おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

桜上水・三井牧場

2011-12-16 17:46:32 | 歴史・痕跡
 京王線「桜上水」駅。駅名は、北側を流れる玉川上水にちなんだという。そこで、その名にひかれて途中下車。ぶらり駅の南側。狭い通り。商店も少なめ。ちょっと路地に入ると、昔の道のような趣き。田んぼの端をめぐるたんぼ道。桜の古木がその道に沿って残っている。日頃のカンで・・・。
 実は駅の南東側。古い中層住宅、「桜上水公団団地」。初期の頃の分譲マンションという。老朽化して、建て替え工事が始まるらしい。その裏手は日大文理学部、都立松原高校、区立松原中学校。それぞれ深い緑に囲まれ、落ち着いた自然環境の中のたたたずまい。道も細く曲がりくねったまさに畦道の風情。本筋を外れて少し散策した。
 帰ってから、インターネットで調べると、何とここが「三井牧場」の跡地だった。松原高校と松原中学校の間の道が牧場につながる道だったらしい。正門は、松原高校付近に。
 gooの航空写真・昭和22年を見ると、駅への道は不鮮明だが、田んぼの中に牧場のような敷地があり、周回するような道も存在している。もっと丁寧に観察してくれば良かったが、後の祭り。今度はじっくりと見てこよう。
 鹿島建設も関わっていたらしく、「三井牧場」に関する文章を見つけた。掲載します。

 大正7年、三井合名は東京に住む三井家の自家用牛乳確保のため、東京府荏原郡松沢村(現・東京都世田谷区桜上水)に牧場を作る。見慣れぬ種類の牛がいる牧場と洋風の牧舎は、藁葺屋根の農家が点在する村で異彩を放っていた。
 今は公団団地が広がる住宅街で牧場の面影はないが、この牧舎を建設したのが鹿島であった。

(中略)

 大正3年、三井合名は東京府荏原郡松沢村(現・東京都世田谷区桜上水)の茶畑と丘陵5万m²を購入、翌年5万m²を追加購入する。10万m²(東京ドーム2倍強の広さ)の牧場で、乳質の優秀なジェルシー(ジャージー)種の乳牛10頭を英国から輸入して飼育し、そこから取れる新鮮な牛乳を東京近郊に居住する三井家の人々に提供するためだった。当時牛乳は高価でまだ一般的ではなかったが、家庭教師やコックに外国人を雇うことの多い上流階級の人々にとってはごく普通の飲み物だったのかもしれない。
 大正7年の暮れも押し迫ったころ、竹川渉は鹿島組建築部長の小林政吉に招かれる。高井戸に作る三井家の新設乳牛場の入札指名を受けていて、入札日が来年1月7日に迫っているので、ぜひ鹿島組に入って力を貸して欲しいと言う。今のように見積専門の部隊がいるわけではなく、見積のできる人間も限られていた。彼らは皆現場を抱えていて見積をする余裕はない。当時竹川は家の仕事の関係で勤めに出るのは無理があったのだが、再三懇願され、とうとう「三井の見積だけ」を手伝うこととなる。そして、この工事が落札される。建築工事では特命入手がほとんどだった鹿島にとって初めての入札による入手工事である。小林に口説かれ、2,3か月手伝うつもりで入社した竹川は、結局昭和27年1月に監査役を去るまで鹿島で建築の要職を勤めることになる。
 当時の営業経歴書によると、「三井、牛舎牧場建築工事、木造 53,200円。大正8年3月~大正8年6月」とある。経理のメモによると大正8年と9年に分けて工事利益が計上されている。竹川が「評判も成績も良く竣工して、お手伝いの仕甲斐があったと喜び且つ安心した」(*2)のもうなずける。大正7年に建築した煉瓦造りの中央大学(第4回参照)も4か月程度で竣工しているので、工期としてはこのようなものなのであろう。しかし残念なことに、当時の写真などは三井文庫にも三井不動産(昭和16年~所有)にも当社にも一切残っていない。
 京王線笹塚・調布間が開通したのは大正2年。それまでは甲州街道を新宿から調布まで定期便馬車が一日4便通っていた。京王線桜上水駅は開業しておらず(大正15年北沢車庫前として開業)、この三井牧場の最寄駅は玉川電車(現・東急世田谷線)の下高井戸駅だったため下高井戸牧場と呼ばれた。そして品質の高い生牛乳で有名となり、三井家の誇りの一つとなっていった。
 茶畑、野菜畑、麦畑、桑畑、藁葺屋根が点在する村に突如として出現したオランダ風の畜舎、サイロ、見慣れない牛(当時は牛と言えば役牛)・・・・すべてが当時の人々の想像を超えていた。この地で初めて電灯を引いたのは三井牧場で「電柱と電線を持てば電気を引いてあげる」と、近隣の3軒の農家にも電灯をともした。夕方時間が来ると自然に明るくなるのを人々は不思議がったという。今では郊外とも言えない東京の住宅街の、90年前ののどかな様子がわかる。東京府下だった荏原郡一帯は、関東大震災と京王線の開通で人口が増え、地価が上がっていく。世田谷区が誕生して東京市に併合されたのは昭和7年10月のことだった。
 戦後、三井牧場では乳牛を乳の多く出るホルスタイン種に改め、昭和23年10月からは牛乳を一般にも販売するようになる。搾乳から瓶詰めまでできる機械設備を備え、厚生省から衛生モデルケース指定も受けた牛乳はその品質のよさから「特別牛乳」と呼ばれ、都内の病院や外国人向けに販売された。最盛期には12万リットル/年も生産されたが、昭和37年牧場は閉鎖される。昭和39年、東京オリンピックの開催と相前後して、日本住宅公団が跡地を住宅団地として開発し、桜上水団地が誕生した。

 現在、その当時の痕跡はないらしい。さらに公団住宅の建て替えが始まれば、もっっと歴史の彼方に去っていってしまうだろう。
こんな感じの道が駅に向かって何百㍍か続く。昭和22年の航空写真では田んぼ道だったようで、「三井牧場」はもっと南東側に位置していたらしい。
コメント
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