おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その4。荒川土手から元荒川沿いに。久下(くげ)。元荒川通り。伊勢前橋。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-20 18:25:33 | 元荒川

荒川土手(旧中山道)とは、ここでお別れ。

現在の荒川の流路は、江戸時代初期に行われた土木事業によってその原型が形づくられました。江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。
 荒川はその名のとおり「荒ぶる川」であり、扇状地末端の熊谷付近より下流で、しばしば流路を変えていました。
 関東平野の開発は、氾濫・乱流を繰り返す川を治め、いかに川の水を利用するかにかかっていました。江戸時代の寛永六年(1629)に、伊奈備前守忠治(いなびぜんのかみただはる)が荒川を利根川から分離する付け替え工事を始めました。久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、堤防を築くとともに新川を開削し、荒川の本流を当時入間川の支川であった和田吉野川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです。以来、荒川の河道は現在のものとほぼ同様の形となりました。後世「荒川の西遷(せいせん)」と呼ばれるこの河川改修事業は、埼玉平野の東部を洪水から守り新田開発を促進すること、熊谷・行田などの古い水田地帯を守ること、木材を運ぶ舟運の開発、中山道の交通確保、さらに江戸の洪水の防御などを目的にしていたと言われています。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させていきました。

流路の付け替え前。

    流路の付け替え後。

(この項、「」HPより)

※「久下」地区が現荒川との分岐点だったようです。上図の「備前堤」は、元荒綾瀬川源流付近にあった堤。

「ライオンズマンション行田」の脇の道を下り、「元荒川」に架かる橋へ。

                                  上流方向。右手に分岐口が見える。                             

かつて、流路がこの付近で大きく東北方向に迂回していました。

                                 (現在)

久下(くげ)(四)付近を頂点として大きく湾曲している痕跡。

                             (1,880年代)

     現在、熊谷市と行田市の市境になっている。

現在の流れ。  

しばらくマンション脇を流れる元荒川沿いに進みます。

 

荒川土手(中山道)が建物の間から。

右手に「久下(くげ)第1公園」。

用水路のような流れ。水草が茂っています。

住宅地から離れつつあります。

この付近が大きく迂回していた旧流路との上流側の合流点になります。

 

川沿いの道には茂みが増えてきました。赤い小さな花が密集している。

「埼玉県 元荒川」という標石。

迂回して再び川沿いの道に。振り返る。

              熊谷福祉の里「クィーンズビラ ケアハウス」の裏手。

しばらく土手を歩きます。

「元荒川通り」に出ます。

「元荒川通り・伊勢前橋」。

上流。「高崎線」方向。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする