おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鉄道第一連隊。鉄道遺跡。荒木山。忠霊碑。・・・。(千葉公園。その2。)

2014-07-03 20:21:19 | 鉄道遺跡
 わずか10数時間の自公密室協議で(公明党の譲歩を勝ち取り)、アベ内閣は「集団的自衛権」(そのものずばりの表現は「目くらまし戦術」で記載されていない)行使に向けて、「解釈改憲」「憲法第9条」の骨抜きを閣議決定しました。アベは「外国の船を守る」という詭弁(「船」じゃないだろう、他国の軍艦・軍隊を守るだろう!)を弄し、「ありうる」を「ありえる」と平気で間違える程度の日本語力で、高揚した気分が満面に出ていました。
 ブレーンの岡崎に至っては、アベ以上に興奮して、自らの思惑通り、してやったりとの満足感が、気味悪いほど。自衛隊発足60年目にして、各地の自衛隊基地がいよいよ戦中の活動拠点・施設になっていきそうな、7月1日の出来事。


 「千葉公園」。大きな慰霊塔をはじめ、戦前、戦中の軍隊施設の一部が残っています。そして、周辺のここかしこに残る「戦争遺跡」。

 「つわものどもと学園地域コース」。

 「つわものども」の跡が戦後、「学園施設」や「病院施設」そして、落ち着いた「住宅街」に大きく変貌し、まさに人々の命と生活と未来につなぐ地域となった。が、かつての遠い「出来事」がいつのまにか、現実になったら・・・。

 そんな複雑な思いも込めて、7月1日、お昼前から午後にかけて、探索してみました。JR千葉駅がスタートです。



 JR「千葉」駅は、1963(昭和38)年、現在地に移転するまでは、800mほど東千葉駅寄りにあり、佐倉駅・銚子駅(「内房線」)方面から船橋駅・東京方面と蘇我駅・安房鴨川駅(「外房線」)方面の二又に分かれていた。
 そのため、東京方向から蘇我駅・安房鴨川駅方面に向かう列車は、スイッチバックで方向転換していた。
 移転によって船橋駅・東京方面から蘇我駅・安房鴨川駅方面と佐倉駅・銚子駅方面の二又に分かれる線形に改良されたが、駅全体がV字状になっているのはその名残り。

 鉄道大隊(のち、「鉄道連隊」)専用の軍用線路は現在の千葉駅付近から北西に向かって進んでいた。千葉公園一帯から千葉経済大学、さらにモノレールの東側一帯は、「鉄道第一連隊」「陸軍歩兵学校」などほとんど軍の施設であった。
 
明治時代中期。中央下の池が「綿打池」。周辺は、鉄道連隊の活動区域となっている。

戦前。昭和初期。専用線も伸びている。上は、材料廠(鉄道材料倉庫)。現・千葉経済大学一帯。

昭和60年代。すでに撤去され、道路に。JR千葉駅も現在地になっている。

平成7年頃。千葉都市モノレール2号線完成後。(「今昔マップ」より)

本線から離れて、北に向かう。

千葉駅方向を望む。

「千葉公園」内にある高台「荒木山」。昭和8年12月に建てられたもの。

 昭和8年(1933年)はどういう年だったか、といえば、

1月1日 - 日本軍が山海関で支那軍と衝突

1月30日 - ヒトラーが独首相に就任、ナチス政権獲得

2月20日 - 作家小林多喜二が治安維持法違反容疑で逮捕される。東京・築地署に留置され特別高等警察の拷問により虐殺される。

2月24日 - 国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を42対1で可決。松岡代表退場。

3月24日 - 独国会で全権委任法可決され、ナチス独裁が確立

4月10日 - 関東軍が長城線を越えて華北に進撃開始

5月27日 - 日本が中国国民党との間で塘沽協定を結ぶ(満州事変の終結)。

8月9日 - 第1回関東地方防空大演習実施

10月14日 - ドイツが国際連盟を脱退
 
 こんな具合で、ますますきな臭くなって来た年でもありました。2年後に「2・26事件」が起こります。

荒木山への階段。

こんもりとした樹木に覆われている。

高台の広場にある「荒木山由来」碑。

 この小高い丘は、以前、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになりました。
 その後、物資窮乏の時局を迎えて、銅像の姿は消えてしまいましたが、今でも、この小高い丘は「荒木山」と呼ばれ、市民に親しまれています。


 満州事変で先頭に立って戦い亡くなった鉄道第一連隊の「荒木大尉」の名をとって名付けられました。戦前までは,この荒木大尉の銅像が建っていましたが,現在は展望台になっています。
HPより)



現在の広場のようす。

現在の街並み。

当時のようす。




 公園の奥を進むと「護国神社」と大きな「忠霊塔」がある広場に。


忠霊塔。左右に陸軍、海軍の慰霊碑が置かれている。かつてここは、「陸軍墓地」であった。

昭和初期。○が「陸軍墓地」。
1954(昭和29)年頃。「陸軍墓地」と記されたところに「忠霊塔」とある(○の箇所)。↓はかつての軍用線路で、戦後もしばらくは千葉駅から国鉄の専用線に転用されたが、1984(昭和59)年に廃止となった。

 「忠霊塔」を回り込んだところに「荒木大尉」の碑があります。

「忠魂」碑。レリーフ。

 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)
 
 日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。
 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。
 1932年(昭和7年)9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。
 関東軍は交渉を打ち切り、ただちに第十四師団にこの東北民衆救国軍の撃退と邦人救出を命じた。第14師団には鉄道第1連隊の第2中隊および材料廠の一部が隷下に組み込まれ、列車追撃隊を編成した。荒木大尉は小隊長としてこの列車追撃隊の先頭となり、12月1日、九一式広軌牽引車2両をもって斉斉哈爾を出発。道中無数の破壊線路を修復しつつ満州里へと向かった。
 12月3日午後3時15分、大興安嶺隧道東麓環状線路交叉点のループ線下側東方約200メートルにさしかかるころ、上方より敵の攻撃を受け、橋梁(全長17メートル)が損傷。追撃隊は直ちに敵を排除し、橋梁を修復した。すると山上の敵は今度は石塊を満載した車輌3輌を列車追撃隊に突放した。荒木は装甲単車を後退させると部下4名とともにすかさず下車し、橋梁前方に2個、後方に1個の脱線器を取り付けた。だが荒木は部下を後退させ一人脱線器の装着具合を確認していたため退避が遅れ、脱線した貨車の落石を受け死亡した。追撃隊は12月6日午後1時30分満洲里に到着。戦力を失った蘇はソ連へと亡命し、監禁中の邦人は全員救出された。
 死後、この功績を称え、関東軍司令官武藤信義大将より鉄道兵初の個人感状が授与された。
 死後、荒木は満州事変における英雄として祭り上げられ、特に地元・熊本県では浄瑠璃や浪花節にも取り上げられた。1933年(昭和8年)3月9日、熊本教育会により公募で歌詞を募集した「荒木大尉の歌」が制作された。応募した618編のうち1等は新聞記者の島田四郎(のち熊本日日新聞社長)が入選した。
 また、鉄道第一連隊の敷地内で連隊のラッパ手の訓練が行われていた小高い丘に、殉職した荒木大尉を悼む同連隊の兵達により銅像が建立され、1933年(昭和8年)12月、荒木山公園として整備された。だが、銅像は戦争末期に供出されてしまい、敗戦によって荒木の名前も人々から忘れ去られてしまった。今では、千葉公園の敷地内にある「荒木山」の名前と台座にはめ込まれていたレリーフが残るのみである。(以上、「Wikipedia」参照)

 まさに「時の人」であったわけです。

 草地のこの広場の片隅には軍人慰霊碑がいくつか建てられてあります。
「日中戦士鎮魂碑」。

「慰霊碑 支那駐屯歩兵第3聨隊」。

ある種の「聖地」のような趣。


 一方で、この地域の軍事施設、さらに千葉市街地は、昭和20年・戦争末期二度にわたる米軍機の空襲によって大きな被害が出たこと地域でもあります。

・6月10日
 7時45分からB-29の編隊100機によって攻撃された。被害地域は蘇我の日立航空機千葉工場(跡地は現在JFEスチール東日本製鉄所の一部)、新宿町、富士見町付近で、同日の空襲によって千葉県立千葉高等女学校(現:千葉県立千葉女子高等学校)などの施設も被災した。被災面積は26ha、死傷者は391名。
・7月7日
 1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、B29・124機によって行われた。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出た。また、千葉市街地を目標にした129機のB29による焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となった。被災面積205Ha、死傷者は1204人。


平和の大切さ知ろう 千葉市空襲から69年 体験者が戦争語る

2014年6月11日HPより

 千葉市空襲から六十九年にあたる十日、同空襲や戦争体験を伝える集いが同市中央区の「きぼーる」で開かれた。戦争体験者が空襲などの戦争体験を語り、平和の大切さを訴えた。
 千葉市空襲は一九四五年六月十日と七月七日に市内約七割を焼失し、約九百人の犠牲者が出た。
 集いは、千葉市内で活動する「ちば・戦争体験を伝える会」(市川まり子代表)などが主催し、八日から始まったパネル展「ピースフェア2014」の一環。
 集いには、戦時中に空襲や戦争を体験した人たちが自らの戦争体験を語った。千葉市花見川区の杉本百合子さん(84)は東京大空襲で家を燃やされた経験や教育勅語を覚えさせられた小学校での教育を振り返り、「真珠湾攻撃が始まり日本は強いと教えられたが、米国に負けるのではと思っていた」と話した。
 千葉市中央区の酒井健一さん(82)は、千葉市空襲前の一九四五年五月八日に米軍戦闘機からの機銃掃射を受けた体験などを語った。「勝ち目のない戦争だったが、国は国民を戦争にかりたてた。平和のありがたさを伝えていきたい」と平和の大切さを訴えた。ピースフェアは十二日まで。 (砂上麻子)
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