おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

すずめのお宿緑地公園+立会川緑道

2010-10-22 20:54:24 | つぶやき
 何気なしに目黒区の地図を見ていたら、碑文谷の付近、「すずめのお宿緑地公園」というちょっとしゃれた名前の公園が目に入りました。都心にそんな名前の公園があるなんて。さっそく昨日出かけました。秋雨前線の影響とかで、少し冷たい雨が降っていました。JR目黒駅から東急線で西小山へ。この駅が近いということでもないのですが。「立会川緑道」にも興味がありましたので。
 この辺り一帯、今は高級そうな住宅地になっています。その昔、昭和の初め頃は、純農村地帯。特に竹林(チクリン。タケバヤシとはけっして言わない!)が多く、たけのこの産地として知られていたそうです。たけのこの生産は昭和初期ころまで続き、一帯の竹林にはすずめが多く飛び交い、いつしか「すずめのお宿」と呼ばれるようになった、とか。
 やがて付近が宅地へと変わっていき、たけのこの生産も見られなくなってきました。そのような中、地元の一住民の遺志により、没後ご自身の所有地が寄付されることになり、目黒区により公園として整備され「すずめのお宿緑地公園」として1981年4月1日に開園しました。
 公園には、かつてのたけのこの産地であることを思わせるような竹林がありました。昔、数千羽というスズメのねぐらになっていて、付近の人々はここを「すずめのお宿」と呼び、朝はいっせいに飛び立ち、夕方には一団となって帰るスズメを、農作業の行き帰りに眺めたと伝えられています。
 そんな風情を感じさせるように、スズメなどの小鳥のさえずりが聞こえ、辺りも静寂で、心地よい静かな公園でした。しっとりと雨に濡れて緑が冴えて、車の音も聞こえない、いよいよ「忙中閑あり」の心地でした。
 その竹林の奥の一角に、この付近にあった古民家を移築・復元し、農村だった当時の暮らしぶりを再現しています。この古民家は、江戸時代中期に建てられた、旧家・栗山重治さん宅を公園に移築復原したとのこと。
 この家は、江戸時代には代々「年寄り」という役職を務めた家柄であり、その屋敷は、一般に許されなかった「長屋門」を前面に配置し、屋敷林におおわれた格式のたかいものでした。区内には碑文谷、中根などにもこうした村役人階層の屋敷構えの面影を残している民家が今も残っているそうです。
 お邪魔すると、二人のボランティアの方が建物の中から出てきて、いろいろ説明してくれました。薄暗い灯りの中、囲炉裏やかまどが昔ながらのままにあって、郷愁を誘うたたずまいでした。梁もしっかり太く、まさにいぶし銀とも言えるような趣でした。
 ところで、目黒には、このタケノコにちなんだ風習があったそうです。昔は、ふだん日常生活用品はつけで買い、年末に支払うという習慣がありましたが、ここでは筍を売ってお金が入った時支払うという、目黒らしい風習があった、とか。
 目黒といえば、サンマ。でも、それ以外にもすばらしい食べ物と自然と人々の暮らしがあったのですね。
 ところで、西小山駅から歩いてしばらく行くと、緑道があります。「立会川緑道」。
京急で「立会川」という駅がありますが、その川の上流がこの辺り。
 立会川(たちあいがわ)は、東京都目黒区および品川区を流れる二級河川。昭和20年代までは、小魚やザリガニがいるきれいな小川で、地元の子どもたちの絶好の遊び場だった。しかし、高度経済成長とともに川も濁って、すっかり昔の面影はなくなってしまいました。
 その後、2002年7月から水量の確保と水質の改善を目的として、東京都とJR東日本がJR東京駅総武線トンネル内に湧き出る地下水の立会川への送水を行うようになりました。これによって川の水質が大幅に改善し、2003年にはボラが大群で現れ話題になった。西小山駅付近は、道路(立会道路)や、緑の豊富な遊歩道、公園となっています。
 この川。碑文谷池と清水池に源を発して、南東方向へ流れ、大井町駅、立会川駅付近を流れ、東京湾に注いでいます。
 名称の由来には、いくつかあるようです。
①その昔、川を挟んで小競り合いが会った事から「太刀会川」とした。
②鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を立会川を挟んでその親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)事から「立会川」となった。
③中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった。
 果たして真相は?
公園の由来書き。
立会川緑道。
緑道にあった苔に覆われた桜の古木。長い時の流れを身近に感じます。
コメント (2)
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