おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その4。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-24 22:38:49 | 水戸街道
土浦宿
 水戸街道千住宿から11番目の宿場町。現在の茨城県土浦市大手町・中央1・中央2・城北町付近にあたる。
 土浦は土浦藩の城下町で、城は土浦城(亀城)。水戸街道は、土浦城の東側を、複雑な枡形を繰り返しつつ迂回している。土浦宿は、土浦城の東側・南東側の一角で、南西から北東に700メートル程度の範囲で広がっている。本陣は2ヶ所(山口家・大塚家)あったとされるが、いずれも残されていない。
 土浦は、城下町であったほか、霞ヶ浦水運の拠点地でもあり、物資集積地としても栄えた。
 旧街道筋には古建築が残っている。また、短い区間ではあるが、景観が保存されている。

真鍋宿
 土浦宿の北方1キロ程度の場所に「真鍋宿」があった。現在の茨城県土浦市真鍋3付近。土浦宿とは極めて近く、間の宿とも土浦宿の一部とも言える。坂下には鹿島街道との追分、坂上には筑波街道との追分があったことから、その2つの追分に挟まれた坂道を中心として栄えた。

常福寺・愛宕神社 - 土浦宿の南側に位置する寺社。愛宕神社は、2007年現在も茅葺屋根の本殿を持つ。
吾妻庵 - 創業1873年の蕎麦屋。母屋は築200年、商店部分も築100年という。
矢口酒店 - 1800年代中期建築の土蔵建築。茨城県指定文化財。
まちかど蔵・大徳 - 江戸時代末期の土蔵建築。元は呉服店。土浦市が譲り受けて観光案内所となっている。裏手に本陣のひとつがあったとされる。
まちかど蔵・野村 - 1800年代末期の出桁作り・土蔵建築。元は砂糖問屋。観光案内所として使われている。
ほたて - 大規模な角地出桁作りの商店。てんぷら屋として現役。
土浦商工会館 - もうひとつの本陣の跡地。
醤油・国分商店が土浦で生産を江戸中期に始め、江戸に送られて消費され、過去には江戸で醤油のことを「むらさき」(筑波山)、「おひたち」(常陸)と呼ばれた。

            (以上、「Wikipedia」参照)

 「土浦宿」中心部へ向かう旧街道には古いおうちが並んでいます。新築、改築あるいは空き地になってはいますが、かつての雰囲気が残っています。一歩敷地内に入ると、古い土蔵なども。
    


 (11:33)先達の資料ではこの付近に『この井戸は、日本橋から十八番目の一里塚のかたわらにあった井戸である。』という説明板と共に「井戸」があるとのことでしたが、行きつ戻りつしてもいっこうに見当たりません。実は何年か前に市によって撤去されたようです。
かつてのようす。(「「土浦城下の遺構めぐり」HPより拝借。)

ということは、これなのかな? (↓)道路脇にある井戸らしきもの。

 ロスタイムがあり、やっと土浦城の「南大門」があったところになります(11:48)。
    

土浦城南門跡
 享保12年(1727)に大町が築かれるまではここが土浦城の南端で、正面の太い道路となっているところには川が流れていました。土浦城と水戸街道の整備に伴い、慶長18年(1613)に川には橋(簀子橋)が掛けられ、正面に南門、脇に番所が置かれると共に、川の向こう側には「枡形」と呼ばれる城の防御施設が整備されました。なお貞享2年(1685)に大規模に改修され、形態的には角馬出となります。明治6年(1873)撤去されました。
なお、枡形や馬出といった城の主要な防御施設は城下から城内へ入るところに設けるのが一般的であり、土浦城のように水戸街道をいう主要街道に大規模な防御施設を設置している例は全国でも大変珍しいものです。 

注:「馬出(し)」
 土浦城では北側にもこの防御施設が築かれ、その跡が残されています。そこで、城用語集」HPをお借りして解説します。

馬出とは
 虎口(城の戦闘用出入口)の外側に曲輪を築いて防御力を高めたもの。

 初期の城は土塁に切り口を作って出入口としていたが、この切り口の外側(一部内側)に的土(あづち)と言われる盛土を行った。この盛土により、城外から城内の様子が伺いにくくなる。切り口(出入口)への敵の兵の集中がしにくくなるなどのメリットがある。
        
 
 「馬出曲輪」と呼ばれるものや、「出丸」と呼ばれるものも築かれるようになった。大阪冬の陣で有名な「真田丸」はこの出丸の規模が大きくなったものである。

頭上には「土浦境線」の高架道路。

 解説板にある桝形(クランク)。「馬出」跡は判然としませんが、「枡形」はしっかり残っています。
    

(11:50)右の角の奥に「東光寺」。

街道筋らしいおうちも。

 (11:53)しばらく進むと、再び枡形で、右に折れてすぐ左に折れます。
    

 ここからが宿場の中心のようで、宿場らしいおうちが並んでいます。
    

「山口薬局」。



水戸街道と町並み「土浦宿」
 水戸街道は慶長9年(1604)に整備された五街道に次ぐ重要な道路で、土浦城下を南から東(霞ヶ浦)側を回って北に向かっています。土浦宿は日本橋より一八里半(約74キロメートル)の距離にあり、千住で日光街道から分かれた水戸街道11番目の宿場町です。土浦宿には、大町(享保12年―1727―築)・田宿町・中城町からなる中城分の町と、本町・中町・田町・横町からなる東﨑分の町があり、それぞれに名主が置かれていました。大名などが宿泊する本陣は、本町の大塚家(現土浦商工会議所)と、大田家(寛保2年―1742―まで)・山口家(まちかど蔵大徳脇の道奥・延享元年―1744―以降)が務め、この二つの本陣を中心に旅籠、問屋、商人宿、船宿、茶屋、商家などが軒を連ねていました。

「中城通り」との案内板。

「吾妻庵総本店」お蕎麦屋さん。看板が立派。

 その隣には「矢口酒店」。店蔵、袖蔵、元蔵の三つの重厚な建物が建っています。
    

解説板。

県指定建造物 矢口家住宅(付、家相図七枚)
 この建物は土蔵造りで、店蔵(主屋・向かって右)と袖蔵(向かって左)、別に建てられた奥の元蔵より成る。旧水戸街道に面した店蔵・袖蔵の間口は合わせて7間半である。
 土浦城下の土蔵造りは、天保12年(1841)の大火後、瓦葺きなどと共に防火の備えとして取り入れられたものである。
 この建物の建築年代は、店蔵と袖蔵が嘉永2年(1849)、元蔵が慶応年間(1865~67)で、県内で現存する土蔵造りの商家建築のなかでは特に貴重なものである。
 なお、天保9年(1838)以降の家相図が7枚残っており、間取りの変遷を知ることができる価値の高いものである。

 平成11年(1999)3月  土浦市教育委員会
 
左隣には「まちかど蔵・大徳」。

 江戸中期、商都土浦の礎を築いた呉服商「大国屋徳兵衛家(大徳) 」。
◆見世蔵(観光物産館)
市内の観光についての情報提供のrまか、土浦の特産品や土産品を販売しております。また、 2階部分はギャラリーや発表会などに利用できます。
◆抽蔵1階(観光展示館)
日本-と呼び声高い「土浦全国花火競技大会」や帆曳船などの市内の観光について、模型やパネルを使って紹介いたします。
◆袖蔵2階(商家歴史展示舘)
往時の商家や庶民の生活用品のほか、葺の土浦の街並みの絵や写真などを展示しております。元は呉服屋さん。

 観光案内ボランティアの人たちの姿も見えて、けっこう賑わっているようすです。

その向かい側には「まちかど蔵・野村」。

 野村家は江戸時代から続いた商家で,明治の頃には砂糖を商っていました。かつての大店の暮らしぶりを見てとることができる「土浦まちかど蔵・野村」は、江戸後期から明治初期に建造された、 3つの蔵からなっています。
◆母屋1階(休憩所、はた織り体験室)
中城通りに面した開放的な休憩所と、はた織りや草木染めなどの創作活動が体験できるカルチャー室があります。
◆母屋2階(展示室、和室休憩所)
展示室には音の生活用品などの民族資料や、予科練関係の資料を集めました。くつろげる和室の休憩所があります。
◆袖 蔵(そば打ち等体験工房)
蔵を改装し、そば打ち等が体験できる工房となっています(要予約)。
◆文庫蔵
写真や絵画等の作品展示会場として利用できる蔵です(要予約)。
◆レンガ蔵(喫茶店)
レンガ蔵を改装した喫茶店で、レトロな空間を醸し出しています。

「大蔵」「野村」さんの解説は「www.city.tsuchiura.lg.jp/data/doc/1274688449_doc_26.pdf」より借用。

    

旧町名 中城町由来
 田宿と同時に(慶長九年)に生まれた町人町で土浦宿の代表的な町としてだけでなく、「中城分」という集落の中心であった。土浦城大手門に近く参勤の大名を接待する御使者屋敷もあった。駒市で知られている中城天満宮もこの町の象徴である。

 こうした「旧町名」由来碑が20ヶ所ほどに設置されているようです。

 (12:00)時刻はちょうど正午。昼食にはまだ早い、もう少し行ってから食べようかと歩き出します。次の「ほたて」屋さんもパスして先に、と思ったのが大失敗。
 この先、旧街道筋には一軒も食事する店がありませんでした。もちろん土浦駅方向に行けばあるのでしょうが、旧道は次第に繁華街から遠ざかっていきます。・・・
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その3。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-23 12:47:44 | 水戸街道

(10:51)国道6号線」バイパスを越えて松並木の脇を過ぎると、「国道354号線」に合流します。
    

 (11:02)しばらく進むと、中高津地区の「セブンイレブン」の北側の角に、大きな天保15年の「馬頭観音」と足元に小さな道標があります。馬頭観音には「「水海道 布施 関宿 流山道」と刻まれ 、小さい道標には「右やたべ おばり いたばし みつかいどう」 と刻まれています。

  





 「布施街道」は享保15年(1730)頃に開かれた「水戸街道」の脇往還。根戸(柏市)で水戸街道から分かれ、布施弁天、利根川の渡し、守谷、板橋、谷田部を経由し、土浦の中高津で「水戸街道」に合流します。布施弁天、板橋不動尊などへの参拝の道としても利用され、利用者が多く、水戸街道の宿場が衰えるので、布施街道を通らないようにとの触書が「水戸藩」から出たそうです。

 「布施街道」は左に進む道。古地図では途切れずに西南に下って行く道が記されています。
    

 国道354号線(旧水戸街道)の両側には旧家らしいおうちが並んでいます。
    

    

(11:12)「国道354号線」と分かれ、右の道に。

すぐ右手にある旧家。

 「霞ヶ関医療センター」入口の向かいには「下高津小学校」の旧校舎跡地で、創立100周年(昭和51年)と130周年(平成18年)を記念して作られた碑があります。ずいぶんと長い歴史を持った小学校です。



坂道を左に下って行きます。前方に土浦の街並み。

 (11:17)途中、坂の右手に「下高津の道標」。水戸街道と板東街道との分岐点になります。
    

 亨保18(1733)年、東崎の観音講の人々によって建てられたもの。道標には、右「江戸道」、左「なめ川阿ば道」と刻まれています。


「板東街道」はこの道? 行き止まりのようですが。

 坂を下って行くと、左手の高台にあるのが、「愛宕神社」。その奥にはお寺があります。
    

「桜川」に架かる「銭亀橋」に向かいます。


 沿道には旧街道らしいおうちが何軒か。
    

(11:25)「銭亀橋」を渡ると、城下町「土浦宿」に。

 「桜川」はもともと土浦の街の真ん中を流れていましたが、洪水を避けるため、大町付近から現水路に切り替えられました。「銭亀橋」は、1613(慶長18)年、水戸街道の橋としてはじめて架橋された歴史ある橋で、当時は木造の太鼓橋でした。

                               「桜川」。
    

 「桜川」。桜川市山口の鏡が池に源を発し、筑西市、つくば市を経て土浦市で霞ヶ浦に流入する一級河川。延長63.41㎞、流域面積350.3平方㎞。筑波山の西麓、南麓を流れている。筑波山の多くの沢は、「桜川」に流れ込んでいる。
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その2。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-22 22:03:30 | 水戸街道

 「国道6号線」に合流したあと、広大な商業施設「JOYFUL HONDA」を過ぎ、「土浦自動車学校」の先、「中村南4丁目」交差点を右に入ります(9:58)。
    

途中交差点に「「日先大神道」と刻まれた道標。日先神社への道。  

 (10:07)「原の前交差点」の手前には松が数本、他にも雑木林が生えた、こんもりしたところが残っています。この付近に「一里塚」があったそうですが、関連があるのか?

      

 交差点を渡って「旧中村宿」に入っていきます。
    
                              振り返って望む。

中村宿
 水戸街道の、千住宿から10番目の宿場町。現在の茨城県土浦市中にあたる。
 宿場町は南西から北東にかけて数百メートルの範囲に広がっていた。家並みは50軒余りの小規模なものにすぎなかったが、本陣は置かれていたとされる(川村家)。
 宿場町だった痕跡はほとんど残っていない。
      (以上、「Wikipedia」より)



1880年代のようす。中村宿から永国村を経由して「土浦宿」へと至る。北の宿場外、花室川を越えたところに「大聖寺」の名が見える。



現在のようす。当時と道筋はほとんど変化がない。南北を貫く道路は「国道6号線バイパス」。

                        静かでのどかな道を行きます。
    

 (10:21)右に折れ曲がる手前、宿場の南のはずれにあったとされる観音堂跡。石仏などがまとめて置かれています。


人通りもなく、車も行き交わない宿内。

大きなおうちが多い。 

緩やかな下り坂になります。

「土浦市立東小学校」脇の坂道を下ると、目の前が広がっていきます。「花室川」を渡って水田地帯に。右手奥は6号線のバイパス。
    

 (10:38)左の丘には「大聖寺」。藁葺きの山門が奥にあります。10世紀末に創建された古刹のようです。
その先で、小休止。のどかな田園風景。
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その1。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-21 22:02:01 | 水戸街道

 12月17日(土)。快晴。風もなく、気温は低いけれど歩くには最適(と思われる)ようなお天気。どこまで進めるか?

 JR「ひたち野うしく」駅に降り立ち、前回の終了地点へ(8:59)。

 (9:08)歩き始めるとさっそく「牛久市」と「土浦市」との市境の左右に「一里塚」。
               

 右にあるのは「中根一里塚」。
    

牛久市指定文化財(史跡) 中根一里塚
 徳川家康は、慶長9年(1604)頃に全国の主要街道を改修、改良を加えて一里塚を設け、この時期に開かれた「水戸道中」の起点江戸日本橋から17番目に「中根一里塚」が築かれた。一里塚は旅人の標識と休息の施設として一里(約4㎞)毎に街道の両側に約五間四方(約9m四方)、高さ一丈(約3m)程の塚を築いたものである。市内には、外に「成井」「田宮」に一里塚があったが、現在は「成井一里塚」が残されている。中根一里塚は、昭和61年、江沢大輔氏より市に寄贈されたものです。

 平成2年3月1日 牛久市教育委員会

塚の上には切り株のみ残っています。

反対側は土浦市内となる「荒川沖一里塚」。
                            こちらは、平成10年、地主の本田春義氏より市に寄贈されたものだそうです。

牛久市方向を望む。

「東京まで57㎞」ポスト。

 (9:24)しばらく進み、「荒川沖南区」交差点で、国道から離れて右の道へ入って行きます。JR「荒川沖」駅方向。
    

 「乙戸川」に架かる「荒川橋」。東京に住む人間だと都内を悠々流れる「荒川」を連想しますが・・・。
    

宿内のようす。

蔵造りを模した建物。

駅入口近くにある「宇野家」の豪壮なおうち。

その斜め前の向かいには、名主であった「川村家」。昔の宿場の面影を残す街並み、建物が残っています。
    

荒川沖宿
 水戸街道の、千住宿から9つ目の宿場町。現在の茨城県土浦市荒川沖西にあたる。
 宿場町は南北に数百メートルの範囲で広がっていた。
 小さな宿場町で、本陣は置かれていなかった。宿場町としての役務は隣の牛久宿と分担して行っており、荒川沖宿のみで完結したものではなかったという。正規の宿場町ではあったものの、継ぎの宿という位置づけであったとされる。
          現代地図に旧水戸街道の道筋を重ねた地図。(「Wikipedia」より) 

■「荒川沖」
 荒川沖宿の由来は、水戸街道が慶長9年に開通したとき、阿見町荒川本郷から移住した有力農民7戸が街道沿いに宿場を形成したのが村の起こりで、 いわゆる荒川沖宿で水戸街道20宿の一つです。
 「荒川沖」駅は茨城県土浦市にありますが、名前の元は隣町の「稲敷郡阿見町荒川本郷」と関係があります。
 江戸時代以前、この一帯は「荒川野」と呼ばれていました。これは川(実際は乙戸川や霞ヶ浦と牛久沼)が頻繁に氾濫していた為一帯は年中水に浸かっていました。この様子から「荒れる川の野」「川に荒らされた野」と言われたのが始まりらしいです。その「荒川野」を沖に見る地区が現在の「荒川沖」です。荒川本郷から遠くに見えるところから“荒川の沖” (沖:遠いところの意味)と言われ、水戸街道の歴史と共に歩んで来たところです。

■水戸街道と共に栄えた庶民の宿場
 もともと水戸街道は、鎌倉街道の脇街道として、水戸道中とか江戸往還などと言われる細い道が通っていましたが、 徳川家康が江戸幕府開設早々の慶長9年(1604)7月から同14年12月にかけて、直轄工事でまっすぐに改修したものです。
 荒川沖と牛久間の改修については、牛久藩主山口重政がその任に当たり、完成後、慶長15年11月荒川道取締りのために、領内の信田郡荒川村(阿見町荒川本郷)の有力農民7戸を選んで、ここに移転させ、藩の役人の下で街道取締りに当らせました。 そして街道用務の増大に伴って、領民を張りつけました。
 寛永8年(1631年)の記録では、宿戸数は40戸になって、街道の宿駅村落としての形態が形成されたといいます。 荒川宿はかくして、その名を正式名称としましたが、当時の書付をみると、沖村、荒川村、沖荒川村などと書かれており、 一般的には荒川宿で通用していたのです。
 その荒川宿は、いわゆる殿様が宿泊する陣屋宿場でなく、牛久陣屋宿場と中村陣屋宿場の中間にあたる 「継立宿場」としてもっぱら庶民の宿場でした。

■発展してゆく宿場
 荒川本郷から移転した農民は初め、開拓農耕のかたわら、公的交通の用務に従事していましたが、往還の増加に対応して、商いにも精をだすようになり、 旅籠や灯油、灯心を売る油屋、そば屋などの店を開く者も多くなり、宿場らしい雰囲気をつくっていきました。
 ところで荒川宿の継立問屋は、代々名主の川村八宗治家が継いでいたが、その継立区域は、 上りは牛久本陣までの1里33町、下りは中村宿24町までの間でした。往還は公的な場合は馬とか駕籠でしたから、宿駅の問屋では、乗馬10頭とか駕籠3挺、 それに荷担ぎ人足25人というように、常時備えておかなければなりませんでした。
 文政5年(1822年)の記録でみると、荒川宿を通った諸大名は、津軽、松前、南部、仙台、秋田、 水戸、土浦藩など22藩におよんでいますが、特に関東の大名は、2月と8月の半年交代が例でしたから、 問屋の仕事は他の街道に比べて忙しく、且つ気遣いが多かったと言われています。
 また、街道宿には、旅籠や女郎屋がつきものでした。藩でもこれを半ば公然と認めていました。だから荒川宿の夜は軒行灯の灯色を映らせて、遊女屋から流れる三味線の音や酒盛りのざれ唄が、そこかしこに聞こえて「女なくして何の道中かなし」といった、宿場独特の情緒で夜が明けたといいます。一方、近辺で農業を専業とする者も、農業の合間には問屋の荷担ぎ人足や宿場雑務に雇われ賃金を得たので、他村に比べて経済的に恵まれていました。半面、宿場特有の女と酒、賭博に身を持ち崩し、先祖伝来の田畑を失う者もいたといいます。  宿通り(荒川沖派出所から西1丁目)の佐野屋、二六屋、荒井屋、おおぎ屋 松屋、岡本屋、鶴屋などの屋号は、そうした往時の繁昌した宿場商店の名残りです。

(以上「」HP参照)

    
                     (9:38)郵便局の隣にある茅葺き屋根の建物。「旅籠佐野屋」。

                     その先にも立派な藁葺き屋根の建物。「鶴町たばこ店」。
    

立派な門構えに大きな敷地のおうちがチラホラ。

宿場の外れ、「国道6号線」に合流する手前には診療所の大きな洋風建築。
          

宿内を振り返って望む。

(9:45)国道6号線に合流します。
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取手~藤代~若柴~牛久。その6。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-19 22:07:02 | 水戸街道
く型の街並みです。駅や国道から離れているため、静かな通りになっています。

 (13:29)左側の重厚な門の脇に、「明治天皇牛久行在所(あんざいしょ)跡」と刻まれた石柱が建っています。


 明治17(1884)年12月、名主の飯治左衛門宅に明治天皇が宿泊した記念に建てられたもの。
 明治天皇の牛久行幸は、女化原(現牛久市女化町・さくら台付近)で行われた近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的訓練を視察するものでした。
    

 牛久宿には、小川芋銭、河童碑や牛久城などの史跡、遺構があるようですが、先に進みます。
 く型の曲がり角に近づきます(13:34)。左側には「正源寺」。
    

あまり宿場らしいものはない中で、お寿司屋さんの看板。 

直線の旧道が「国道6号線」に向かっていきます。 

左手にお豆腐屋さん。我が家でもなじみの「三代目茂藏の豆冨」直売店。

                                              お店そのものは慶應4年創業とか。

旧道の脇にある古木。

(13:46)しばらくして水戸街道に合流します。

たわわに実ったキンカン? 

 国道の右手にある「牛久駅」で終わろうと思いましたが、まだ陽も高いので20分ほど小休止して再開。その先、田宮(「たみや」ではなく「たぐう」)地区に入ると左手には「薬師寺」の案内板。


(14:31)「東京まで52㎞」ポスト。およそ半分の距離。ただし、旧道はけっこう曲がって進むので、もっとかかる?

しばらく先で左の旧道に入る。くの字型。

すぐに「国道6号線」に合流。

以前は藁葺き屋根だっただろうおうち。

沿道には大きな屋敷も。

   
               (15:04)前方には「圏央道」の橋脚が見えます。

「小野川橋」を越えます。

 「小野川」は、つくば市谷田部小野崎に源を発し、霞ヶ浦に注ぐ延長36.5kmの一級河川。江戸時代、小野川流域に薪炭林としてのアカマツ林が広がっていました。江戸への燃料供給元とされ、当地で集められた薪は付近の農作物などとともに江戸まで舟で運ばれていた、とのことです。

 「牛久」の先の駅「ひたち野うしく」駅まで行くことにします。

次第に夕陽に照らされる家、家。

(15:12)
               晩秋の日の落ち方は急速。まさに「つるべ落とし」。あっという間の夕暮れ。強風がますます身にしみてきました。

(15:24)「ひたち野うしく」駅入口。

 今回はここまで。
 JR「ひたち野うしく」駅は1985(昭和60)年の「つくば万博(国際科学技術博覧会、科学万博、つくば '85)」の最寄り駅として作った駅。今でもなかなかモダンな駅です。
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取手~藤代~若柴~牛久。その5。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-17 21:10:29 | 水戸街道
 県道を横断して「若柴排水場」前のY字路で左の細い道を進みます。


(12:36)分岐点に道標。
                 地元の青年団によって大正時代に建てられたもののようです。

 旧道は緩やかに上り下りがあり、見通しが悪く、車同士のすれ違いも大変。そんな細い道に車がひっきりなしに行き交います。ちょっと怖い感じ。のんびりと歩けるような雰囲気ではありません。こういう状態がほぼ牛久宿への道まで続きます。
               

    



 (12:49)しばらく進み、前方が明るく開けたところに「成井一里塚」があります。
    

成井一里塚
 一里塚は、主要な街道に一里(約4㎞)ごとに築かれた塚である。
 1604(慶長9)年、徳川幕府により江戸の日本橋を起点とし、全国的に主な街道には一里塚が築かれた。これは、里程や人馬賃銭の目安を目的とし、徳川家康が徳川秀忠に命じ、大久保長安統括下で整備したとされる。
 由良国繁を城主とする「牛久城絵図」にも、成井の一里塚は描かれており、右に記すように徳川幕府によって築造されたものと想われる。
 江戸時代の水戸街道は、我孫子から布佐へ廻り、布川に渡って、現龍ケ崎市の須藤堀、紅葉内、若柴を経て成井に達しており、成井の一里塚は江戸日本橋からは15番目、水戸街道の起点である千住からは13番目にあたる。
 平成13年6月22日指定 牛久市教育委員会

右の塚は植樹こそないものの上部が平らのまま残っていますが、左の方ははっきりしません。

来た道を振り返って望む。

 右手には田んぼが広がります。
    

 この先、県道との信号を過ぎると、道路の拡幅・整備のために旧道は消滅? したようで、しばらく広くて新しい道路を進みます。
                        

 (13:01)「牛久宿」への旧道は緩やかな坂を過ぎてから左手に入る道。わかりにくいですが、進むと、旧道らしい道になります。
                        

木々に囲まれ、緩やかな上り坂。   

 しかし、常磐線を越えて「国道6号線」へ向かう抜道になっているのでしょうか、車がひっきりなしに通過します。ここも歩行者には危険なところ。車の方でもまさか人が歩いているとは思えないようすです。

    
 途中、左に大きくカーブする付近の右手に旧道が残っていますが、立ち入り禁止となっています。。

 (13:11)そこで、旧道からは離れて、道なりに常磐線の踏切を渡り、「国道6号線」と合流、しばらく進み、残っている旧道(左手)に入ります。
    

常磐線と「国道6号線」で寸断された旧道。

この付近から「牛久宿」に入ります。

牛久宿
 水戸街道千住宿から8つ目の宿場町。現在の茨城県牛久市牛久町付近。
 宿場町は南北に1キロ弱の範囲で広がっている。牛久沼の北東岸の台地上に「く」の字型に旧街道が残っている。江戸寄りが下町、水戸寄りが上町と呼ばれる。水戸街道の道中絵図には、牛久宿の家並みは本陣と15の旅籠を含む124軒が描かれている。現在の国道6号は、その屈曲部を迂回して走っており、宿場内の道幅は7から8メートルのままになっている。古建築はほとんど残されていないが、道路脇の所々に井戸址を見る事ができる。
 牛久宿は、戦国末期に描かれた絵図(龍ヶ崎市史別編2)に牛久宿が描かれており、牛久城主岡見氏の城下町であったものと思われる。
(「Wikipedia」より)




1880年代のようす。


現在のようす。街道の東側を国道6号線と常磐線が通り、市街地が広がっています。
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取手~藤代~若柴~牛久。その4。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-16 22:41:41 | 水戸街道

 旧「若柴宿」は、台地上にある街並み。坂道が右にも左にも。豪農が多いような印象で、りっぱなおうちが目立ちます。
    

細道の奥にもお屋敷。    

 (12:10)大坂を上った右側には「八坂神社」。そのところに「若柴宿案内図」。街道はここで左に折れます。

足袋屋坂、延命寺坂、会所坂など坂道の名が。

「流坂」。「延命寺坂」。  


「会所坂」。       

「薬師寺跡」。  

「仲宿坂(東屋坂)」。      

「足袋屋坂」。

 それぞれ雰囲気が異なっていて、けっこう急坂になっています。

若柴宿
 水戸街道千住宿から7つ目の宿場町。現在の茨城県龍ケ崎市若柴町付近。
 水戸街道が小貝川や牛久沼流域の低湿地を横切って北上した台地上にある。宿場は両端に屈曲のあるクランク状の直線部にあり、江戸側(南東側)と水戸側(北西側)の約500メートルの範囲。南東側屈曲部には八坂神社、北西側屈曲部には金竜寺がある。藤代宿・牛久宿と近いことから、本陣は置かれていなかった。
 明治以降の火災によって江戸時代の建築の大半は失われているが、明治時代級の古建築はそこそこ多い。
       (以上「Wikipedia」参照)

 車も人も通らず、先ほどの強風が嘘のように静かで、のんびりと周囲の眺めながら散策できます。旧街道の街並みらしい雰囲気を味わえます。

樹齢200年といわれる椿の木。

広い屋敷と門構えのすばらしいおうちが目立ちます。
    

 (12:20)街道は突き当たりを右に直角に曲がりますが、正面には「金龍寺」。新田氏の菩提寺となっています。この付近までが「旧若柴宿」だったようです。

 元享元(1321)年に新田義貞によって上州(群馬県)太田に創建され、義貞の死後、新田氏の流れを汲む岩松氏が義貞の菩提を弔って諸堂を修営し、寺域を整えたとされています。天正18(1590)年、義貞の子孫由良国繁が太田金山城から牛久に国替えになったとき、寺も一緒に移ってきました。天保年間(1830-1843)に火災に遭い、安政5年(1858)に再建されたものが、現在の本堂。

真向かいにお蕎麦屋さん「田舎庵」。現在は営業をしていないようです。

来た道を振り返って望む。

まだしばらく立派な門構えのおうちが続きます。

 左手奥には「星宮神社」。社前に「八坂神社」にあった「若柴宿案内図」が設置されています。
    

「若柴宿」方向を振り返って望む。
                                         すてきな街並みです。



1880年代のようす。牛久沼・湿地帯の東の高台に街並みが形成されています。



現在のようす。牛久沼南部付近が様変わり。中央下に常磐線・佐貫駅。田んぼは相変わらず健在。

 この先、県道を横断して「牛久宿」方面へ進みます。
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取手~藤代~若柴~牛久。その3。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-14 20:33:33 | 水戸街道

 「文巻橋」は左側に歩行者専用の橋があります。渡ったあとで道路の向こう側に行きます。が、行き交う車が絶えないため、なかなか大変。近くに横断歩道もなさそう。やっとの思いで向こう側に。しばらく進んで旧道に復帰します。途中右手に「慈眼院」。対岸の藤代側の「熊野神社(八坂神社)」と対応しているようです。

(11:22)正面の細い道が旧道の一部? 

地域的には「龍ケ崎市」に属します。

 しばらくすると旧道は「牛久沼」からの水路で途切れてしまうので、右に曲がり、常磐線の踏切を越えます。「竜ヶ崎街道」という名前の踏切になっています。
    

 右手奥に牛久沼排水機場」が見え、一帯はお花畑になってのどかな雰囲気の川辺になります。
    

 (11:28)その先に「往還橋」(旧街道に関わるネーミングです。橋そのものは少し下流につけ替えられているようですが)。
 

    

 「水神神社」付近で旧道に復帰、県道まで静かな住宅地を歩きます。
    

 (11:41)県道に合流した後、「馴柴小入口」で左折します。右手角に小さな屋根に覆われた道標があります。摩滅していて判読不能。資料によると「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば」とあるようです。
    

 その先、「関東鉄道竜ヶ崎線」の踏切を越えます。
    

 少し進むと、モダンな校舎の「馴柴小学校」脇に出ます。学校先のT字路に「道標」と「解説板」(11:48)。
    

市指定文化財 道標
 江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。
 初期の水戸街道は我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚をたどって若柴宿に来る街道(布川道)と取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り、小通幸谷若柴宿に入る道があった。この二つの道の合流点に現在の市立馴柴小学校の北東東隅の三叉路にこの道標(里程標)がたてられ、三面に水戸十六里 江戸十三里 布川三里と通じる方角とそれぞれの里程が刻まれている。裏面には「この若柴駅街道の碑は文政9年(一千八百二十六)12月に建立した。三叉路で旅人が迷いやすいので若柴宿の老人が相謀り、普門本を読と彫誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた(意訳)」とあり、15名の村人の姓名が記されている。
 明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には牛久沼淵の道路が開通した、そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(「宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)の碑として、往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである。
    






「若柴宿」方向。

 (12:00)強風に煽られそうになりながら、田んぼの中の道を進みます。
    

一面に枯れススキ。

 (12:06)「大坂」を越えると、いよいよ「若柴宿」。
    
                           「大坂 これより旧若柴宿」。

左手に「椿の小径」という案内板。
    
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取手~藤代~若柴~牛久。その2。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-13 21:37:47 | 水戸街道

 (9:41)「サイカチ」の木から20分ほど歩くと、小川にさしかかります。ひたすら直線の道を歩いてきます。
振り返って望む。

橋のたもとに道標。

   「水戸 十八里 江戸十一里 来應寺七丁」。
           


はるか一面、田んぼ。

まだまだ直線の道は続きます。

真夏じゃ歩けません。自販機もなし。

次第に沿道に民家。 

 (10:20)JR常磐線の踏切が前方に見えてきます。
    

踏切の名称に「旧陸前浜街道」とあります。

藤代駅方向。                                   取手駅方向。
    

 「国道6号線・谷中本田」交差点を越えて、「藤代宿」へ。
    

 (10:34)まもなく道は直角に右に曲がります。その手前、右手の角には立派なおうち。
    
 「坂本呉服店」が奥に昔ながらの屋敷を構えて、お店を開いています。

その前にも商家があります。

左手の角には「相馬神社本殿」。龍の彫刻が見事だそうです。

 その先、「藤代公民館」はかつての本陣跡。建物はなくなったが、当時の「本陣松」と「サルスベリ」が公民館脇に移築されている、とのことでしたが、あいにく耐震工事中で中に入れません。


藤代宿
 水戸街道千住宿から6つ目の宿場町。現在の茨城県取手市藤代・片町付近。
 藤代宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)であり、それ以前は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流するという流れであった。そのため、藤代宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他宿場町より、多少遅れている。
 藤代宿は、宿場町としてはひとまとめで扱われることが多いものの、内部では江戸側(藤代庁舎側)の藤代宿と水戸側(藤代駅側)の宮和田宿に分かれていた。本陣などの宿場町としての役務も持ち回りとなっていた。藤代宿側の本陣は、現在の藤代中央公民館となっている場所にあり、名主は飯田家が代々務めた。戦中も被災せずに残っていたが、1950年2月に昭和の町村合併で誕生した旧北相馬郡藤代町の庁舎建設のため取り壊された。その後、この地に本陣があったことを記した看板が本陣の玄関前にあった百日紅の木と共に設置された。
 なお宮和田宿にも本陣が置かれていたが、記録が残されておらず詳細は不明。

本陣玄関脇にあった百日紅と本陣跡の看板

                                    (以上、「Wikipedia」参照。写真も。)
そこから宿内を望む。

 まっすぐに進み、道なりに左に曲がって、「宮和田」地区に入ります。

(10:47)来た道を振り返って望む。写真の左奥が「藤代駅」。

 藤代駅のベンチで小休止し、再開。

直線で続く「旧宮和田宿」の街並み。

小さいながら重厚な印象のおうちがあります。

現代的な建物の中に昔風の建物。

 旧街道らしい建物はほとんど見当たりません。振り返って望む。


 県道は左にカーブしますが、旧道はそのまま、まっすぐ「小貝川」の土手に向かいます。


    
                 「小貝川」。上流には「文巻(ふみまき)橋」。

土手から「宮和田」地区を望む。

(11:16)「文巻橋」を渡って対岸へ向かいます。

 古くは小貝川の川筋が下総国と常陸国の国境でした。旅人は「宮和田の渡し」と呼ばれる渡船によって小貝川を越えました。「宮和田の渡し」は、現在の文巻橋の100m程下流にあったようです。



 現在のようす。上にある橋が「文巻橋」。下が常磐線。中央斜め左に旧道。「小貝川」で分断されているが、対岸に旧道の痕跡あり。



 1880年代のようす。流路が現在よりも西寄り。対岸の街道筋に集落があった。
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取手~藤代~若柴~牛久。その1。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-12 18:47:32 | 水戸街道

 「水戸街道」をゆく。第3日目。12月10日(土)。快晴。空は真っ青。しかし、寒風(この辺りだと「筑波颪(おろし)」とでも表現するのでしょうか、強風が吹きすさぶ一日でした。
 「東海道」の旅。静岡では強い西風に向かって進みましたが、今回は北風。土地によって吹く風の向きは違います。

 (8:58)前回の最終地点、「取手宿本陣」からスタート。
 取手宿から次の藤代宿までは、利根川と小貝川の氾濫などで、本通り、中通り、椚木廻り、大回りの4本の街道があったとされています。今回の旅では、一般的に歩かれ、道標が随所にある「本通り」を歩くことにします。

 旧街道筋らしい古い町並みが所々に残っています。
    

商家らしい佇まい。

(9:05)「八坂神社」を過ぎ、県道を左に入っていきます。振り返る。

しばらく進むと、左手に「水戸街道」道標。「江戸与利十里八丁」。そのすぐ左手に「阿夫利神社」。
         

(9:13)旧道は右に曲がって県道を渡ります。
振り返って望む。

この道は周囲より一段と高くなっていて、「利根川」土手に向かいます。

(9:19)「利根川」の堤防に近づいたら、左の道に入ります。風強し。
    

静かな道を期待して。

左手に「吉田八幡神社」。

利根川の土手。散歩する姿。

 しばらく住宅街を歩きます。車も通らずのんびりといかず、風が強い。広い敷地と大きなおうちが目立ちます。
    

振り返って望む。

しばらく進むと、先ほどの道標と同じ道標が「サイカチ」という木の下にあります。
    
                                     「江戸与利十里二十二丁」。

    

サイカチ
 樹高17m 幹周り2.3m 推定樹齢 202年
 水辺を好む樹木であり、吉田地区は適地といえる。さやは30㎝位になり、若いさやはつぶして洗剤にトゲは利尿剤や解毒剤として利用された。

 見上げると、枯れたさやがけっこう残っていますが、分かりにくいので「Wikipedia」から。

 (9:30)この先は、田んぼの中の一本道。
    

 田んぼの向こうには筑波山。穏やかな風景(実は激しい風に吹き飛ばされそう) 
          

    
    
 1880年代のようす。                       現在のようす。→が水戸街道。

 但し、1180年代の地図(「歴史的農業環境閲覧システム」より)では「陸前浜街道」は、通称「中通り」と呼ばれた道となっています。「本通り」の西側、田園地帯の西縁を進んでいるようです。


1880年代のようす。
 右の直線が今回歩いた「本通り」、西の曲がりくねった道が「陸前浜街道」(中通り)。


現在のようす。
 本通りはほぼかつてのままだが、「陸前浜街道」(中通り)は定かではない。
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小金~我孫子~取手。その5。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-07 20:21:02 | 水戸街道

 (14:34)やっと渡り終えそうです。対岸は、取手市。
    
                                       振り返って望む。対岸は我孫子市。

取手市。



1880年代のようす。明治に入って渡し場の位置が上流の方に移動したようです。



現在のようす。

橋を渡り終えると、右に進みます。常磐線のガード下。

その先で「取手宿」に入ります。「宿場通り」。

(14:49)左奥に「長禅寺」。

その参道入口に「奈良漬の新六」の店があります。

    

奈良漬
 そもそも奈良が発祥の地で、ルーツについては古く奈良時代に遡ることができます。1988年、奈良朝廷の左大臣長屋王(ながやのおう729年没)の邸宅跡から出土した3万点の木管の中に粕漬についての記述木片が発見されました。木片には、ウリ・ナスやミヨウガを酒粕に漬けこみ木箱に入れて進物用に用いられたと記されてあります。
 当時、貴族階級は酒(どぶろく)と粕漬を嗜む趣があり、粕漬は食物のなかで保存食としてまた、香の物として珍重され高級食品であったことがうかがい知れます。その後、粕漬は奈良に訪れる旅人に食され庶民に広く親しまれるようになり、『奈良漬』して一般的に呼ばれるようになりました。
 特に江戸時代には、将軍徳川家康は奈良漬を大変好み、江戸屋敷まで奈良の糸屋宗仙(漢方医で奈良漬を造る名人)を呼び寄せ奈良漬の製造御用商人として召し抱え、四季を問わず食膳に香の物として食していたと言われております。一説には『奈良漬』という名になったのは、糸屋宗仙が慶長年間(1596~1615)に名付けたと言う説もあります。

 取手の奈良漬がもう一つの名産地である由縁は、関東平野を流れる利根川水系と夏野菜を育む豊かな土壌にあります。特に茨城県南部は奈良漬の原料である瓜や胡瓜などを栽培するのに適した地域となっており、良質な新鮮な夏野菜が確保しやすい立地にあります。また銘醸地としても知られている石岡や水戸は、関東地方のなかでも屈指の酒どころで、これらの県産酒から産出される副産物の酒粕が芳醇な奈良漬を生み出す元となっております。

新六本店
・将軍家継の代に、取手に新六住むとある。寛政の頃には酒造業を営み、文政にいたって利根川に廻船問屋に精を出す。粕漬の元になる酒造り、材料を集めるための船運の仕事が、その後の奈良漬造りのために大いに役立つとは・・・
・先々代田中新六、試しに造った奈良漬が意外においしいので、親戚、知人に分けたところ大いにほめられる。気をよくした新六、明治元年にいたって遂に発売しようと決心。屋号もその名の通り「新六」。取手の新六としてたいへん親しまれる。
・その後も日夜、製法を研究練磨しているところ、新六のうわさは村々から近隣の国にまで拡がる。明治33年明治天皇笠間行幸の際、茨城県知事を経て宮内大臣田中光顕閣下より奉献の栄を賜わる。 さらに昭和4年、水戸陸軍特別大演習に、昭和陛下行幸の天覧を賜わり、宮内省より御買上の光栄に浴した。
・大利根の流れが育くむ関東平野。そこにとれる新鮮な野菜を素材に、酒粕やミリン粕のほかは、合成添加物を一切加えず今も木の樽に漬け、土蔵の中に自然にねかせて造る。人手と時間をたっぷりかけた新六の奈良漬の評価は高まるばかり、季節を問わず食膳に欠かせないものとして喜ばれている。

 元来の奈良漬の素材は白瓜。それが中国から仏教とともに日本に渡来し、酒の名産・奈良で中国帰りのお坊さんが漬けたのが発祥とされます。つまり奈良漬は、原料の白瓜がよく育ち、良質の酒粕に恵まれた土地の特産物。その点、ここ利根川水系一帯もよい野菜とよい酒の産地。奈良漬の生まれ育つ風土的条件にはぴったりです。
 奈良漬は、パリパリでもさくさくでもいけません。あくまでもシャリッと、みずみずしい歯ざわりでなければ。肉質がやわらかく、しかも歯切れがよく…。これが奈良漬の真髄です。
 「私が味わって満足できないものは、店に出しません。店に出している製品の味は、すべて私の責任です。生まれたときから奈良漬と一緒に育った私です。いい奈良漬の味を、この舌が知っています。私の第一の務めは、その舌を狂わせないこと。そのためには、何を犠牲にしてもいいと思っています。」


(以上、HPより)

 お店の中はけっこう賑わっています。少し変わっていますが、「生姜」と「山牛蒡」の「奈良漬け」を購入。家で食すると、酒粕の香りと素材のしゃきしゃき感が絶妙で気に入りました。
 茨城県内はもちろんですが、都内では唯一、銀座ので扱っているとのことです。 

(14:55)お隣は明暦元年(1655)創業の「田中酒造」。 

㈱田中酒造店歴史
 江戸前期、陸前浜街道の要衝として発展してきた取手宿。その面影を残すのは取手市内には、参勤交代で使用された本陣と様々な寺社仏閣、そして君萬代醸造元田中酒造店があります。
 常総大地の東のはずれ、利根川の砂礫層を通ってくる豊富な伏流水と後背地に相馬、谷和原の穀倉地帯を控える地の利から創業(明暦元年1655年)以来日本酒を醸造してまいりました。
 明治17年(1884年)、現在の牛久市域で陸軍近衛砲兵の射撃演習が行われた際、明治天皇が行幸し、牛久の旧家が行在所となりました。天皇が利根川を渡り行在所に向かう途中喉の渇きを訴え、造り酒屋の水なら大丈夫、という事で差し出されたのがここの井戸水でした。天皇が大変満足されお気に召した為、天皇の行在所滞在中、水を運ぶこととなり、その功により明治 天皇より下賜されたのが「君萬代」の銘柄であると伝えられています。
           

「君萬代蔵開き 2016年12月4日」。

「本陣通り」。

左手に「染野本陣」。

 (14:58)休館日のため見学できず。奥にある「本陣門」と「案内板」。
    

旧取手宿本陣染野家住宅 茨城県指定建造物(主屋と土蔵は平成8年1月25日、表門は平成26年1月27日に指定)
                         取手市指定史跡(昭和62年1月1日)
 江戸時代、水戸街道は、現在の足立区千住と水戸を結んでいました。大名が宿泊や休息した家を本陣と呼びました。染野家は、代々取手宿の名主を勤めており、水戸徳川家から本陣に指定されました。水戸徳川家の藩主だけでなく、水戸街道を行き来する他の大名や高位の武士も染野家を本陣に利用しました。
江戸時代、取手の宿場はたびたび火災にあい、現在の旧取手宿本陣染野家住宅は、寛政6年(1794年)の火災の翌年に、表門は文化2年(1805年)に再建されました。現在の敷地はほぼ当時のままで、主屋(しゅおく)・土蔵・表門(おもてもん)・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の歌碑が残っており、当時の様子がうかがえます。
「旧取手宿本陣染野家住宅」。

(以上、HPより)

取手宿
 水戸街道千住宿から5つ目の宿場町。

                          

 現在の茨城県取手市取手・東のあたり。宿場町は東西に1キロ弱の範囲で広がっている。水戸街道は利根川を南北方向に渡っているが、その水戸側・北岸で向きを変えて東南東に向い、取手宿に入る。対岸の江戸側・南岸にも、正規のものではないが、青山宿という小規模な宿場町があった。
 取手宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)であり、それ以前は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流するという流れであった。そのため、取手宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他宿場町より、多少遅れている。
 取手は、宿場町であるだけではなく、利根川水運の拠点地・物資集積地でもあったことから、二百軒程度の家並みが並ぶ大規模な集落を形成していた。旧道筋には2005年現在も、多少の古建築を見出すことができる。
 
 取手宿と藤代宿との間には小貝川水系の低湿地があり、小貝川は暴れ川であったことから、この区間は東から西へ「本通り」「中通り」「椚木廻り」「大廻り」とルートがわかれ、増水時の迂回路が用意されていた。

                                                   (以上、「Wikipedia」参照。)

 (15:05)次の宿まで行こうと思いましたが、来客があるというので、今回はここまで。
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小金~我孫子~取手。その4。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-06 21:50:35 | 水戸街道

 「我孫子宿」を出て、この先、いよいよ「利根川」を渡って、「取手宿」へ向かいます。


しばらく進むと「成田街道」との追分(分岐点)。

 三叉路のところに「成田道」道標など石塔が建っています。
    

直進する道が「成田街道」。

左斜めに進むのが「旧水戸街道」。
                                               「追分」を振り返って望む。

 JR「成田線」の踏切には「浜街道踏切」とあります。
    

そのまま進むと、旧道はJR線に突き当たります。  

このガードは「通行禁止」。

 その先の常磐線ガードをくぐって、線路の向こう側に出ます。この辺りの旧道はよく分かりません。その先はインターチェンジ風になっていて、どう歩くのか、迷いました。
 「我孫子市教育委員会」の建物脇を通り、右手の「老人福祉施設」の先を左に曲がります。ようやく旧道に復帰できた? 
    

 左手に「柴崎神社」を見て、そのまま進むと、「国道6号線」の「柴崎交差点」に出ます。その先、国道に沿って進みますが、旧道はこの辺りでどのように進んでいたのか? 「国道6号線」東側には旧道が残っているようなので、「青山台」交差点で右に折れて、国道沿いに進みます。
「6号線」方面を振り返る。

クランク状の道筋。振り返って望む。

右折、左折すると、古い家並みが続き、渡し場がその先に。

 突き当たりが、「利根川」の土手。



1880年代のようす。明治になってかつて渡し場は廃止され、現在の国道6号線・「利根川大橋」付近になっているようです。



現在のようす。「国道6号線」と「常磐線」。

 「大利根橋」付近の昔と今。





(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 いよいよ「利根川」を渡ります。現在、下流の常磐線の先に取手市が行っている「渡し船」があるようです。20分近く歩きます。けっこう長い。風は冷たいし、・・・。
    

広い河川敷はゴルフ練習場。

 川幅もけっこうあります。常磐線の鉄橋。
    
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小金~我孫子~取手。その3。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-05 19:33:26 | 水戸街道

 この先、旧水戸街道は、「国道356号線」となります。しばらく進むと、「旧道」はJR線に分断されてしまうので、国道と離れて、跨線橋を渡ります。
 「我孫子市立第4小」の脇を進むと、「我孫子宿」に入ります。

    
                                                来た道を振り返って望む。

この先から「我孫子宿」。

(12:14)宿場らしい鈎型に曲がった道になります。
    

我孫子宿(あびこしゅく)
 水戸街道千住宿から4つ目の宿場町。現在の千葉県我孫子市本町・白山・緑・寿付近にあたる。
 本陣・脇本陣が置かれた大規模な宿場町で、東西に1km弱の範囲に広がっている。宿場町東端から数百m水戸側に離れたところには、成田方面に向う街道筋との追分があり、石碑が建てられている。天保14年(1843)では家数114軒、本陣1,脇本陣1軒。常備人馬は10人、10疋。
 旧道筋が拡幅されたこともあり、ほとんど古建築は残されていない。本陣跡も、説明が付された杭が立てられているだけである。

               (「Wikipedia」より)

 (12:25)さて、やっとJR我孫子駅前に着きました。それほど大きな駅ではないようす。さっそく、知人に電話。

「もしもし、今、我孫子駅前にいるんだけれど」
「あっそう、なんでまた? 」
「ほら、水戸街道歩きでここまで来たのさ。」
「それはご苦労様です。」
「飯でも一緒に食おうかと思って。」
「大変残念でしたね。今、銚子に来ているんですよ。銚子。」
「えっ、せっかくの休みの日なのに。」
「キノコの採集でさ、来てるんだよ。けっこう今日は寒いね、ご苦労さん。」
「ホント、風が冷たいよ。」
「僕のうちはさ、天元台駅の方だから。」
「いないうちに行ってどうするんだよ。」
「ここが私のうちかって確認してもらってもいいよ。」
「そんなの意味ないじゃない。これから取手に向かうところだよ。」
「お疲れさん。寒い中、ま、頑張って下さい。」
「このへんに飯屋はあまりなさそうだね。」
「う~ん、老舗のうなぎ屋はその先の方にあるけれどね。」
「ご馳走してくれるならいいけど。」
「銚子だから無理だよ。」

・・・
 
 大いに当てが外れて、「日高屋」に入りました。先週の街道歩きに続いて同じチェーン店に。

我孫子にゆかりのある文化人。そういえば志賀直哉なども。

 さて、再開。我孫子宿の中心地を進みます。

    
                             (12:59)「割烹旅館 角松本店」。

せめて写真だけでも。(HPより)

その先で道は左に折れます。振り返って望む。

道標「従是子ノ神道」と解説板。

水戸道中と我孫子宿の町並み
 江戸幕府は今から約400年前の江戸時代初めから、江戸を中心とした陸上・水上交通網を整備しました。江戸と水戸とを結ぶ「水戸道中」は水戸徳川家や常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、東海道などの「五街道」に次いで重視されました。水戸道中は奥州街道の千住宿から分岐し、新宿(葛飾区)~松戸宿~小金宿~我孫子宿を結び、江戸初期は布佐から竜ケ崎経由で水戸を目指していましたが、天和2(1682)年には第一小学校入口交差点を北に進み、取手宿を譬喩するルートに変更されたことが資料から判明しています。
 江戸中期の宝暦8(1758)年に書かれた「土浦水戸道中絵図」の我孫子宿(吾孫子と表記)では、カギの手状に曲がった道に沿って70軒ほど家並みが続き、幕府や大名等の公用旅行者の宿泊所である「本陣」(小熊郷右衛門宅)が白い蔵を伴って建っている様子が描写されています(本陣は現在地の北約50㍍)。また、現在地付近には伝馬(馬・人足)と公用文書の輸送(継飛脚)を管轄する役所である「問屋場」が置かれていました。本陣、問屋ばともどのような建物が建っていたのか不明ですが、ここから約1キロ東にある旧村川別荘の母屋は、本陣の離れを大正10(1921)年に解体移築したものと伝えられ、当地角に立つ寛政元(1789)年の「子の神道標」と合わせて、江戸時代の我孫子宿を偲ぶ数少ない資料となっています。

  平成24年3月           我孫子市教育委員会

    

その先、左手に「我孫子本陣跡」碑。 
 この付近には江戸時代の参勤交代などのときに大名などの宿泊・休憩場所として使われた「本陣」がありました。

  平成13年3月           我孫子市教育委員会


 今度は大きく右に曲がりますが、その手前、左手には「脇本陣跡・小熊邸」。今も現役の茅葺き屋根のおうち。
    

交差点の左手には「割烹・鈴木屋」。

そこから来た道を振り返って望む。

 鈴木屋は明治12年に成田街道沿いの宿場町・我孫子の宿という場所に宿屋を構えたのがはじまりです
 おかげさまで137年店を営んでくることができましたこと 心より感謝申し上げます
 我孫子は都心より35分という便利な立地ながら北に雄大な利根川をひかえ南に水鳥の群れる手賀沼をのぞむ緑ふかく、豊かな水に恵まれたその風光明媚な景色から「北の鎌倉」と呼ばれ、かつて志賀直哉をはじめ多くの文人たちに愛されてきました
 時が流れ町の景観がかわりゆくなか 今もなおその自然は多くの人の心に安らぎを与えてくれます
 鈴木屋も日本料理の伝統を受け継ぎつつ、「どこか心安らぐ場所」であり続けたいと願っております

・・・

(以上「鈴木屋」HPより)

 ここでは、毎月、「わいわい亭 寄席」を開催しているとのことです。
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小金~我孫子~取手。その2。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-03 20:35:10 | 水戸街道
 (10:52)「柏神社」前を行きます。北柏から我孫子へ向かいます。

 柏神社脇の解説板。

水戸街道の木戸
 江戸時代、柏市域の一部は小金牧といわれた幕府直轄の馬の放養地、供給地であり、当時の水戸街道はこの牧の中を通過していました。その情景は下の「水戸土浦道中絵図」から探ることができます。
 牧の中を水戸街道が画面東西に走りぬけ、その街道沿いには松並木と想われる樹木、周辺の野原には野馬の群れる姿が見られます。牧のはずれには木戸(「柏木戸」「新木戸」)が置かれ、その周囲には野馬土手が築かれている様子がわかります。
 水戸街道は、水戸藩士の通行や人々の物資の輸送などに使われた重要な道でした。そのため牧と村の出入口には木戸を作り、人々の往来を確保し、無宿者や浪人者などにも対処するための関所の役目も果たしていました。明治時代になって地租改正が行われ土地に番地がつくようになると、柏木戸のあったところが柏一番地となりました。
 現在、木戸は残されていませんが、水戸街道の「新木戸」や成田街道(現在の県道我孫子・関宿線)と言われた「花野井木戸」「船戸木戸」などが今でもバスの停留所の名称として使われています。

駅前商店街。

(10:57)「巻石堂病院」。

ユニークな道標? 

(11:12)「国道16号線」と交差します。    
                                         「旧水戸街道入口」。

たどってきた道(柏方向)。  

これからたどる道(我孫子方向)。

 (11:21)JR常磐線跨線橋を渡ります。正面の建物は、「ハート柏迎賓館」。
    

「ハート柏迎賓館」。
                        ここは、結婚式、歓送迎会、パティーなどに利用されているようです。

線路に沿って進みます。

民家の脇に古い馬頭観音道標。「ながれやまみち」、正面に「馬頭観音」。    


 しばらく進むと、「国道6号線」北柏入口交差点になります。旧道は寸断されるので、陸橋下をくぐります。「国道」の向こうは、大規模物流施設「ロジポート北柏」。

    
                        (11:33)呼塚河岸跡(呼塚橋から。正面は常磐線、その先は手賀沼)


「根戸大坂」。緩やかに右に左に曲がる道筋。

根戸地区。大きなおうちが目立ちます。
    

「災害用井戸 協力の家」。

(11:47)JR「北柏駅」を過ぎた左手に「東陽寺」。

    
                           邸内にたくさんの石像が並ぶおうち。

しばらく進むと、右に大きく曲がります。

昔ながらの大きな農家、そして、祠。  

(12:00)「国道6号線」根戸交差点を渡ります。

    
来た道を振り返って望む。                                  我孫子方向を望む。
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小金~我孫子~取手。その1。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-02 19:00:04 | 水戸街道

 11月23日(祝)。曇り。風冷たし。水戸街道第2日目となります。
 我孫子に知人がいるので、うまくしたら飯でもご馳走してもらおうかと、そんな魂胆で。

 北小金駅を降りて前回の「道標」のところまで。「小金宿」から「国道6号線」に向かいます。


(9:28)今日はけっこう肌寒い。イチョウ並木。

国道6号線との交差点が「根木内」。左側の丘陵が「根木内城跡」。
    
 「北小金」駅方向を振り返って望む。                     

 一帯は、「根木内歴史公園」として整備されています。丘陵奥に広がっています。

(9:37)案内板。 

根木内歴史公園
 松戸市内には戦国時代の城郭が10ヶ所以上あったと考えられています。残念ながら大半は急激な市街化によって消滅してしまいました。当時の面影を残しているのは、ここ根木内城跡と小金城跡の2ヶ所です。
 根木内歴史公園には、「空堀」「土塁」「土橋」などがよく残されています。戦国時代を物語る歴史遺産として、地域の誇りとも言える遺跡です。・・・

城のはじまり 戦国時代がはじまった15世紀中ごろ
築城者    原氏または高城氏(下総国守護千葉氏に関わる武家)
城の役割   小金城の東側を守る拠点・街道の監視など 
城のおわり  豊臣秀吉が天下統一を果たした16世紀末(1590年ごろ)
城郭の規模  東西200m、南北500m(公園の南北を含む推定範囲)

 ゆるやかな坂道を行くと、「柏市」に入ります。
    

右手に庚申塚。   「庚申塚」バス停。

民家の入口付近にあった聖徳太子塔・庚申塔。「中新宿村」とあります。
  

(9:57)その先、香取神社の境内に「一里塚の碑」。
    

一里塚の碑
 この香取さまの社頭 南北に通う道は 江戸と水戸との往還 水戸街道であります
 むかし街道には 一里毎に土を盛塚となして 榎の木を生やし 旅人たちの目じるしとも 濃い陽射しには憩いの日陰を 俄かの雨には頼みの木立を それは嬉しくも美しい 自然と人間との かかわりでもありました 
 ここにも 一里塚があって 長い年月の程を朝に夕に 往き来の人を 送り迎えた榎の巨木は 幾とせか前に枯損して 塚は毀ち均され これは植え継がれた榎です
 過ぎゆく 忽忙の歴史の彼方に そこはかとなく 忘れ去ることの忘却を想い この碑を建てました
 昭和六十二年秋 氏子総代
  下陰を さがしてよぶや 親の馬 一茶

 注:この句は、小金牧の放馬を詠んだ句で、季語は下陰。一茶(この頃、48歳)は、文化7年(1810年)6月14日、流山から小金原を経て守谷に向かいます。

   十四 晴  小金原  布施村中食す。守谷西林寺入。将門旧迹所々に有。(『七番日記』より)

 余談ですが、「七番(しちばん)日記」は、一茶48歳から56歳までの句日記で、特に若い妻をめとり、「交合」(セックス)の回数などの記録が赤裸々に綴られているのでも有名な生活記録「日記」です。昼夜を分かたず交合し、子作りに励むようす、精力剤のことなどもあり。(まさかこうして公にされるとは思っていなかった? ということはないでしょうが。) 

 「七番日記」中、有名な句を一句。痩蛙まけるな一茶是に有

旧道沿いには農家風の古いおうち。

 (10:19)直線の旧道は、かつて松並木になっていたそうです。
解説板。

水戸街道の松並木
 江戸時代、水戸街道(水戸道、水戸道中)は、江戸と水戸を結ぶ重要な街道でした。日本橋から千住、江戸川を渡り、松戸、柏の小金牧の中を通り、我孫子で利根川を渡り取手、牛久、土浦を経て水戸に至る行程です。現在、この旧道に沿って国道6号線やJR常磐線が走っています。
 水戸街道は、水戸藩士の通行や旅人の往来に使われていましたが、広大な原野である「小金牧」を通過するため、道に迷うことがあったようです。そこで、水戸藩から資金を与えられた街道に千本の松を植え、道しるべの役割としたのが、松並木のはじまりといわれています。
 昭和50年代までこの付近には、当時をしのぶ松並木が見られましたが、付近の環境が変わり、松も老木となったりして切られ、現在では残されていません。
     
    平成19年10月 柏市教育委員会

 現在のようす。「南柏駅東口」交差点を過ぎた先、「とんこつラーメン店」のところから西に「日光東往還」が始まっています。常磐線跨線橋を渡って西北に向かいます。


日光東往還
 日光東照宮参詣の為に造られた日光街道の脇往還である。水戸街道小金宿 - 我孫子宿間の追分と日光街道石橋宿 - 雀宮宿間の追分を結んでいた。
 日光東往還は、水戸街道小金宿と我孫子宿の間、向小金より北東、かつての小金牧内、現在の柏市豊四季字新木戸(JR常磐線南柏駅付近)で分岐し、関宿、結城といった城下町を経て、日光街道石橋宿と雀宮宿の間、かつての河内郡茂原新田御料、現在の下野市下古山と河内郡上三川町鞘堂の境付近(JR宇都宮線宇都宮貨物ターミナル駅付近)で日光街道に合流する官道であった。その道程は20里34町(約82キロメートル)に及ぶ。参詣目的のほかに周辺大名の参勤交代や物資の輸送、庶民にも利用された。関宿道、結城街道、結城道、多功道という名称もあったほか、江戸幕府による正式名称は関宿通多功道であった。
 現在、周辺住民からは旧日光街道と呼ばれるほか久世街道、結城街道などとも呼ばれる。前述の南柏駅付近を走る国道6号には「旧日光街道入口」という交差点も存在する。
                                                            (以上、「Wikipedia」参照)

(10:25)その付近にある「新木戸」バス停。

    

1880年代のようす。「日光東往還」との追分付近。


現在のようす。すっかり住宅地に。



「雷神社」。

(10:43)JR柏駅前の賑やかな街並みに。

《付》

小金牧 ~開墾と野付村の生活~
 水戸街道を松戸・小金宿を過ぎて北に向かうと、土手に囲まれた木戸に突き当たります。茶店があり、木戸番に頼んでその木戸をくぐると、小金原・上野牧に入ります。旅人を誘う松並木が植えられ、野馬たちには炎天を遮る日陰を提供してくれていました。「下陰をさがして呼ぶや親の馬」と一茶が詠んだのもこの辺りでしょうか。この原は小一時間で柏の木戸(現在の旧水戸街道千葉銀の辺り)を出て再び街道に出ます。水戸街道を旅する誰もが通過する小金原の道でした。

鹿狩絵図(大久保忠寛家蔵)

 小金が原は40里野とも呼ばれ、佐倉牧と共に下総台地中央を南北に連なる牧の総称です。高田台牧(十余二)、上野牧(豊四季)、中野牧(初富・五香・六実)、下野牧(二和・三咲)、印西牧(十余一)の五牧があり、約2千頭弱の野生馬が育まれていました。江戸の中期までは野生の鹿も多く、ごくまれにはオオカミも生息していたという記録もあります。200年前には、この北総の原にオオカミがいたことを想像してみて下さい。他にもイノシシやウサギや、狸や狐などが駆け回る自然があったのです。
 牧と周辺の集落は、野馬土手(野馬堀)と谷津で緩やかに仕切られ、水田の用水と野馬の飲み水は共用していました。この様な広大な原野が広がっていたのは、海抜20メートルほどの痩せた赤土の北総台地上でした。水が乏しく風の早い原地で(風早という地名も残っている)、森林にもならない不毛の荒れ地が多かったようです。幕府や御三家の鷹場が設定されたためか、江戸からわずか30キロ圏とは思えない程、自然に囲まれていたのです。現在の人口急増の旧東葛飾郡の市街地への変貌は、明治維新に始まる小金原開墾以後の事です。

(以上、HPより)
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