おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ヒロシマから広島、そして再びヒロシマへ

2005-03-25 23:16:32 | 平和
 広島。25年ぶりくらい、久々の原爆ドーム。資料館。のどかな春の日差しのもと、平和公園の川辺では何組かの青年たちが歌に興じていました。
 その姿を見ながら、平和公園をはずれて初めて爆心点に行きました。島外科病院です。1945年8月6日午前8時15分、その真上で投下された原子爆弾が爆発しました。見上げると、青空が広がっていました。
 袋町小学校資料館も初めて訪れました。爆心地からほど近いこの小学校(国民学校)は、鉄筋コンクリートだった西校舎だけが残りました。校庭で朝礼をしていた教師・児童は、原爆の高熱と爆風で一瞬のうちに跡形もなく地上から姿を消しました。
 この学校の階段の壁には階段にそって、行方不明者の安否を気遣う伝言がそのまま残されています。また、教室にも白墨で書かれた伝言が残されています。実に切々とした思いに駆られます。助かったのは、わずか数名。それもたまたま地下室の下足箱にいたからだそうです。
 今回の収穫の一つは、原爆投下前の家屋、住民・氏名の復元図でした。前に来たときにその復元作業を行っているところで、その資料を呼びかけていたような記憶があります。ほぼ完成していました。その原爆投下前の市街地の立体模型と原爆投下後のほとんど消え失せた立体模型を比較すると、いかに原爆が市井の人々の生活を一瞬のうちに奪い取ったかを確かめることができました。
 また、投下直後、米軍の撮影した写真は原爆の被害状況をみるためのものに過ぎなかったことも改めて感じました。生々しい写真を通じて、アメリカ(人)の核への恐怖が、「核抑止力」というかたちでいまもなお続いていることの原点はここにあるという感じがしました。新潟・広島・小倉・長崎は、他の各都市が焼夷弾などの爆撃を受けていたにもかかわらず、ほとんどなかった。そこに、原爆の威力の実験材料として温存されていたといいます。そして、日本の広島(長崎)では一瞬のうちに多くの生命が奪われました。
 そうして、不充分さはあるものの、広島は、反核の発信地として世界にメッセージを送り続けています。しかし、アメリカは、その悲惨な現実から、それを核兵器の巨大な破壊力と恐怖心とを結びつけ、いっそう、核開発を進めてきました。人間の持つ良心とそしてそれとは裏腹な心の存在をいやというほど見せつけられました。かつて、25年前、「ヒロシマから広島へ」という短い文章をある機関誌に発表したことがあります。当時を思い返すと、当時の原水爆禁止運動の中で、政治的に「反核都市・ヒロシマ」というイメージばかりが先行し、地に足のついた市民レベルでの反核運動を作り出すこと、それには被爆の原点に返るべきだという思いから書いたような気がします。
 それから25年以上。当時のアメリカ、ロシア、中国・・・。核大国といわれる国々の他、史上最強の暴力装置の力に依存する国が増えている今日、核の恐ろしさ、悲惨さを訴え続け、核に頼る力の政策では何も生み出さないばかりか、地上においてもう一度原水爆が投下されたならば、人類を滅亡に導くことにつながるということ(これはごく当たり前のことだが)を広島・長崎の被爆体験を通じて訴えていかなければならないと思います。
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