市内中心部を流れる「甲突川」。その左岸には鹿児島の「歴史」をしのぶ遊歩道があります。
「歴史ロード”維新ふるさとの道”」。
「英国留学生」の説明板。遊歩道を歩きながら、「歴史」を学ぶという趣向。
鹿児島市は、第二次大戦で壊滅的な被害を受けたところでもあります。
本市における戦災の状況~1.空襲等の概況~
※「鹿児島市戦災復興誌」より抜粋
昭和20(1945)年3月から本土への空襲は本格化したが、沖縄への米軍上陸以降、次の上陸地点として鹿児島県は終戦まで単なる補給地、背後地、内地ではなくなり「戦場」と化した。
鹿児島市が直接の攻撃目標となったのは、昭和20(1945)年3月18日から8月6日の計8回の空襲であるが、北部九州ほか、九州全域への攻撃のため、鹿児島市は米軍機の通過地点に当たり、機影を見ない日はほとんどないという状況であった。
また、特攻機が鹿児島から飛び立っており、特攻基地は鹿児島にしかなかったので、米軍の鹿児島に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさであった。
これら前後8回にわたる空襲によって、市内は焼け野原と化し、鹿児島市が受けた被害は、実に死者3,329人、負傷者4,633人、行方不明35人、その他10万7,388人、合計11万5,385人に達した。
その総数は昭和20(1945)年初期の疎開後の人口17万5,000人に対し66%であった。
建物の罹災戸数は、全焼2万497戸、半焼169戸、全壊655戸、半壊640戸、計2万1,961戸で、全戸数3万8,760戸に対し57%であった。
全市は文字どおり灰燼に帰し、市街地の約93%、327万坪(1,079万平方メートル)を焼失した。・・・
(HPより)
戦災復興記念碑。モニュメント。
<大型建造物だけが残る焼け跡の市街地中心部>(平岡正三郎氏撮影)より
そうしたかつての面影は表面上は消え(通りすがりの観光客には)、近代都市にすっかり生まれ変わった鹿児島市街となっていました。市内に残る文化的遺産の多くは「明治維新」あるいは「藩主・島津公一族」に関するものが目に付きます。
戦争遺跡となると、特攻基地のあった鹿屋あるいは知覧となります。日にちに余裕があればぜひとも行かなければならない場所ですので、次回に期することにしました。
甲突川。
鹿児島城下町絵図。
かつての「小路名」などの由来碑。
「薩摩暦と明時館(天文館)」。天文観測による藩独自の暦の制作の由来が記されています。
鹿児島市内一の繁華街「天文館」通り。変わった名前ですが、どうしてそう呼ばれるのか、この解説を見るまでまったく知りませんでした。お恥ずかしい!
時を刻む語らい広場。
二つ家と呼ばれる住居形態。
こういう腰掛けにも歴史もの「郷中教育」のようすが描かれている(我が家の近所の公園のものには、子供の遊び歌などが描かれている)。
維新ふるさと館脇の橋。薩摩藩(島津家)の紋。島津氏の家紋は「丸に十の字」。
この「十字」は、いったい何を意味するのだろう? いろいろな説があるようですが、「十字を切る」という形の呪符からきたとする説が正しい、らしいです。ちなみに鹿児島市のマークも島津様の紋所が取り入れてあります。
旧五大石橋の一つ「高麗橋」説明板。1993(平成5)年の集中豪雨で流された他の橋と共に、「鹿児島駅」近くの祇園之洲地区にある「石橋公園」に移設保存されているそうです。
甲突川五石橋
甲突川にかつて架かっていた石橋群。上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の順。1993年8月6日の鹿児島大水害により5石橋のうち新上橋と武之橋の2橋が流失し、玉江橋、西田橋、高麗橋の3橋がその後石橋記念公園に移設保存されている。
甲突川五石橋の現存時の位置図。×印は8.6水害で崩落・流出した石橋。また×印がない橋は石橋記念公園に移設保存されている。
石橋記念公園に保存されている高麗橋
(以上、「Wikipedia」参照)
現在の「高麗橋」。