言語は記号の一種である。けれども、一般的な記号、例えば、地図の記号や信号などとは本質的に異なる。言語以外の記号がその意味するもの(対象)と一対一で対応して、指し示す役割をするのに対して、言語は、一対一で対象を指し示す道具としての記号ではないからだ。言語そのものが曖昧な意味・内容を持ちながら、それ自身が人間にその意味を突きつけてくる働きを行う。記号は文化である。言語は、文化そのものである。
ある言語を用いることは、その人自身の文化的価値であり、人生観・世界観の表象である。それが、〇〇語(圏)となれば、その言語を持つ民族なり、集団の「文化」「思想」「行動様式」などを表したものとなる。その言語によって、その民族の文化・思想・行動様式を表現したことになるのだ。だから、言語の数だけ文化が存在するといっても過言ではない。文化とは「差異」だから。人間は、音声言語・表記文字を用いることによって、思想や文化を表す動物である。
人間は、言語によって混沌とした世界(カオス)を分別し(区別し識別する)、別の側面からいえば、世界(カオス)を分別し識別するために、言語を用いる。事物の存在は、はじめて言語によってそれが事物として存在することになるのだ。身振りや手振りでさえも、その意味・内容を言語化して理解する。だから、「名付け」が記号を考える上(人間と世界の関わりということ)での出発点となる。たとえば、虚数は、数学的世界には存在する。これは、記号論の常識である。
最近、ブログに関わってさまざまな記号(文章・写真・・・)に接するたびに、改めてこのことを思う。自分では何気なく発信した言葉が、相手を傷つけ、一人歩きをして、さらに周り回って自分に刃が向いてくることに無頓着であってはならないと思う。
さらに、東北アジアを巡る問題、歴史教科書問題や国際関係の問題。度重なる政治家の「失言」は、確信犯であるが故に、その人間の価値観・世界観を明らかに示しながら、意図的に関係国と日本との関係を悪化させる働きかけを行う。当事者は、そのことをはっきり意識しての発言である。 だが、マスコミや国民から騒がれると、「失言」を取り消したり、弁解したりする。それならはじめから言わなければいいのに。また、強く批判されると、今度は居直って言論の自由だと言い始める。それは、「言論の自由」を声高に叫ぶこととは、ますます無縁の発言である。己の人生観・世界観の貧弱さを物語っただけにすぎない。
かの一善君が「泥酔していて記憶にない」「一生お酒は飲みません」などという発言をまともに受け取った人は誰もいないだろう。「言論の自由」とはまさに「何を言っても許される」が、それで終わってしまうことではない、必ずつけが回っていく。しかし、かの一善くんは、そうなるとは思ってもいまい。
日本の政治家としてもっともふさわしい人を国会の場から失ってしまった。
ある言語を用いることは、その人自身の文化的価値であり、人生観・世界観の表象である。それが、〇〇語(圏)となれば、その言語を持つ民族なり、集団の「文化」「思想」「行動様式」などを表したものとなる。その言語によって、その民族の文化・思想・行動様式を表現したことになるのだ。だから、言語の数だけ文化が存在するといっても過言ではない。文化とは「差異」だから。人間は、音声言語・表記文字を用いることによって、思想や文化を表す動物である。
人間は、言語によって混沌とした世界(カオス)を分別し(区別し識別する)、別の側面からいえば、世界(カオス)を分別し識別するために、言語を用いる。事物の存在は、はじめて言語によってそれが事物として存在することになるのだ。身振りや手振りでさえも、その意味・内容を言語化して理解する。だから、「名付け」が記号を考える上(人間と世界の関わりということ)での出発点となる。たとえば、虚数は、数学的世界には存在する。これは、記号論の常識である。
最近、ブログに関わってさまざまな記号(文章・写真・・・)に接するたびに、改めてこのことを思う。自分では何気なく発信した言葉が、相手を傷つけ、一人歩きをして、さらに周り回って自分に刃が向いてくることに無頓着であってはならないと思う。
さらに、東北アジアを巡る問題、歴史教科書問題や国際関係の問題。度重なる政治家の「失言」は、確信犯であるが故に、その人間の価値観・世界観を明らかに示しながら、意図的に関係国と日本との関係を悪化させる働きかけを行う。当事者は、そのことをはっきり意識しての発言である。 だが、マスコミや国民から騒がれると、「失言」を取り消したり、弁解したりする。それならはじめから言わなければいいのに。また、強く批判されると、今度は居直って言論の自由だと言い始める。それは、「言論の自由」を声高に叫ぶこととは、ますます無縁の発言である。己の人生観・世界観の貧弱さを物語っただけにすぎない。
かの一善君が「泥酔していて記憶にない」「一生お酒は飲みません」などという発言をまともに受け取った人は誰もいないだろう。「言論の自由」とはまさに「何を言っても許される」が、それで終わってしまうことではない、必ずつけが回っていく。しかし、かの一善くんは、そうなるとは思ってもいまい。
日本の政治家としてもっともふさわしい人を国会の場から失ってしまった。