至るわけです。

河川敷の野原にポツンと置かれたライオン。が、存在感は抜群!

草が刈られた広場。

この先、大きなクレーン車が何台も見えます。

          

                  「等々力大橋」(仮称)下部工事のようです。

       

目黒通りが川崎へ「等々力大橋」巨大橋脚が出現中 「橋空白地帯」多摩川に念願の架橋

東京都世田谷区に、多摩川を渡る新たな橋梁「等々力大橋(仮称)」の建設が進んでいます。完成は2025年度の予定です。

この橋が架かるのは、有料道路・第三京浜の約1km東側。目黒通りの延長線となる形です。一般道路としては、二子橋と丸子橋のちょうど中間部分です。両者は5kmも離れているため、ボトルネックとなって慢性的な渋滞ポイントとなっていますが、混雑分散に期待がかかります。

目黒通りが川崎市内に入ったあとは、西下橋交差点から都市計画道路「宮内新横浜線」に接続。そこから子母口まで4車線道路が開通済みです。

名前のとおり最終的には新横浜駅へ直結する計画で、全通すれば都心~新横浜が4車線道路で直結されることとなります。・・・

さて多摩川の現場では、川崎側の橋台と橋脚が2022年夏に完成。東京側の橋脚も、約半分ほどの高さまでコンクリートが打ちあがっています。このあと河道内にもう1本橋脚を立てて、橋桁部分の工事へ移行します。橋の長さは約390m、鋼製の箱桁を主塔からケーブルで支える形式です。 ・・・

(この項、「」HPより)

「玉川排水樋管」。

    

ここから少し上流(谷沢川)に向かったところに都区部では唯一の自然渓谷とされる「等々力渓谷」があります。何年か前に、出かけたことがあります。

等々力渓谷

大量の湧水が台地を浸食してできた渓谷である。渓谷の谷底は等々力駅付近から下流の脇を遊歩道が整備されている。10mほどの急峻な両崖には武蔵野の雑木林が残り、陰鬱として夏でも冷涼である。また、南側は戦国時代深沢から移ってきたとされる満願寺境内に隣接し、その別院の等々力不動尊は関東三十六不動尊霊場の一つとして、湧水が流れ落ちる不動の滝に打たれる修行者が時折見られ、冬季を除いて茶屋も建ち、都内でも有数の自然豊かな憩いの場となっている。

(「Wikipedia」より)

そのときの記事を再掲。

見上げると、けっこうな高さ。
                   

左岸には遊歩道。
                      
木洩れ陽の中。せせらぎの音と小鳥の声。

「ゴルフ橋」方向を振り返る。

多摩川方向を望む。

・・・

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その1。二子玉川園。玉川西陸閘。岸辺の散策路。二子玉川公園。第3京浜。下野毛排水樋管(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-04 20:48:11 | 都県境を探ってみる

4月28日(金)快晴。多くの乗降客でにぎわう駅の改札口から、多摩川土手に向かいます。

駅コンコースのようす。 

東急田園都市線・大井町線「二子玉川」駅。かつての駅名は、「二子玉川園」。
 駅名は、駅の東側にあった「二子玉川園」という遊園施設に由来しています。戦前の1922(大正11)年に「玉川第二遊園地」や「玉川プール」などが開設され、行楽地として賑わいました。

※「二子」という地名そのものは神奈川県川崎市高津区にある地名。多摩川をはさんであった左岸が東京都世田谷区瀬田に編入された。東京側は「玉川」。

 太平洋戦争中はパラシュート練習場として、海軍空挺部隊や陸軍挺進連隊の訓練設備として使用されました。戦後、玉川第二遊園地は、「二子玉川園」となり、フライングコースター等の施設や映画館なども設けられ、行楽地として栄えました。
 しかし行楽施設の充実や変化という時代の流れにはついていけず、1985(昭和60)年に閉鎖されました。その跡地にスポーツ施設や「ナムコ・ワンダーエッグ」、「いぬたま・ねこたま」などのテーマパークが建設されましたが、それも廃園。

今や高層ビルが建ち並ぶ、一大商業地域・住居地域になっています。

        「二子玉川駅」。ホームの一部は多摩川に。

多摩川の旧土手。

「玉川西陸閘」。

                   レンガ造りが印象的。結構な高さと幅。

江戸時代、二子(多摩川の右岸・神奈川県側)は、矢倉沢往還(大山街道・現在の246号「厚木街道」)の渡船場でした。「矢倉沢往還」は、神奈川県南足柄市の矢倉沢方面から物資を運ぶための道でしたが、丹沢の大山信仰の登山口でもあったため「大山道」とも呼ばれました。
 江戸時代、博打と商売にご利益があるとされた「大山詣り」は大流行し、二子宿には、旅籠をはじめ多くの商家が軒を揃え、大いに賑わいました。また、江戸幕府への献上用としても好まれた鮎漁も盛んに行われ(鵜飼い)ていたといいます。
 明治40(1907)年になると、渋谷から対岸(東京都側)まで玉川電気鉄道が延び、多摩川をはさんだ二子の渡し周辺は、再び行楽地として注目を集めます。近郊の人々が多摩川を訪れ、旅館に泊まって田園風景や多摩川の風情を眺めたり、屋形船で鵜飼いを楽しみながら川魚を賞味して余暇を過ごしました。旅館が建ち並び、鮎漁・鮎料理、鮎寿司を看板にしている店々が軒をつらねた様子が記録に残されています。
 行楽地として賑わう反面、下流部に位置し、東京と神奈川両府県にまたがるため断続的な堤防しかないこの辺りは、古くから水害に苦しめられていました。
大正3(1914)年8月9月、多摩川を襲った2度の大洪水が発端となって起きたのを契機に、国の直轄による「多摩川改修工事」が行われる事になりました。大正7(1918)年から竣工され、昭和8(1933)年度に完了した工事の対象区間は、河口から二子の渡しの少し上流までの約22kmです。
 現在残る世田谷区玉川1丁目から上野毛2丁目付近の堤防もこの時築かれますが、川辺に建ち並ぶ料亭などから「眺めが悪くなる」として合意が得られず、堤防と川の間に料亭や田畑を残す形に計画を変更しました。
 しかし、川辺の料亭や渡しへむかう人馬が、この堤防を越えていくのは大変です。そこで堤防の一部を削って通路をつくり、水位が上昇した時は手動で締め切って、水が流れ出るのを防ぐ仕組みの「陸閘(りっこう)」を設置したのです。一面から見れば、堤防内の人も住居も見捨てるということに? ま、その前に避難命令が出るでしょうが。考えてみれば、治水に対する生活の知恵 ともでもいうようなもの。
 近辺の宅地開発に、交通網の発達と関東大震災後の影響が拍車をかけ、都心から多摩川沿いの住宅地へと移り住む人々は急激に増え、世田ヶ谷の人口も、大正9年から昭和35年の間に16倍以上にもふくれあがります。昭和初期の航空写真には、料亭と田畑だけだった堤防と川の間にも家々が密集し、まちが形成されている様子が写っているようです。
 (以上、「京浜河川事務所」の資料を参照しました。)

南東に延びています。

かつてこの上を歩いたことがあります。土手。遠くに桜並木が見えます。

現在の堤防に上がります。土手の松がすくっと高く。

駅のホームを振り返る。

河口に向けて出発。

                対岸遠くは、武蔵小杉付近の高層マンション群。

河川敷を歩きます。

                

直線に伸びる道。

松並木。

岸辺の散策路。

左手に緑豊かな大きな公園。

                         「二子玉川公園」。

多摩川を見下ろす。

平成25年4月14日(日曜日)にオープンし、多くの皆さまにご利用いただいている二子玉川公園。

二子玉川駅より徒歩9分と、国分寺崖線のみどりと多摩川の水辺に囲まれた場所に位置している自然豊かな公園です。世田谷区立の公園として初の本格的な日本庭園があり、その一部には登録有形文化財に登録された「旧清水家住宅書院」を復元しています。

区民の皆さまと共に植樹した約1,400本の苗木が生長する「世田谷いのちの森」や子どもたちがボール遊びを楽しめる「子ども広場」、幼児が遊べる「遊具の遊び場」などがあり、親子連れで楽しめる公園です。

日当たりもよく、眺望広場からは丹沢の山々や富士山を望むこともできます。

(この項、「」HPより)

公園内のようす。

               かつての「二子玉川園」の跡地か?

「第3京浜」。

東京都世田谷区の玉川ICを起点とし、川崎市高津区の京浜川崎IC、横浜市港北区の都築IC、横浜市都筑区の港北ICを経て横浜市保土ヶ谷区の保土ヶ谷ICまでを結んでいる全長16.4km。

         

多摩川の流れ。

 

                 「下野毛排水樋管」。

この先の河川敷にあるものは?

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その8。東京都水道局砧下浄水所。陸閘(りっこう)。 野川。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-05-02 20:45:53 | 都県境を探ってみる

上流を望む。

二子玉川駅に近づいてきます。

東京都水道局砧下浄水所。

上流にあった同じような取水塔があります。

広場やグランドが河川敷に広がります。

 

この先、土手の道に「自転車通行できません」との表示。それを無視し、走る自転車が戻ってきます、

「陸閘」。

陸閘(りっこう)は、多摩川の水害から暮らしを守る目的で大正時代に作られた堤防の一部を削り、堤防内外への通路としたものです。

この通路は、増水などにより川の水位が上昇した際に、手動で門扉のように締め切り、水が堤防の外(多摩川河川敷外)へ流れ出るのを防ぐ仕組みとなっていました。陸閘は玉川1丁目に2か所あり、それぞれ「西陸閘」「東陸閘」と呼ばれ現存しています。レンガ造りの壁が印象的です。

・・・

さて、こうして古くから地域の人々の生活に寄り添ってきた堤防と陸閘ですが、現在でもその機能を担っています。毎年、出水期前の5月に閉鎖訓練を行い、閉鎖に必要な材料等が損傷・腐食していないかを点検すると同時に、設置から撤去までの作業と時間の確認が行われています。

 この訓練は世田谷区の職員が作業し、実施について国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所へ報告されます。訓練を担当する世田谷区玉川土木管理事務所の高橋厚信所長は、「台風などによる増水で、浸水の危険がある場合に速やかに閉鎖し地域を災害から守るための訓練です」と話します。

 2019年の10月に発生した台風19号が飛来した際には、西陸閘を閉鎖しましたが、街に古くから住む方々は「訓練ではなく、水害防止のため実際に閉まるのは初めて見た」と話していました。

(この項、「」HPより)

この記事では、具体的な作業のようすが写真入りで紹介されています。

※もう2ヶ所、二子玉川駅の先にあります。

河川敷に広がるグランド、広場。

左から「野川」が合流してきます。

上流方向。

かつての野川は、小金橋(調布市と狛江市の市境、調布市立調和小学校の南東)あたりから野川緑地公園に近い流路で現在の狛江市中心部を流れ、そのまま南流し岩戸川(現在の岩戸川緑地公園)及び町田川に接続し、宇奈根付近で多摩川に注いでいた。

1597年慶長2年)から15年かけて六郷用水(次大夫堀)が開削された。これに伴い世田谷通りの新一の橋付近で六郷領用水と合流し流れを東に変え、世田谷通りと滝下橋緑道を流れ入間川と合流するようになった。次太夫堀公園を流れた後用水から分流し現在の野川下流に近い流路を通っていた。

1967年昭和42年)になって六郷用水も川の流路を失わない範囲で大部分が埋められ(一部が野川緑地公園と滝下橋緑道に整備)、野川の流路を東に寄らせる改修が行われた。野川は狛江市街に入らずに調布市と狛江市の市境付近に新たに開削された[6]。それより下流の野川も入間川との合流点を作り、さらに少し下流のきたみふれあい広場(小田急電鉄喜多見車両基地)付近では旧入間川より数百メートルほど東に野川が開削され(西側の従前の入間川は埋められた。狛江ハイタウン前からきたみふれあい広場までは道路及び遊歩道になっている)、さらに下流でも次大夫堀開削以前の入間川に近い流路がとられた。また、この開削した川も全区間野川と称した。

都内にしては湧水による水量豊富な河川であったが、戦後から高度経済成長期を経て1980年代前半までは、周辺地域の宅地化が進行し、下水道も未整備であったため生活雑排水が垂れ流されるようになる。流水の大半がそれらからなり、水底はヘドロで覆い尽くされ悪臭を放つドブ川となってしまうが、平成に入り周辺地域の下水道整備がようやく完了し、清流への回復が徐々に進み始めた。これにより各種類や水生昆虫、かわせみ、カメなどの生息、回帰も確認されるようになった。

しかし、皮肉なことに汚水の減少にともなって水量そのものも減少してしまい、冬季にはしばしば川の水が枯れるようになった。また、水量減少は流路に湿原的な環境を所々作り出し、アシの繁茂が新たな生物相を生じさせてもいる。・・・

※かつて「野川」を歩いたことがあります。・・・

「都立野川公園」。雨に煙る風景。

・・・

多摩川方向。

             

今回は、ここまで。「二子玉川駅」に向かいます。

東急「二子玉川駅」。

以前訪れたこともありますが、相変わらず、駅周辺は、にぎやかな街並み。人もたくさん出入りしています。

※今日は、「八十八夜」。立春から数えて八十八日目の夜。 八十八を組み合わせると『米』という字になり、昔から農業に従事する人々にとって重要な日とされてきた。霜の降りる時期も終わりを迎える目安とされている。

♪夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘じゃないか
 茜襷(あかねだすき)に菅(すげ)の笠・・・

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その7。狛江水辺の楽校。東京都水道局砧浄水場。警視庁白バイ訓練所。宇奈根の渡し。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-05-01 20:55:51 | 都県境を探ってみる

先に進みます。

自動車教習所。

             ここも水害の被害を受けたところなのでしょうか?

「狛江水辺の楽校」。

        

狛江水辺の楽校は、わき水や小川、池、雑木林、オギ原、化石島など多摩川らしい自然と景観を残す私たち市民の共有財産といえる貴重な水辺の空間です。
 多摩川流域でもこれほど恵まれた自然環境を保持しているところは数多くありません。私たちは、こうした環境を大切にして次代の子どもたちに引き継ぎたいと考え、この水辺の価値を考え、この水辺の価値を共有する市民や団体、そして狛江市との協働で運営協議会を設け、環境保全の管理・運用に当たっています。

(この項、「狛江水辺の楽校」HPより)

※都内でほぼ確実に化石が見つかる場所のようです。

「東京都水道局砧浄水場」。

世田谷区喜多見。 

                   取水塔。

「警視庁白バイ訓練所」。

「東名高速道路」橋脚が見えてきます。

          「警視庁交通安全教育センター」。

「武蔵野の路 二子・是政コース」案内図。

「藤棚」のある四阿で小休止。

「海から20K」。

        

                    対岸は、川崎市高津区宇奈根。

リコー 総合グラウンド。

駒沢大学玉川キャンパス。

左手に二子玉川駅付近の高層ビルが見えてきます。

「宇奈根の渡し」解説板。

多摩川は古くから洪水により流路が変わる暴れ川であり、流れの大きな変化によって村が分断されることもあった。

ここ宇奈根地区もかつて多摩川により分断された地区で両岸にその地名(世田谷区宇奈根と川崎市高津区宇奈根)が残っている。そのため、宇奈根地区では対岸の農地の耕作のための作業渡しや両村を結ぶ交通として宇奈根の渡しが運行していた。本来の渡し跡は、現在地より約500m上流であったと言われている。なお、昭和25年(1950)に渡しは廃止された。

この記念碑は、喜多見児童館の子ども達がかつての宇奈根の渡しを復活させ対岸の子ども達と交流しようと夢をふくらませ、地域の方々と作製し名付けた「夢叶丸」(ゆめまる)に乗り、世田谷区と川崎市高津区の宇奈根の子ども達の交流が実現したことを記念し、現在の宇奈根1丁目1番地に夢プロジェクトメンバー25人の手作りで建立したものである。

      対岸。

 「宇奈根の渡し」は1950(昭和25)年に廃船となったと言われる多摩川の交通手段。行楽・商業の船着き場として栄えた「二子の渡し」に比べ、農作業など住民生活の足として利用されていたことから残された資料も少なかった。喜多見児童館が2014年に「世田谷区子ども夢プロジェクト」の担当館として調査した結果、さまざまなことがわかり、当時同プロジェクトに参加していた25人の子どもたちの発案で実際に手作りの渡し舟「夢叶丸(ゆめまる)」を制作し、同年9月23日に64年ぶりの渡しを復活させた。

(この項、「」HPより)

※コロナ禍で3年中止されていた「宇奈根の渡し」が昨年から復活したようです。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。船着き場がある。

                     2010年代のようす。今も、「宇奈根」が両岸に。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その6。玉川碑・万葉碑。絵手紙発祥の地 狛江。多摩水道橋。多摩川決壊の碑。『岸辺のアルバム』。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-30 20:26:01 | 都県境を探ってみる

左手、住宅地の中に「万葉歌碑」があるようなので、行ってみます。

万葉歌碑。

多麻河伯爾左良須テ豆久利佐良左良爾 奈仁曽許能児乃己許太可奈之伎

『万葉集』巻14の東歌の一首「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」が刻まれた歌碑で、松平定信の揮毫になります。文化2年(1805)に猪方村字半縄(現在の猪方4丁目辺り)に建てられましたが、洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して、大正13年(1924)、旧碑の拓本を模刻して新碑が建てられました。

解説文。玉川碑「万葉歌碑」。

「万葉通り」。

堤に戻ると、奥に水神。

さて、多摩川歩きを再開。足もとを見ると、

「絵手紙発祥の地 狛江」と。この先もいくつか発見。

下流に「多摩水道橋」。

狛江市立西河原公園。

「海から24K」。

      

「多摩水道橋」。

初代「多摩水道橋」の碑。

初代の多摩水道橋は、道路と水道が併用する橋として、多摩川のこの地に昭和28年(1953)12月に完成しました。以来、相模川の水を川崎市長沢の浄水場を経て都内に供給するための水管橋として、また東京都(狛江市)と川崎市(多摩区登戸)とを結ぶ「登戸の渡し」に替わる道路橋として重要な役割を担ってきました。・・・

カヤックの練習中? 

「小田急線橋梁」。

                     対岸が「登戸駅」。

絵手紙。 

                  

木陰で休む人。こんな穏やかなお天気。

この地は、かつて大きな水害に見舞われました。

多摩川決壊 いつ? 「多摩川決壊の碑 撤去」の画像検索結果 
 
昭和49年9月1日、「狛江市猪方地先の多摩川堤防が決壊」の一報がマスコミを通じて日本全国に伝えられた。 翌日未明、全国の人々が見守る中、被災状況がテレビの画面に映し出された。 長年の蓄積が実り、やっとの思いで建設したマイホームが、それも建設したばかりのものが、瞬時にして次から次へと濁流の中に消えていく様子であった。
 
(この項、「狛江市」HP)

「多摩川決壊の碑」。

         

碑文。

昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心にした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取り付け部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が浸食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の家屋19棟を流失させる被害をもたらせました。・・・被災住民は、国家賠償法に基づき、提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年4年(1992)に判決が確定しました。

再建された「二ヶ領宿河原堰」。

           

あれからもう半世紀の年月が経っています。

        全景。

ところで、この水害をもとに、今も話題に残るドラマができました。

『岸辺のアルバム』

1974年多摩川水害が背景にある。この水害で多摩川の堤防が決壊して19棟の家屋が崩壊・流出したが、家を失ったことのほかに家族のアルバムを失ったことが大変ショックであったという被災者の話を脚本の山田太一が聞き、そこから作品の構想が生まれた。ラストの水害で家が流されるシーンは、実際の報道映像が使用されている。

主演の八千草薫は、和泉多摩川駅の向かいのホームに佇む美しさに惹かれたといって電話をかけてきた竹脇無我と家族に隠れて不倫する主婦を演じ、それまでの良妻賢母的なイメージを打ち破り、新たな役どころを開拓。関川夏央は「貞淑を絵にかいたような八千草とラブホテルの組み合わせは衝撃的だった」と評する。小説では39歳だったが、脚本では42歳に直されている。八千草の実年齢は46歳だった。八千草はテレビ大賞主演女優賞を受賞。また、この作品でデビューした国広富之はゴールデン・アロー賞放送新人賞等を受賞した。

当時の平均視聴率は14.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)とそれほどでもなかったが、その後評価が高まり、テレビドラマ史に残る名作という評価が定着している。山田は「脚本家を志す学生から『早春スケッチブック』と並んでこの作品が最も質問を受ける」と語っている。

このドラマは、前述のように実際に東京都狛江市で起こった水害を題材に、平凡な中流家庭の崩壊を描いた作品である。それまでの「家族で食卓を囲んで最後はハッピーエンド」というホームドラマの殻を打ち破り、辛口ホームドラマというジャンルを確立した点で、革命的な作品であり、日本のテレビドラマ界に与えた衝撃は大きかった。

そのストーリーと共に特筆すべきは、オープニングの映像である。平穏に見える川がある日突然濁流に変わり平凡な家庭を飲み込んでいくという、この作品のテーマを見事に象徴している。特にジャニス・イアンの甘く気だるい歌声と、マイホームが濁流に飲み込まれていく実際のニュース映像が鮮烈に印象に残る。

(「Wikipedia」より)

           

              

            

1977年に放送されたTBS制作のドラマ。

一見平和で幸せそうな中流家庭の崩壊と再生を描く。

出演:八千草薫、杉浦直樹、中田喜子、国広富之、竹脇無我、風吹ジュン、新井康弘、村野武範、原知佐子、津川雅彦、沢田雅美、山口いづみ ほか          

山田太一脚本のテレビドラマ史に残る名作「岸辺のアルバム」。淡い水彩画のような、おっとりしたタイトルとは裏腹に、このドラマはあえて「衝撃の家庭ドラマ」と銘打っている。激情的な人間模様、生臭い話、どろどろした性の問題を内包した作品だ。またその一方で、このドラマは「家庭とは何だろう?」「親と子の関係はどうあるべきか」といった普遍的な難問と正面から取り組んでいる。東京郊外の多摩川沿いに住む中流家庭を舞台に、初回放送当時のホームドラマでは一切タブーとされてきたエピソードが次々と展開される。

【ストーリー】
東京郊外の多摩川沿いに住む中流家庭。一見すると幸せそうに見える家族4人。しかし、実はそれぞれが問題を抱えていた。
母・則子(八千草薫)は良妻賢母型の専業主婦。だが、見知らぬ男から電話がかかってくるようになる。はじめは知らん顔をするも、やがてその男と会うようになり…。父・謙作(杉浦直樹)は有名大学出の商社マン。しかし、実のところ会社は倒産寸前の状態だった…。娘・律子(中田喜子)は大学生。なかなかの秀才で大学も簡単に合格したはずだったが、ここ一年は家族に対して心を閉ざしている。やがて、アメリカ人男性と交際するようになるのだが…。息子・繁(国広富之)は大学受験を控えた高校生。決して勉強のできる方ではないが、心の優しい性格の青年だ。だが、両親や姉の異変に気付き、思い悩むことに…。

(この項、「TBSチャンネル」HPより)

                

      

          (「YouTube」より)

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。左が小田急線の鉄橋。

                     1970年代のようす。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その5。なんじゃもんじゃの木。多摩川五本松公園。六郷用水取入れ口。玉翆園。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-29 20:21:42 | 都県境を探ってみる

木が生い茂るところも。

その先に、

「調布排水樋管」。

               ランニングロードの距離標示。

左手のお店「薪窯ピッツァ」裏手にある「なんじゃもんじゃの木」が満開!

          ヒトツバタゴ。

ナンジャモンジャは、特定の場所に生えている見慣れない立派な植物、怪木や珍木に対して地元の人々が付けた愛称。すなわち、特定の植物の名ではない。ヒトツバタゴを指すことが多いが他の樹種の場合もある。あんにゃもんにゃとも呼ばれる。

「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種は、ヒトツバタゴのほか、ニレイヌザクラボダイジュなど様々である

「ナンジャモンジャ」と称される理由について、民俗学では、元々は占い神事に利用されていたもので、植物名で直接呼ぶことが憚られたものではないか、とみる説などがある

一説では、神木の前を通りかかった水戸黄門が「この木はなんじゃ」と聞いたところ、地元の人が聞き取れず「なんじゃもんじゃ」と返答して、木の名前だと勘違いして広まったという話がある

(この項、「Wikipedia」より)

                

左手が住宅街になります。

河川敷には畑。

                  対岸は、登戸方向。

「多摩川五本松公園」。

      整然とした農地。

下流に「多摩水道橋」。

           今や、はるか遠くに「よみうりランド」(↓)。

         

「海から24.2K」。

木陰で小休止。けっこう暑くなってきます。

「六郷用水取り入れ口」。

六郷用水は、徳川家康の命により慶長2年(1597)から16年にかけて代官小泉次大夫吉次によってつくられた灌漑用水路で、次大夫堰とも呼ばれています。この用水は、多摩川の水をこの辺りで取り入れ、市役所の裏で野川と合流し、世田谷区を経て大田区に至り、全長約23㎞に及びました。市内でも和泉、猪方、岩戸の水田の利用されてきましたが、この辺りは昭和40年に埋め立てられました。写真は、多摩川から見た取り入れ口で、右側が現在地、左側は玉翆園で、昭和初期のものです。

※「玉翆園」この付近にあった料亭。当時の河畔沿いに築かれた石垣が残っているようです。

明治39(1906)年頃、当時の狛江村会議員・井上半三郎が、和泉圦上(いずみいりうえ・現在の中和泉4丁目)の約二千坪の土地を開墾し、「井上公園」を造成しました。老松が茂り、眼下には多摩川が悠々と流れ、その向こうに富士山や、丹沢の山並みが遠望できる景勝地だったそうです。大正2(1913)年、その公園の中に建てられたのが料亭「玉翠園 」です。屋形船を浮かべ、鮎料理を楽しむ客で賑わいましたが、戦況の悪化に加え、多摩川の汚染がひどくなり、昭和14(1939)年に閉店しました。公園内には、大正10(1921)年、小学生のために宿泊施設を備えた林間学校も建てられ、地域の公民館のような役割も果たしていたそうです。(「ココシルこまえ」HPより)

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その4。「海から26K」。二ヶ領上河原堰(にかりょうかみがわらぜき)・魚道。「多摩川の堰堤」。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-28 21:08:07 | 都県境を探ってみる

左手に大きなグランド。

                「電気通信大学多摩川グラウンド」。

「海から26K」。

「上河原堰」。

右岸(川崎側)には、「二ヶ領用水中野島取入れ口(上河原取水口)」が見えます。

.二ヶ領上河原堰

多摩川の水を取水している「二ヶ領上河原堰(にかりょうかみがわらぜき)」は神奈川県 下でもっとも古い人工用水「二ヶ領用水」に始めて作られた取水堰。

二ヶ領上河原堰二ヶ領上河原堰

◆場所 :左岸   調布市染地二丁目
     右岸   川崎市多摩区上布田
      25.8km付近

            「多摩川の堰堤」。

上流から

小作取水堰 羽村取水堰 昭和用水堰 日野用水堰 大丸用水堰 二ヶ領上河原堰 二ヶ領宿河原堰 調布取水堰

 昔の上河原堰は蛇籠と木工沈床などを利用した堰堤でしたが、洪水のたびに堰堤は欠壊流出しました。そのため、昭和16年(1941)から4年がかりでコンクリート化工事が行われました。これにより全長425m、高低差3.6mの多段式鉄筋コンクリートの重力式浮ダムが造られました。ところが、昭和41年(1966)に二度の台風によって、このダムも一部損壊してしまいました。このため昭和46年(1971)に堰堤の改築が行われ、調布市側に魚道つきの固定堰(248m)、川崎市側に洪水吐ゲート3門に管理橋(163m)と魚道が設置され、さらに固定堰と洪水吐ゲートの間に流量調整ゲート(14m)が設けられました。
また、固定堰であるため大量の土砂が堆積し流下能力を低下させていることから、平成24年に多摩川の流下能力を向上させ、洪水時の水をスムーズに流下させるため、固定堰を切り下げて起伏ゲートを設置し、現在の堰堤が築かれています。

 

(「」HPより)

※二ヶ領用水

全長32キロの二ヶ領用水の名は、旧稲毛領と川崎領の二ヶ領の農地に水を引くために江戸時代初めに建設された人工用水です。用水は慶長14年(1611)に代官小泉次太夫によって完成しました。それまで、この二ヶ領は水利事情が不便で、水田工作による農業生産基盤が脆弱でした。二ヶ領用水完成により、米の収穫量が飛躍的に伸びたと伝えられています。百年後、欠損、荒廃が進んだ状況になりましたが、享保9(1724)年、本格的改修工事を経て現在にいたっています。明治以降は、横浜水道の開設(明治6年)などにより、飲料水、工業用水としても利用されました。また、生活用水としても、近年まで利用されていました。中野島から取り入れられた水は、紺屋前の堰に至り、ここから新田堀、高田堀、水車堀、東堀、鮒堀などに分かれて、登戸一帯の耕地を潤しました。堰の名として残る「紺屋」も用水を利用した藍染め屋が近くにあったことに由来しています。現在も、市北部では農業用水として、あるいは、環境用水として利用されています。

(「同」HPより)

豪快な水音がします。

下流方向。

                  

        

魚道。アユが遡上するようです。

           

この付近の今昔。

1880年代のようす。「二ヶ領用水」取水口。

2010年代のようす。

堰堤の右にある水路は、「三沢川」。「二ヶ領用水」は、サイフォンの原理で南下します。

先に進みます。

多摩川自然観察緑地。

   「日活調布撮影所」があるようですが、どの建物か?

対岸。川崎市多摩区中野島。

         水鳥の姿が。

上流を望む。

河原が広がる。

振り返る。よみうりランド」(↓)が遠くに。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その3。石原水位観測所。ナヨクサフジ。京王閣競輪場。多摩川橋梁 (京王相模原線)。ワンド風な水辺。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-27 21:51:36 | 都県境を探ってみる

対岸(右岸)を望む。

                          「多摩川原橋」左岸からの稲城市内。

ここから下流に向かいます。

都県境を望む。

                 川崎市側は野球場として整備されています。

「石原水位観測所」。

 

           都県境のすぐ下流側にある

流れ近くに歩いていきます。

水辺の草花。ナヨクサフジ。

ナヨクサフジは紫色の花を咲かせるマメ科の越年草。ヨーロッパ原産です。元は飼料として輸入されたものが日本で帰化したと言われています。空き地や河原、その他いろんな場所で野草として見かけることの多い花です。

ナヨクサフジの英名はsmooth vetch(スムースベッチ)、あるいは winter vetch(ウィンターベッチ)。vetch(ベッチ)とは、ソラマメの仲間を指す英名です。

葉の先端からつるを分岐させて、周囲の植物に絡みつきながら生長します。草丈50cm~1m以上まで大きくなり、よく繁茂します。

花付きが良く、花期には紫色の濃淡のある花をいっぱいに咲かせます。ナヨクサフジの群生する姿は、遠くから見ると紫色の波のようで見惚れてしまうほどの美しさです。

            この先、けっこう見かける花です。

タンポポ。

土手の向こうには、

                 「京王閣競輪場(東京オーヴァル京王閣)」(東京都調布市)。

「多摩川橋梁 (京王相模原線)」。

  左手先に「京王多摩川駅」。

   河川敷の広い緑地。

      保育園児の歓声が響く。ベンチで休む老人。のどかな雰囲気。

多摩川案内図。

                50㌔にわたって整備され、下流のゴール地点まで描かれている。

詳細図。

            ワンド風な水辺に釣り人がたくさん。

※ワンドは、水流が穏やかなので、淡水魚の生息に適しており、水生植物が繁茂するところは、魚の産卵や稚魚が暮らす絶好の場所となっている。

        「海から26.4K」。

しゃれたおうちが多い。

前方に堰堤が見えてきます。

穏やかな日差しの下、のんびりと。 

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その2。渡船場跡碑。多摩川原橋。水道橋。多摩川左岸 海から28K。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-26 20:44:19 | 都県境を探ってみる

右に折れて進むと、「多摩川」沿いの道路脇に「渡船場跡碑」。

       

矢野口の渡しは矢野口と調布を結ぶ渡船場で矢野口村と菅村で運営されていた。渡し場は多摩川原橋のやや下流にあった。昭和10年の多摩川原橋の完成で下菅の渡しと統合され菅の渡しとなった。矢野口の渡しは新田義興が謀殺された矢口の渡しとする説もある。

※多摩川にあった渡し場

 川に橋を架けるということは、近代以前では大変難しく、有力な街道の渡河点でも橋がなく、多くは渡し舟によっていました。
 1600(慶長5)年に東海道が多摩川を渡る六郷では、長さ120間(約218m)の六郷大橋が架けられましたが洪水のために何回も流れ去り、一時仮橋の時代があったものの、結局明治7(1874)年まで六郷の渡しとして橋のない状態が続きました。また、甲州街道の日野の渡し、日光街道の拝島の渡しのほか、大山街道の二子の渡し、津久井往還の登戸の渡しのような脇往還の渡船場も発達していました。このように主に旅人がわたる渡船場が多く、また発達していたことが江戸に近い多摩川の渡船場の特徴であったといえます。しかし一方で、多摩川で最後まで残った菅の渡し(昭和48年廃止)などの生産物の出荷や対岸の田畑耕作に主として利用された作業渡しがあったことも忘れてはなりません。
(参考文献:「多摩川誌」建設省京浜工事事務所)

(この項、「」HPより)

※渡し場のうちで、「旧東海道」の「六郷の渡し」、「甲州街道」の「日野の渡し」、「日光街道(日光八王子同心街道)」の「拝島の渡し」は、それぞれ、歩いたときに通過しました。

通りの反対側にある緑地は、川崎市になります。

                        左手・上流にある「多摩川原橋」。

東京都道・神奈川県道19号町田調布線鶴川街道)を渡す。右岸は稲城市、左岸は調布市である。右岸下流は200m足らずで神奈川県川崎市に入る。旧橋は1935年(昭和10年)に架けられた。現在の橋は、旧橋の老朽化と交通量の増大のために架け替えられた。2車線の橋が上流側に1998年(平成10年)に、下流側に2006年(平成18年)に完成し計4車線を通す。上流側には多摩川原水道橋が架かる。

下流を望む。

                  都県境は、右から左へ。

この先、都県境は90度曲がり、多摩川が都県境となり、河口まで続きます。

稲城市方向を望む。

ここからは、左岸(東京都側)を歩くために、「多摩川原橋」を渡ります。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。線路は、JR南武線。

                     1880年代のようす。「矢野口の渡し」がある。

赤い線が都県境(右から左へ)。

ただし、多摩川両岸の真ん中をたどるわけではなく、河川の中をけっこう屈折しています。(赤い線)

アーチ橋は、水道橋。

                  稲城市に給水するための橋。

すぐ河原には下りられず、少し上流を回り込んでから、河川敷の遊歩道に。

「多摩川原橋」。

「よみうりランド」方向(↓)。

「多摩川左岸 海から28K」。いよいよ河口を目指します。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その1。川崎市多摩区菅城下。稲城市と川崎市。府中街道。臨時給水さく井。旧渡船場道馬頭観世音塔(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-25 21:19:37 | 都県境を探ってみる

いよいよ多摩川に向かいます。

「よみうりランド」から越えてきた都県境は、「三沢川」を横断し、「多摩川」方向へ。

当方も、かなりはしょりましたが、やっと。

(「気象協会」HPより借用)

     ○の複雑な都県境。主に東京都町田市と神奈川県相模原市、横浜市、川崎市との境界線。

初めに「境川」沿いを歩き、その後、多摩丘陵を上がったり、下ったりしてここまでたどり着きました。

駅前の案内図。

4月21日(金)。晴れ。

「京王よみうりランド駅」下車。駅前広場に、大勢の若者が集まっています。「よみうりランド」に向かうのでしょうか?

都県境標示のところへ。

             「三沢川 ←神奈川県横浜川崎治水事務所  →東京都南多摩東部建設事務所」。

対岸の標示。「よみうりランド」方向。崖になっています。

「三沢川」(下流方向)。

      

ここからスタート。多摩川に向かいます。

対岸の深い森を背に、

京王線のガードをくぐります。

「(川崎市)多摩区菅城下」。

しばらくウロウロし、「川崎市立菅中学校」の脇を進むと、

資源回収の看板「稲城市」を発見。

この付近は、稲城市になるようです。

この細道が都県境。右が川崎市、左が稲城市。

その先、ちょっと不明になる都県境。川崎市の下水管マンホールがある。

都県境は、曲がりくねる小川に沿って北西に。その少し東の道を歩きます。

畑が広がる。

                畑の左向こうに、都県境がある。

「府中街道(川崎街道)」に出ます。「川崎市多摩区」。

「東京都稲城市」。

「鶴川街道 ←町田 →調布」。

通りを越えた「セブンイレブン」脇の道が都県境。

   右が川崎市、左が稲城市。

右手に「川崎市臨時給水1号 さく井」。

多摩区にある上下水道局の保有する井戸の有効利用を図るため、水質良好な井戸を災害時の備えとして、臨時給水用井戸に整備しています。

※「さく井(せい)」=井戸を掘ること。漢字で書くと、「 鑿井」。

JR南武線ガードをくぐります。仕切り弁が数カ所見えます。

       

                 川崎市のマンホール。

都県境をたどると、突き当たり(稲城市内)に、

「旧渡船場道馬頭観世音塔」。

          

・・・江戸時代後半期から明治・大正にかけて各地に馬頭観世音の石塔が建立されるようになったのは、農村において馬の果たす役割がたいへん増大したことと深い関係があると思われる。この馬頭観世音塔は、多摩川のもとの渡船場の近くにあり、文化13年(1816)に建立され、市内に現存する最古のものである。・・・台石には願主矢埜口邑(矢野口村)をはじめ造塔に協力した相当に広範囲な19の村名が記されている。この渡船場の重要さをよく示しているといえよう。

右奥にJR南武線「矢野口駅」があります。

この付近は、稲城市矢野口。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その7。よみうりランド。「スカイシャトル」に乗って空の旅。ジャイアンツ球場。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-24 20:34:57 | 都県境を探ってみる

坂道を下り、右に折れると、「よみうりランド入口」へ。

左側が稲城市。

都県境は、目の前の「丘の湯プラザ」敷地内を抜け、「よみうりランド」、「ジャイアンツ球場」等へ進みます。

その先、北東に広がる「小沢城址特別緑地保全地区」から「三沢川」へ向かいます。

賑やかな歓声が響く「よみうりランド」。バスターミナルで小休止し、さてどうするか?

膝も痛くなってきたので、ここでリタイヤー。空から都県境付近を眺めることにします。

(「よみうりランド」HPより)

「ゴンドラ スカイシャトル」に乗って、「京王よみうりランド駅」まで空中探訪、ということに。

「片道300円」。

      

ジェットコースターが間近を通過します。

「慶友病院」脇が都県境。

        

「よみうりランド妙見堂」。

        左手を回り込むように都県境が続きます。

「ジャイアンツ球場」。

                       二軍戦を開催中、大きな声援が聞こえます。右奥に「都県境」が。

眼下に「京王よみうりランド駅」。

 

          稲城市の街並みが広がります。

西方向。

スカイシャトル「京王口ステーション」終点から、よみうりランド方向を見上げる。

「京王よみうりランド駅」。

森の中の道(都県境)をカットして、次回は、いよいよ多摩川に出ます。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その6。ゴルフ場内に進む都県境。川崎授産学園・ソレイユ川崎。よみうりゴルフ倶楽部。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-23 15:59:51 | 都県境を探ってみる

住宅地の道がなくなり、急にフェンスの中に。雨水用の溝でしょうか、鉄製のふたがかかった細道に。

行けそうなので、歩いてみます。

右手下の住宅地が見下ろせます。

   高台を歩いています。

ひょっこり広い道に。

                         左手に、「新ゆり展望の丘墓苑」。

「TYCCコース管理事務所」。

      「東京よみうりカントリー倶楽部」のようです。左手一体にコースが広がっています。

しばらく都県境になっているフェンス沿いの道を進みます。

道の右には、「不法投棄厳禁」という川崎市の掲示板。

左には、稲城市のものが。。

 

                            (手前)川崎市と(向こう)稲城市のマンホール?

この先で、都県境は、ゴルフ場の中に進んでいきます。

振り返る。

              

ゴルフ場沿いに進みます。

右手の森。

                   「向原の森公園」。

「川崎授産学園」。

川崎授産学園は、国際障害者年(1981年・昭和56年)に『人間の尊厳と社会的公正をめざし、ここに市民世代連帯の共同事業としてこの学園を設ける』という理念のもと、障害者のための複合施設としてオープンしました。
 四季折々の自然と広大な敷地に恵まれた環境の中で、地域福祉の拠点として各種事業を展開するとともに、利用者の権利を保障し、個別のニーズや意志・希望などを最大限に尊重した利用者本位のサービス提供と、利用者が地域で自立した生活を営むための支援を行っています。(「川崎授産学園」HPより)

 

「ソレイユ川崎」。

ソレイユ川崎では重度の知的障害と肢体不自由が重複している方を90数名(定員100名)お預かりしております。年代も幅広く、2歳から60歳台の方もおられます。人工呼吸器を離せず、毎日医療上の処置、対応が必要な方も少なくありません。そこで、施設内に医療設備を完備して常勤医師3名、非常勤医師8名にて対応しております。ソレイユ川崎は児童福祉法上の福祉施設であり、医療法上の病院でもあります。
こうした利用者の方へのケアはどうあるべきか、江川施設長は「向き合わない介護」そして「思いを合わせない介護」と2つの項目を挙げています。この考え方は施設紹介のDVDにも収録されていて、『「向き合わない介護」、「思いを合わせない介護」とはもちろん、背を向けることではなく、まず親御さんの気持ちをよく理解して施設の介護・医療方針と折り合えるところを見つけながら進めることを意味します。その上で、入居者の方のそばにいて、響きあう関係を保ちながら一緒に楽しみを味わっていけるような、さりげないケアを提供していく事が大切です。』と施設長自身やや逆説的であると述べています。

(この項、「」HPより)

※「津久井やまゆり園で起きた殺傷事件に関して」声明文

平成28年8月10日 神奈川県重症心身障害児者協議会

会 長  江川文誠(ソレイユ川崎)
副会長  髙橋協(小さき花の園)
副会長  庄司七重(朋)

平成28年7月26日相模原市の津久井やまゆり園で起きた殺傷事件は、障害のある人々とその家族、また障害児者の人生を支える多くの人々に大きな衝撃をあたえ、そこから生じた不安が広がっています。

神奈川県重症身障害児者協議会として、この事件で犠牲になられた利用者のご冥福をお祈りするとともにご家族に哀悼の意を捧げます。また,怪我をされた方々に、お見舞いを申し上げるとともに一日も早い回復をお祈り申し上げます。

容疑者が唱える「重度の障害者は生きている価値がない」との主張はもちろん許されるものではありません。しかしそのような主張が生まれる土壌がこの地球上にはまだ厳然と存在します。障害のある方の傍でその命を支える仕事を選んだ人間の足元にもその土壌が広がっていたことが、今回の事件をより一層暗いものにしています。私たちの協議会は重度の障害のある方が利用する福祉施設での仕を志したメンバーで構成されています。仕事をする仲間の中から今回のような考え方を持つ人が生まれたことを直視しなければなりません。

今回の事件報道により容疑者の主張が世間に紹介される状況に対して、私たちは通常の支援の仕事をするだけではなく、それらを打ち消すメッセージを社会に対して発していく必要があります。障害のある人の生活の中に存在する真の幸せについて、障害のある人とその家族が紡ぎだす幸福の形について、施設で生活しながらも地域とつながりながら豊かに生きる姿について、その精一杯の人が時に人の生き方をも変える力を持っていることについて、競争社会に生きている人が忘れかけている人間の本当の価値について、それを日々実感しているはずの私たちが訴えていく必要があるのです。

・・・

「(川崎市)麻生区細山」。

やっと「よみうりゴルフ倶楽部」に到着します。

        

ゴルフ場内に進んだ都県境は、ここでやっと道路に出てきます。

左手から右手の道へ。

    

正面に「よみうりランド」の観覧車が。        ゴルフ場方向を振り返る。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その5。麻生区金程。満開の藤の花。金程調整池。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-22 13:54:10 | 都県境を探ってみる

川崎市麻生区金程。

前方に、「東京都 稲城市」。

振り向くと、「川崎市 麻生区」。

通りを渡って「麻生川」沿いに進みます。

                        右手が川崎市、左手が稲城市。

すてきな満開の藤の花。

                   横に這わせています。

「金程調整池」。

川沿いに進みます。

曲がりくねった道を進む。左に「平尾山王橋児童公園」。

緩やかな上り坂。

                

この先、山道風になります。

           左手には「宅地造成工事地域(稲城市)」。「よみうりランド」が造成主。

都県境標。

川崎市と稲城市の連名(→)。左手が川崎市に。

森を抜けると、住宅地に。

「よみうりゴルフ倶楽部」の広大なゴルフ場の脇をたどります。

                             フェンス沿いの道。右手は、住宅が並ぶ。

                               (「今昔マップ」より)

○が「新百合ヶ丘総合病院」、→が都県境。60年代後半でも住宅地は少ない。その後の開発で住宅が建ち並ぶことに。

病院の西側、北側に一部、緑地が残っている。「新百合ヶ丘駅」付近は、大規模な住宅地に。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その4。深い森と大きな畑地。「お地蔵になった、たぬき」。新百合ヶ丘総合病院。麻生(あさお)川。稲城市平尾。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-21 21:34:11 | 都県境を探ってみる

住宅の脇の細道を進みます。

都県境標。 

右手の畑地と奥の森。

川崎というと臨海のコンビナート、大きな工場が立ち並ぶ印象(「京浜急行(京急)を利用して出かけることが多いため)が強いのですが、こうした農業地帯が広がっていることに驚きました。

振り返る。 

「お地蔵になった、たぬき」解説文。 

境界標(川崎市)。

東電の送電線。

稲城市側(左)にも畑が広がる。

           

畑の中の道を進むと、

「新百合ヶ丘総合病院」の裏手に出ます。

都県境は、この先、左に折れていきます。

病院を回り込みます。

               右手の森の中を都県境が続いています。

「麻生(あさお)川」に出ます。下流方向。

上流方向。

森からの道が都県境? 

その道の東側は、稲城市平尾。

振り返ると、川崎市側。

      左手奥の方に、小田急線「新百合ヶ丘駅」があります。

この先からしばらくは、「麻生川」が都県境になります。

左は、稲城市。多摩ナンバー。

川の向こうは、川崎市。

車の流れの激しい道へ。

都県境は、麻生川に沿って続きます。            

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