おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その3。五力田谷戸特別緑地保全地区。「平尾入定塚」・「平尾十三塚」。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-19 21:46:34 | 都県境を探ってみる

しばらく山道が続きます。右が川崎市、左下が稲城市。

稲城市平尾。

都県境標。

右手には竹林や雑木林が。

                

山道が終わり、公道に。

   この奥の森へは立入禁止区域。 

都県境にあたるの森の左手には、「平尾入定塚」跡、さらにその先には、「平尾十三塚」があります。

「平尾入定塚」は、見逃してしまいましたが、  

「平尾十三塚」解説板。

            奥の森。

平尾十三塚(ひらおじゅうさんづか)

東京都稲城市平尾二丁目と、神奈川県川崎市麻生区五力田の境にある十三塚。東京都内で唯一、13基の全てが現存している十三塚である

稲城市平尾は多摩丘陵を造成して平尾団地が建設されるなど、丘陵地帯だが開発が進んだ地域である。

平尾十三塚は、この平尾団地南側の造成を受けていない区域にあり、稲城市と川崎市との境界をなす丘陵稜線上に13の塚がほぼ東西向きに整然と並んでいる。一般的な十三塚に見られる通り、中央の塚(7号塚)がやや大きく、両側に6基ずつやや小さい塚が並ぶ

なお平尾十三塚の近くには、1536年(天文5年)に長信という僧侶入定を遂げるために埋められた「平尾入定塚」がある。また少し離れた平尾一丁目には江戸時代中期の1708年宝永5年)に築造された「平尾原経塚」があり、平尾仏教関係のが密集している地域でもある。

1959年(昭和34年)と1968年(昭和43年)に発掘調査されており、中央の7号塚を中心に調査が行われたが、これも一般的な十三塚に見られる事例と同じで出土品等が全くなく、造られた年代やその目的などは不明のままとなった

稲城市の馬場家に残る1686年(貞享3年)の裁許状(馬場家文書)によると、平尾村と片平村・古沢村(川崎市側の村)との間で入会地をめぐる争いがあり、昔からこの地にある平尾入定塚と平尾十三塚を結ぶ線を村の境界に定めたという。このため、江戸時代前半よりは古い時代からあったことは確実とみられている

※平尾入定塚(ひらおにゅうじょうづか)

東京都稲城市平尾二丁目にある、16世紀前半(室町時代末期)に築造された発掘調査により、1536年8月31日天文5年8月15日)に長信という修行が内部に埋められ、「入定」を遂げた塚であることが判明した。

稲城市平尾は多摩丘陵の山野を開発して平尾団地が造成された。入定塚は平尾団地内の造成を受けていない区域にあり、フェンスごしに見学することができる。出入り口の近くには入定塚の歴史と、稲城かるたの「入定の 長信坊は 塚残し」という碑文と長信坊の絵札が記載された石碑がある。・・・少し離れた平尾一丁目には、江戸時代中期の1708年宝永5年)に築造された「平尾原経塚」がある。

入定塚は1959年(昭和34年)8月に発掘調査された。塚は一辺が約10.8メートル四方の正方形をしていて 、内部には、礎石を伴う4本柱と板材を組んで作った1.8メートル×2.1メートル、高さ推定1メートルの地下空間があった痕跡があり、板材を打ち付けるための鉄釘7本や、鉄製の刀子1本、銅銭44枚、板碑9枚が発見された。このなかの板碑の1枚に「天文五年丙申八月十五日、長信法印入定上人」と金泥を塗り込んだ文字が彫られていたことから、室町時代の1536年(天文5年)に僧の長信が入定を果たすためにおそらく生きたまま中に入り、そのまま埋められた塚であることが解った。

中世から江戸時代にかけて、真言密教系の僧侶の中には、弥勒菩薩来迎を待ち、衆生の救済を願って、を唱えながら土中に埋められ入定に至るという過酷な修行をする者たちがいたが、平尾の入定塚はその実例であり、作られた年月日まではっきりとわかる遺跡として貴重なものであったため、発掘調査時の図面などの資料と合わせて稲城市の文化財(考古資料)となった

入定(にゅうじょう)は、真言宗に伝わる伝説的信仰。原義は単に「(ぜんじょう)にる」という意味だが、ことに弘法大師空海が永遠の瞑想に入っているという信仰を指す。・・・後世、断食・生き埋めなど苦行の果てに絶命してそのままミイラ化する、いわゆる「即身仏」となる行為も、空海の入定信仰にあやかって俗に「入定」と呼ばれるようになった。しかし、それは真言密教の教義に由来するものではなく民間信仰の領域であり、空海の入定信仰とは本質的に異なるものである。(「Wikipedia」より)

その先、住宅地の右下に畑地が広がる。

       

           農作業に忙しいようす。その脇の小道を保育園児が元気に坂を下りていきます。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その2。「あさおウオーキングマップ」。栗木台見晴し緑地。四阿。ウグイスのさえずり。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-18 20:41:26 | 都県境を探ってみる

道なりに上がっていくと、ひょっこり、畑に出ました。

農作業中の方に話を聞くと、「ここは、稲城だよ。右の森の向こうは、黒川。この辺一帯は、黒川と言っていたんだ。」

「この先はどう歩けば? 」「この先を進むと、十字路の道に出会うから、そこを左に曲がっていけばいいよ。」

ということで、一安心。

   「あさおウオーキングマップ」川崎市の立てた案内図。

「栗木台見晴し緑地」から階段を下りて住宅地へ。

見上げると、けっこう急な階段。都県境は森の中に続きます。

右上に「栗木台まみ沢公園」。

都県境は左上から右下へ。そして、通りを横切ります。

この道を上がります。 川崎市の境界標」。

左は、稲城市平尾。

眼下は川崎市麻生区栗木台。

振り返ると、右が稲城市に。黄色いガードが目印?

稲城市のマンホール。

右が川崎市、左が稲城市。

振り返ると、右が稲城市、左が川崎市。 

「平尾外周通り」を進みますが、

右上の尾根道が都県境になっています。

「平尾住宅」案内図。

※住宅南の道路が「外周道路」で、都県境の尾根道に沿っています。

尾根道に上がる階段があったので、

                       平尾住宅(稲城市平尾)を見下ろす。

「尾根道・都県境」(北を望む)。左が川崎市麻生区白鳥。

川崎市のマンホール。

住宅地から山道になります。途中、見晴らしのいいところへ。

都県境標。川崎市のもの。

途中、「五力田見晴し公園」(麻生区白鳥)に。四阿があり、景色を眺めながら、小休止します。

川崎市内を望む。

しきりにウグイスのさえずりが聞こえてきます。

の付近の案内図。

   赤い線が尾根道(都県境)。北が稲城市、南が川崎市。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その1。若葉台駅北口。稲城市のマンホール。三沢川。黒川東営農団地。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-17 20:27:18 | 都県境を探ってみる

4月14日(金)。曇り。「晴れ」の予報でしたが、黄砂のため薄曇り、ということに。

京王線「若葉台駅」北口下車。

     駅前は、都県境が入り組んでいます。右手の店舗は川崎市麻生区黒川、左手のマンションは、稲城市若葉台。

左手に、一部が都県境になっている建物。

「ローソン」の裏手が都県境。

都県境。「若葉台駅」を望む。

北が「東京都 稲城市」。

南が「川崎市 麻生区」。

境界標。東京都のマーク(↓)。

稲城市のマンホール。

                    市章と市の木イチョウの葉。

都県境は、正面奥、三沢川を越えて、南東に向かいます。

「三沢川」。上流方向。

三沢川は多摩丘陵内を流れて多摩川に注ぐ川であるが、三沢川の左岸は若葉台、向陽台という多摩ニュータウン地域となっている。三沢川流域の多摩ニュータウン開発に際して最も問題となったのは、多摩ニュータウンの雨水の処理方法であった。新たに里山を切り開いて街を作るとなると、街に降った雨水を何らかの形で処理しなければならない。しかし当時既に三沢川の流量から見て、新たにニュータウンを作った場合には、洪水発生のおそれが否めなかった。しかし三沢川下流は多摩ニュータウン開発を行っていた東京都ではなく、神奈川県川崎市が管理する部分であり、東京都の事業のために川崎市の財政支出によって三沢川改修を依頼しても断られることは見えていた。そこで考案されたのが、現在の稲城中央公園の下からトンネルを掘って川崎市内をバイパスさせて直接水を多摩川に落とす「三沢川分水路」であった。このアイデアにより、向陽台、長峰、若葉台といった稲城市内の多摩ニュータウン開発が可能となったのである。

源流付近。

(この項、「Wikipedia」より)

※「三沢川分水路」。太線が都県境。

迂回し、都県境へ向かいます。

                    「黒川東営農団地(川崎市麻生区黒川)」内の道。

黒川東営農団地は畑作が中心で、秋はサツマイモ・落花生の収穫体験ができます。休日は家族連れや会社の福利厚生等の利用で賑わい、平日は幼稚園など子供たちがたくさん訪れています。

(「」HPより)

見晴らしのよい高台。

                      若葉台駅方向を望む。

畑が広がる。

          

左手奥の森が都県境に。

都県境は、左手から右手へ続く。

                    森の向こうには、「東京都立若葉総合高等学校」や「日大総合グランド」が。

いよいよ都県境の山道に。 

足もとには、

               右が川崎市、左が稲城市。

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小田急バス「真光寺公園」~京王線「若葉台駅」。その5。「よこやまの道」東端。丘の上広場公園・弓の橋。デンマークイン。多摩市・稲城市、川崎市。(「都県境を探ってみる」。第18回目)

2023-04-16 21:02:01 | 都県境を探ってみる

ようやく東端に。「弓の橋」。

             「多摩東公園」(東京都多摩市諏訪)を結ぶアーチ橋。

           

           通りの向こうは、「多摩東公園」。

「丘の上広場公園」(多摩市)。

           都県境界にある公園。「よこやまの道」の東順路の終点です。

ここを右折し、京王線「若葉台駅」へ向かいます。

この道が都県境になっています。境界標石。

                   

多摩市聖ヶ丘。右手は稲城市になります。

「介護老人保健施設デンマークイン若葉台」(稲城市)。

デンマークインとは?
 
正式名称「デンマークINN」とは高齢者福祉先進国であるデンマークが掲げる「高齢者福祉3原則 ①自己決定の尊重 ②残存能力の活用 ③生活の持続性」を守り、「INN(小さなホテル)」のように気楽に高齢者の方々が宿泊し、食事をし快適な生活を送れるようスタッフ一同がおもてなしをする気持ちでサービスを提供することを願って名付けたものです。
(「」HPより)
 
下り坂を進みます。都県境は、この道を離れ、右手に進みます。
 
都県境は、この藪の中?
 
大きな道路を越えて向かい側に。
 
                     道路の向こうに「川崎市麻生区」の標示が見えます。
 
こちら側は小さく「東京都」(→)。
 
都県境は、「京王電鉄 若葉台車両基地」内に。
 
         
 
道路の向こうの都県境を振り返る。
 
迂回し、駅に向かいます。稲城市のマンホール。
 
                 市章と市の木イチョウの葉。 
 
この先を右折し、大きな車両基地の脇に出ます。 
 
都県境は、構内を右から左へ。 
 
この先で、都県境は、道路沿いに。
 
 
「若葉台駅」北口付近が都県境(稲城市若葉台と川崎市麻生区黒川)になっています。
 
 
今回は、ここまで。
 
次回は、
駅前の都県境の確認から。
 
都県境ともなっている「多摩よこやまの道」は、アップダウンも少なく、快適な散歩道。行き違う地元の方々と会話を楽しみました。
 
この付近の今昔。
                     2010年代のようす。右端に「若葉台駅」。
 
                                 (「今昔マップ」より)
 
  ↓が「若葉台駅」。開業は、1974年(昭和49年)。周囲に広がる住宅地は、多摩ニュータウン構想の一環。 
 
1970年代のようす。
 
京王線「若葉台駅」や車両基地を造成、建設中。周囲も住宅地として開発中。古くからの黒川の集落がある。 
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小田急バス「真光寺公園」~京王線「若葉台駅」。その4。瓜生黒川道。黒川はるひ野。諏訪ヶ岳・三角点。小田急線「はるひ野駅」。(「都県境を探ってみる」。第18回目)

2023-04-15 21:20:24 | 都県境を探ってみる

いったん下って、広場に出ます。「よこやまの道」碑。

「瓜生黒川道」案内板。

「多摩よこやまの道」に交差するこの山道は、川崎市麻生区の黒川と多摩市永山の瓜生を結んでいた江戸時代頃から近代にかけての往還道で、昭和の初めまで黒川の特産品であった「黒川炭」や「禅寺丸柿」などを八王子方面や江戸市中に運ぶ近道でもありました。また、武蔵六所宮(現大国魂神社)の神前に供える汁物を調整していた黒川の汁守神社前からこの尾根までの間に、「街道」を意味する「海道」の字名が今でも残っています。

※町田市真光寺には、「飯守(いいもり)神社」という神社があり、ここは汁守神社の汁物に対して「飯物」を調製したと伝えられている。

尾根道から黒川に向かう山道。

「黒川はるひ野」解説板。

「黒川」の名の由来は、川の水が澄んで川底が黒く見えたためと言われています。かつては、村人達はこの水を利用して稲作を営み、山の斜面に植えたクヌギやコナラなどの雑木を伐って「黒川炭」と呼ばれる良質の炭を作って暮らしていました。

市街地化が進む川崎市において市域に残された斜面緑地の保全を目的として緑地保全地区が指定されています。隣接する住宅地の里地環境と一体となった景観をなし、多様な動植物の生息・生育空間となっています。また、地区内には昔からの谷戸の姿を残し、自然環境と人の暮らしの共生について学び体験する場もあります。

しばらく山道が続くと、

「諏訪ヶ岳」の三角点に。

    広場風になっています。

ここにも古びた「よこやまの道」碑。

 

     「雑木林の若返り(萌芽更新)と根株移植」。

この付近では、尾根道が都県境のようです。

右下が開けてきます。

        「多摩丘陵の桜あれこれ」解説板。

木々もまばらになってきます。

左側(北方向)。切通しのような地形。

小田急線が眼下に。

遠く右下に小田急線「はるひ野駅」。

満開の桜(4/1撮影)。

そろそろ「多摩よこやまの道」の東端に近づいてきます。

足もとには境界杭が二つ。足元注意 境界杭あり 多摩市」。

「多摩よこやまの道」案内板。

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小田急バス「真光寺公園」~京王線「若葉台駅」。その3。「よこやまの道」案内板。防人見返りの峠。「都県境」境界標。古代東海道・鎌倉街道。(「都県境を探ってみる」。第18回目)

2023-04-14 20:48:56 | 都県境を探ってみる

「よこやまの道」案内図。 

             東西を貫く尾根道。北側は、住宅等が建ち並び、南側には森や里山が広がっています。

解説板からは、「よこやまの道」を南北に抜ける旧「鎌倉街道」や「奥州古道」等が何本か通り、さらに東西を貫く「古代東海道」などの古道が残っていることが知れます。

              

横たわる美しき尾根のシルエット

多摩丘陵は武蔵の国府(府中)から眺めると横に長く連なる山々でした。夕暮れ時にシルエットとして浮かぶ美しい姿は、万葉時代の人々から「多摩の横山」「眉引き山」などとも呼ばれていました。

はるかな都へ~横山の尾根道

多摩丘陵の尾根道に当たるこの道を「多摩よこやまの道」と名付け、散策路と整備しました。この尾根は古代より武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、また西国と東国を結ぶ交通の証として要衝として活用されてきました。

この東西に伸びる尾根筋には鎌倉古道(鎌倉街道早ノ道、鎌倉街道上ノ道本路、軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、奥州廃道、古代の東海道などの重要な歴史古道(古街道)が南北に交差し、その痕跡が各所に残され、また様々な伝説等も語り継がれています。

古代~中世~江戸時代に渡って政治、軍事、文化、産業、社寺参詣などを目的として、東国西国間の交易を行う商人や武士団、諸国霊場を行脚する巡礼者や都の貴人、官人、また幕末には新撰組ゆかりの人々も行き来したと推測され、歴史とロマンを感じることのできる道です。

万葉ロマン~防人・見返りの峠道

万葉歌では望郷や別れを惜しむ道筋として「多摩の横山」が詠われています。古代、北九州に配置された防人という兵士達は東国から陸路で都へ、さらに難波津(現在の大阪府の海岸)から舟で瀬戸内海を通り九州へ向かいました。

再び生きては戻れない覚悟の彼らが、この「多摩よこやまの道」の尾根で故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ姿が浮かんできます。

多摩丘陵~里山の自然

「多摩よこやまの道」の尾根道は暮らしの道でもありました。農林業が生活の中心だった時代には、多摩丘陵一帯に田園風景が広がっていました。

「多摩よこやまの道」には多摩の農村風景が所々に残されています。多摩丘陵の南側(町田市、川崎市)、北側(多摩市、八王子市)両側を眺めながら、尾根沿いに残された里山ともふれあえる道です。

左手の視界が開けてきました。

               前方の丘に向かいます。

   「防人見返りの峠(多摩丘陵パノラマの丘)」案内板。

東西に伸びる弓なりの尾根道

この尾根の高台は、東西(左右)に伸びる多摩丘陵の長大な尾根の上にあり、その全体が弓なりになっているのが見えます。

この尾根は、町田市相原町を経て相模原市城山湖にある後方高台の「三沢峠」、東は多摩川に面した多摩市連光寺向ノ岡まで通じています。合わせて全長約24㎞の尾根となり「多摩丘陵の背骨」とも呼ばれています。

富士山や丹沢・秩父連峰の山並み、狭山丘陵も見られる丘

この丘は標高約145mで、南西~北東にひらけた展望ポイントです。西は多摩川や浅川に面した七生丘陵、広大な武蔵野の向こうには遠く狭山丘陵も展望できます。ここから見る風景は、太古以来の先人たちも繰り返し眺めてきたことでしょう。

多摩ニュータウンの建設に伴い、約1千カ所の遺跡発掘が行われました。現代のニュータウンの下に、はるか昔、縄文時代のニュータウンが存在したことがわかったともいわれています。

歴史ある豊かな農村から新しい街へ―多摩川とその支流の恩恵に育まれ、大地と接してきた人々により営々と暮らしが営まれてきました。今、その穏やかな風景がよみがえってきます。

北西側。

北東側。

                 「防人 見返りの峠」。

先に進むと、右手は畑になっています。農作業中の人の姿も。

「都県境」境界標? 

「よこやまの道」を歩いていて、初めて確認できました。

右手には、深い森が続きます。

「古代東海道と丸山城」。

              

                  

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小田急バス「真光寺公園」~京王線「若葉台駅」。その2。谷戸の最奥。国士館大。「よこやまの道」。川崎市の最西端。(「都県境を探ってみる」。第18回目)

2023-04-13 21:33:36 | 都県境を探ってみる

農作業が進む田畑の路を歩き、

山道に入ります。

         この先、国士館大のところで、都県境と再会します。

      この道を向こうから親子が自転車でやってきので、ビックリ!

              

谷戸の最奥付近。

都県境にもなっている「よこやまの道」に出会います。

「よこやまの道」

「よこやまの道」は、万葉集において多摩の横山と詠われた多摩丘陵の尾根部に位置し、「多摩の自然と歴史にふれあう道」を基本テーマに整備が進められてきました。
既存の山路や尾根沿いに残された自然や緑を積極的に活かしながら、樹林内の散策路や休憩広場、多摩市域を一望できる展望広場等が整備され多摩丘陵や多摩ニュータウンの風景とともに、四季折々の自然に親しみ地域に残る史跡や伝説の歴史文化にふれあうことのできる全長約10kmの遊歩道です。

よこやまの道の由来

「赤駒(あかごま)を山野(やまの)に放(はが)し捕りかにて 多摩の横山徒歩(かし)ゆか遺(ゆ)らむ」万葉集(巻二十・四四一七)豊島郡の上丁(かみつよろぼ)椋椅部(くらはしべ)荒虫が妻 宇遅部(うじべ)黒女(くろめ)

この万葉集は「赤駒を山野の中に放牧して捕らえられず、夫に多摩の横山を歩かせてしまうのだろうか」という防人の妻の心づくしの歌です。
東国から遠く北九州で国防の兵役につく防人は、再び故郷の土を踏むことはほとんどありませんでした。武蔵野を眺望できる横山の尾根道で故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ防人の姿が浮かんできます。
『よこやまの道』はこの万葉集の[横山]から名づけました。

出展:講談社「萬葉集 - 全訳注 原文付 -」

歴史文化の道~多摩ニュータウンの尾根筋~

「よこやまの道」の位置する尾根筋は、古代より武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、また西国と東国を結ぶさまざまな交通の要衝として活用されてきました。
この尾根筋には、鎌倉古道(鎌倉街道早ノ道、鎌倉街道上ノ道、(仮称)軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、奥州廃道、古代の東海道、などの重要な歴史街道(古街道)が縦走、横断し、その痕跡やさまざまな伝説等が語り継がれています。
古代から中世~江戸時代にわたって政治、軍事、文化、産業、社寺・霊地参詣などを目的として、東国-西国間の交易を行なう商人や鎌倉武士団、諸国霊場を行脚する巡礼者や都の貴人、新選組が行き来したと推測され、歴史とロマンを感じることのできる道となっています。

(この項、「」HPより)

左に折れ、西方に行ってみます。

    国士館大構内から続く「都県境」。

     この付近から都県境は「よこやまの道」をたどるようになります。

「川崎市の最西端」。

「よこやまの道」は、町田市に入り、この先、西に向かいます。

西に向かって歩く人も多い。

 

「よこやまの道」《←西側順路 東順路→》

     東に向かって歩きます。

             「大きく堀割った古街道跡」。

かつて地図のない時代の旅人や物資を運ぶ人たちは、自分の現在地や目的地の方向を知るため、また山賊・敵から身を守るために、なるべく尾根の高台を通りました。この後ろの山の中に、急坂をゆるやかにして同じ調子で楽に荷車や人馬が通行できるように道を堀割った工夫が見られます。

左手は「国士館大キャンパス」・「都立永山高」方向。

     

              「多摩よこやまの道でみられる野鳥」。

木漏れ日の下、行き来する人々が多い。都県境は、東に延びていきます。

              「並列する謎の古街道跡」。

この近くの尾根筋には、数本の古道が並行する大規模な古道跡が残されています。これは防人や朝廷の軍隊が往来した古東海道跡なのか、あるいは鎌倉街道・中世の道跡なのか現在不明ですが、並列する道跡は、荷車や人の通行量の多い時のすれ違いや荷の道の使い分け肩工夫であるかもしれません。

このように、道筋の随所に案内板や解説板が設置されていて、楽しみながら歩くことができます。上にも記されているように、都県境は、現在の「よこやまの道」をそのままたどるわけではありません。道の南側を「つかず、離れず」という感じで進んで行きます。

尾根道の雰囲気がありそう。

左下が開けてくる。

                                     2010年代のようす。東南側には丘陵が広がる。

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小田急バス「真光寺公園」~京王線「若葉台駅」。その1。真光寺公園。町田いずみ浄苑。布田道。(「都県境を探ってみる」。第18回目)

2023-04-12 20:55:57 | 都県境を探ってみる

4月1日(土)。快晴。

前回、最寄り駅だった小田急線「黒川駅」から歩き、尾根道まで上がって「真光寺公園」まで歩こうと思いましたが、上り坂をまた上がるのは、と・・・。

小田急線「鶴川駅」から「真光寺公園」までバスで向かうことにします。

「真光寺公園」。

 大きな公園。満開の桜の下、スロープの芝生で親子連れが走り回っています。

           正面の森の向こうに都県境があります。

付近の案内図。東側(上)が川崎市、西側(下)が町田市。

公園を回り込んで、都県境に向かいます。「川崎市麻生区」。

振り返ると、「東京都 町田市」。

山道から「真光寺公園」へ続いた都県境は、道路を横断して進みます。

   町田市側を望む。

急な階段を下ると、

大きな墓苑が広がります。

                    「町田いずみ浄苑」。通常のお墓だけではなく、樹木葬も行っているようです。

                  広大な敷地。町田市と川崎市の境にある。                                            

桜の園らしく満開の桜。

北側の道が都県境となっています。かつての「布田道」。

 「布田道」解説板 。

川崎市黒川と真光寺町の境目にある尾根の道は「布田道」と呼ばれていました。布田道は布田五宿(現調布市布田)と小野路(現町田市小野路町)の宿を結んでいたのです。

小野路村は、鎌倉時代、鎌倉と府中を結ぶ鎌倉道の上道の宿場でしたが、江戸時代になると府中・小野路・厚木・伊勢原・大山を結ぶ大山街道の宿として栄え、布田道は小野路宿からは甲州街道を経由して江戸に向かう一番の近道として重宝されました。

またのちに新撰組を結成する近藤勇は天然理心流4代宗家として、同流の稽古場を提供していた小野路村の小島家へと、しばしばこの布田道を通って剣術を教えに来たと伝えられています。そして、時には近藤の代理として土方歳三や沖田総司、山南敬介なども布田道を通り小野路へ訪れたといいます。

近藤勇・・・剣術出稽古を通じて多摩の豪農と交流し、特に小野路村の名主小島為政や日野宿の名主佐藤彦五郎等と親交を深めた。小野路の小島家同上には嘉永5年(1852)以来、出稽古に通ったという。

       

※「布田五宿」=かつての甲州街道にあった国領宿下布田宿上布田宿下石原宿上石原宿宿場を指す。

この後、「都県境」は、黒川広町緑地、石神谷戸緑地を通り、その後、電源開発・西東京発電所さらに、国士館大キャンパス内を通っていきます。

この先は途中までしかたどることができないので、戻って、「黒川入り谷戸」へ迂回します。

          

  小さな集落へ。

             

里山風景が広がります。

    谷戸。

左手奥に「明大黒川農場」。

田んぼを眺めながらのんびりと。      

              川崎市のマンホール。   

「明治大学黒川農場」。 

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東急バス「下麻生」~小田急線「黒川駅」。その7。真光寺緑地。左下は住宅地、右下は工業団地。電車接近メロディー・黒川駅と「読響」と。(「都県境を探ってみる」。第17回目)

2023-04-10 20:42:09 | 都県境を探ってみる

先に進みます。

オッとつまずきそうになった! 都県境石。

「真光寺緑地」。

        都県境の尾根道は、この先、「真光寺公園」まで続きます。

のんびりと尾根歩き。

町田市真光寺地区。

2つ並んだ境界標。散った桜の花びらと共に。

散歩には、ほどよいアップダウンの道。

しかし、尾根道を横切るのは、急な坂が左右に。

  

左手下は住宅地、右手下は工業団地に。

高圧電線の鉄塔。

さて、そろそろ黒川駅への分岐点に。

ありました! 反対方向から歩いていると、目につきますが。

都県境(尾根歩き)。今回は、ここまでに。右手の山道を下ります。

四阿のところで、小休止。

    緑濃き尾根道。新緑の季節はもうじき。

下りもけっこう急な坂道。

                   左手に「しゃべりっちょ牧場」。子ども達の声が聞こえてきます。

すると、山道を上ってくる若い会社員。大きな鞄を持って、あえぎあえぎ。

「真光寺公園の向こうの会社に行くんです。いつもは、反対側のバスで行くのですが。今日は、黒川駅から歩いてみようと。」汗をふきふき。

足もとは革靴。元気溌剌の若者。「お元気ですね。向こうの下りも大変そうですよ、頑張ってください。」

工業団地が広がる。

             川崎市麻生区栗木。

下ると、「川崎市黒川青少年野外活動センターへ」脇に出ます。

          ここでも賑やかな子ども達の声が。

       

                 「黒川青少年の森緑の保全地域」。

左に折れて、「黒川駅」に。

構内に

            「クラシック音楽が育まれる街 黒川 読売日本交響楽団」。

            「ここ黒川駅前で、オーケストラが育っています」。

黒川駅と「読響」とどういう関係があるのかな? くらいにしか思わずに、ホームで電車を待っていると、

突然、下りホームにワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の前奏曲が流れ、そのうち、電車が接近してきました。

ビックリと同時に、いささか感動! 待っている間も、クラッシックが聞こえてきます。

クラシック音楽
(小田急多摩線黒川駅 接近)

 神奈川県川崎市麻生区では「しんゆり・芸術のまち」をキャッチコピーに、芸術文化を生かした地域活性化に取り組んでいる。2018年4月、区内の小田急黒川駅前に読売日本交響楽団の練習所が移転し、地域の新たなシンボルとなっている。そこで同年11月3日から、同駅の接近メロディーに楽団が演奏したクラシック曲が使われている。小田急が市と沿線のまちづくりに関する連携協定を結んでいることや、楽団から「一流クラシック音楽を親しんでいただく機会を提供し、地域文化の振興に貢献したい」という理念を受けたことから採用に至った。

 1番ホーム(下り)はW.R.ワーグナー(1813-1883)が作曲した楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』から「第一幕への前奏曲」が、2番ホーム(上り)はフェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)が作曲した「交響曲第4番イ長調『イタリア』」から第1楽章。このほか、構内BGMにも約110曲のクラシック曲が流されている。今回の取り組みを機に、駅構内に楽団の演奏会日程を掲出するなどの情報発信に力を入れて地域活性化に努めるという。

(「ご当地駅メロディー資料館-イベント企画メロディー」HPより)

というわけだったのですね。

次回の歩きもここからにしようかな、と。

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東急バス「下麻生」~小田急線「黒川駅」。その6。栗木山王山特別緑地保存地区。川崎市麻生区・町田市広袴。「桐光学園」。(「都県境を探ってみる」。第17回目)

2023-04-09 18:06:45 | 都県境を探ってみる

尾根道が続きます。

          鶴川方面。

左、眼下に住宅地。

             

下り坂になり、一般道に。

鞍部に。右手は「(川崎市)麻生区栗木」。

  左手側は、「町田市(広袴)」。

再び尾根道に戻ります。

                     右手の川崎市側。

しばらく行くと、右手に「桐光学園」。

      

左・眼下は、町田市。

サッカーグランドでは、試合中。

「桐光学園」は、サッカー、野球などの強豪高。勉強の面でも、神奈川県内のトップレベル。

※卒業生にサッカー選手の中村俊輔さんがいます。

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東急バス「下麻生」~小田急線「黒川駅」。その5。リニア新幹線の工事現場。町田市立鶴川台尾根緑地。(「都県境を探ってみる」。第17回目)

2023-04-08 20:41:50 | 都県境を探ってみる

田園風景が広がる。

一転、大きな工事風景に。

リニア新幹線の工事現場。

  

《関連工事区間》

①多摩川から町田市東部境まで→大深度地下トンネル(非常口を概ね5キロ間隔で設置)

②町田市西部境から相模川まで→大深度ではない地下トンネル

③相模川から山梨県境まで→山岳トンネル(相模川、串川、道志川は橋りょうで渡河)

《車両基地》

相模原市緑区鳥屋付近

このうち、①の区間関連工事のようです。

                 ※ジグザクの細線が都県境。町田市と川崎市をまたいでの工事区間。

神奈川県内にできる新駅は、以前、利用したJR横浜線・京王線「橋本駅」付近になるようで、駅前では大規模な工事が続いています。

「平和台北」バス停付近。

地域の開発、発展、影響など、反対の動きもあって、まだまだ全線の完成、運用が見通せないようですが。

この先で山道に入ります。

振り返る。

            大きなグランドやテニスコートがあったところ。

               畑地。

「美しい里山を守ろう たぬき一同」。

川崎市側。

      町田市側。

眼下に大きく広がります。

            左に折れる。

都県境? 車等の往来があるためか、つぶしてある標識。

             「町田市立鶴川台尾根緑地」。

山道になると、都県境の標石が地面上に高く露出しています。

 

                    つまづくと恐い、怖い。

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東急バス「下麻生」~小田急線「黒川駅」。その4。住宅地の坂を上がったり、下ったり。片平中町遺跡公園。能ヶ谷大地の丘緑地。「ホーホケキョ」・ウグイスを発見。(「都県境を探ってみる」。第17回目)

2023-04-07 21:15:04 | 都県境を探ってみる

「商船三井柿生グラウンド」沿いを右に進みます。

当時は満開の桜の下。

ぐるりと回り込むと、グラウンド内から進んできた都県境と再び出会います。

「グラウンド」(右)から来た都県境は、左の住宅地へ。正面は、川崎市。

都県境の道を進む。

「(川崎市)麻生区片平3丁目」

大きなお屋敷。

「片平中町遺跡公園」。

      都県境の道沿いにあります。

この階段の上にありますが、パス! 

川崎市のマンホール。

             市の木「ツバキ」7つに囲まれ、中央に市の花「ツツジ」。

住宅地をけっこう上り下りします。

柿生方面。

         町田方面。

「能ヶ谷大地の丘緑地」公園。

右奥が都県境となります。

フェンスの先。

住宅の裏手に都県境が続きます。

    階段を下って右の道(都県境)に。

道なりに進みます。

 

                          道の向こうは、川崎市。

奥は、川崎市麻生区、手前は、町田市能ヶ谷。

農場に突き当たり、そこを左に。正面は、川崎市麻生区片平。

すると、「ホーホケキョ」とさわやかな声が響いてきます。見上げると、

。ウグイスの姿が。

よく見ると、電線にとまっています。姿を見せない、といわれるウグイスが?

しばらく見ていると、たしかに「ホーホケキョ」「ホーホケキョ」とさえずっています。

都会のウグイスは電線にも、とまるのでしょうか。

        

しばらくさえずった後、飛び去っていきました。

「町田市能ヶ谷町平和台第2児童公園」。

         

左手の住宅地も町田市。しかし、右手の農地は、川崎市に属しています。

神奈中バス「第二公園前」(「鶴川駅」行き)バス停。

なかなか町田市から抜け出られません。

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東急バス「下麻生」~小田急線「黒川駅」。その3。町田市能ヶ谷。商船三井柿生グラウンド。ジグザクの都県境。(「都県境を探ってみる」。第17回目)

2023-04-06 20:36:41 | 都県境を探ってみる

迂回し、小田急線の踏切を渡ります。

前方に、「川崎市麻生区」。

振り向くと、「東京都町田市」。

線路の向こうに都県境? (↓)。

この建物「二輪屋」さんの先を上がって行きます。

町田市能ヶ谷地区住居表示。

                ※下が北を示す(北東部が川崎市で、南西部が町田市)。

  白い部分は、川崎市麻生区。しばらくは町田市能ヶ谷内を進みます。都県境は、かなりジグザクです。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。住宅がびっしり。

                     1970年代のようす。丘を切り崩して住宅地に。

けっこう急な上り坂。高台の上に建物。

崖の上が川崎市麻生区? 

右手の「イトーピア 東公園」のすぐ東側に都県境。

この先で、都県境は、西にジグザクのコースを進んでいく。

「商船三井柿生グラウンド」。

この大きなグランドの中をジグザクに進む都県境があります。

        

              (「マピオン」より)ジグザグの線が都県境。

この先もジグザクに住宅地を進む「都県境」(町田市、川崎市)。

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東急バス「下麻生」~小田急線「黒川駅」。その2。麻生川。ハナダイコン。都県境の小さな流路。(「都県境を探ってみる」。第17回目)

2023-04-03 19:58:45 | 都県境を探ってみる

右岸側に都県境の標示。

左岸側。「河川管理境界 鶴見川」。

左側の塀に沿って都県境(町田市と川崎市)が続くようです。

都県境は、鶴見川から麻生川(「あそう」ではなく「あさお」)に移ります。

草が生い茂った道無き道を歩いて、「麻生川」へ出ます。

鶴見川方向を望む。

                    左が川崎市麻生区、右が町田市三輪町。

麻生川に沿って進む。左が町田市、右が川崎市。

麻生川(あさおがわ)

主に神奈川県川崎市麻生区を流れる河川鶴見川水系の支流である。

東京都稲城市平尾神奈川県川崎市麻生区金程との境界付近に源を発する。途中で小田急線の柿生駅の西150mの地点で片平川が流入し、神奈川県川崎市麻生区下麻生において鶴見川に合流する。一部で東京都町田市と麻生区の都県境を流れる他はほとんど麻生区内を流れる。・・・

小田急小田原線新百合ヶ丘駅柿生駅間とほぼ並行して流れる地域の沿岸1.1kmに渡って並木があり、春には花が咲き、花見の名所となっている。(「Wikipedia」より)

「麻生川」。下流方向。

整地された土地にポツンと1本。

蕗(ふき)。

この先、左手に流れる小さな用水路が都県境になります。

都県境の水路。

右手。「麻生区上麻生」。

左手。「町田市街灯」()。

水路沿いに進もうとしましたが、

住宅地を迂回して、川沿いの道へ。けっこう蛇行しています。

対岸は、川崎市麻生区上麻生。

      

右は川崎市、左は町田市。

         ハナダイコン―諸葛菜(しょかっさい)。

左手に、

「明泉学園・鶴川高等学校」。

東京都町田市三輪町にある私立高等学校。学校法人明泉学園が運営するキリスト教系の女子高校。

※2023年4月より「 フェリシア高等学校」へ校名変更。

右手は大きな森の公園。

※都県境は、この公園に沿って北西へ進む。

行き止まりになってしまいます。

迂回して小田急線の踏切に向かいます。

来た道を振り返る。麻生川方向。

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東急バス「下麻生」~小田急線「黒川駅」。その1。恩廻公園・旧河川跡。都県境。(「都県境を探ってみる」。第17回目)

2023-04-02 20:34:23 | 都県境を探ってみる

3月30日(木)。曇りのち晴れ。

今回は、「寺家(じけ)ふるさとの村」の水車小屋付近から森の中に進んだ都県境が、森から出たところから。

前回の最寄り駅・東急線「市が尾駅」からバスで「下麻生」まで。帰りは、小田急線「黒川駅」へ。

町田市からなかなか抜け出せません。いかに都県境が入り組んでいるか、の証しみたいな地域。

鶴見川に架かる「水車橋」。

  橋を渡って右へ向かいます。「恩廻(おんまわし)公園」へ。

右から合流する「真福寺川」。

桜が満開。

「恩廻公園」。

          「恩廻(おんまわし)公園建設の由来」。

鶴見川は、以前蛇行しながらこの公園の敷地を流れていましたが、神奈川県は地元の方々の用地の提供、家屋の移転など多大なご協力を得て、昭和48年度(1973年)から昭和51年度までの間に河道を整備し、現在の姿にしました。県は、この河川改修工事によって生じた延長800㍍、面積2㌶の旧河川敷地に憩いの広場を建設するため、昭和52年度より工事に着手し、3億円の巨費を投入して昭和57年度にこの広場を完成しました。この広場は皆様のご意見により「恩廻公園」と命名されました。・・・

     

「おんまわし橋」。

              右奥から鶴見川に合流する川は、「麻生(あさお)川」。

川崎市のマンホール。

           中央にある市の花「ツツジ」を、市章と七個の市の木「ツバキ」が囲んでいる。       

                            ※ツバキの数は、七つの区を表している。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。直線化されている。

                     1880年代のようす。「恩廻公園」が旧流路。

(「今昔マップ」より)○の一部が「恩廻公園」。※「恩廻」という地名は、昔から、ある。

「麻生川」も大幅に河川改修され、直線化されている。都県境は、変化なく、そのまま現代まで踏襲されている。

都県境にもなっている道を進みます。

左手が、町田市。

      

           町田市のマンホール。

来た道を振り返る。

この敷地もかつての「鶴見川」の河川跡のようです。

町田市三輪地区。

方角は、下が北。公園は、旧流路を端的に示している。

「麻生橋」から上流を望む。

            左手に見える施設は、川崎市麻生区に属しています。

    「恩廻調整池」。

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