上流からスカイツリーを望む。
桜橋から上流に向かいます。首都高の下に「銅像堀」の名が。
「銅像堀自転車集積所」。
「銅像堀公園」はけっこう敷地が広いようで、少年野球場など、かつては屋内プール場(現在は駐車場)をまとめて称しています。「隅田川花火」見物にはおすすめのスポットのようです。「銅像堀」のいわれとなると、?
さて、次の北斎の版画を探してそのまま隅田川沿いのジョギング道路を北上しましたが、いっこうに見当たりません。そうこうしているちに旧綾瀬川との合流地点まで来てしまいました。
対岸は「伊沢造船所」。右が「綾瀬橋」。
「墨堤通り」上の「綾瀬橋」。渡ると、足立区へ。
どうも残りの案内板は、直接「隅田川」土手上ではないようです。そこで、桜橋まで引き返し、墨堤通りを進むことに。
「旧墨堤の道」。
隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661~73)。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通2丁目白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)あで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民で賑わう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残です。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で特ににぎわいました。
関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2カ所だけとなっています。
突き当たりが「東向島白鬚神社」。
1880年代 2010年代
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
もう1カ所の「墨堤植桜之碑」。
「首都高入口」のところ。
「言問団子」、「長命寺桜もち」のお店がある付近。
(「同」より。)
旧墨堤の入口付近にある「子育て地蔵尊」。左が「地蔵坂通り」の道になっています。その角には、「日本一のきびだんご」のお店。
♪桃太郎さん桃太郎さん、おこしにつけたきびだんご♪
桃太郎が鬼退治の時に携えていたきびだんごは、戦争前には子供の大人気のおやつでした。しかし今では、下町へ屋台でやって来るきびだんご屋に群がる子供の光景を見ることもありません。
この懐かしのおやつを再現したのが「地蔵坂」バス停近くの吉備子屋。昔話『桃太郎』を読んだ息子の「きびだんごが食べたい」という願いを叶えるために作り始めたものです。
茶屋風の店内に置かれたリアカーで、串に刺さったビー玉大の団子が作られています。軽くゆでられた団子にはきな粉がたっぷりとかかっており、思いのほかさっぱりとした後味で飽きがきません。これも栄養価の高いタカきびで作られた団子がきな粉とマッチして程よい甘さを作り出しているためでしょう。また、添加物が一切使われていないのもおいしさの秘訣です。
・・・「渡る世間は鬼ばかり」というドラマがありますが、どんな人生も度々起こる鬼のような出来事を避けて通ることはできません。
そんな出来事にぶつかったときには、きびだんごの力を借りよう!きっと桃太郎のように鬼にうち勝つ勇気と正義が沸いてきます!!
代表 : 福永 勝
(HPより)
旧墨堤通りの途中にありました! 「⑬白鬚の翟松 今戸の夕烟」
秋の夕暮れが広がる画面の左では、今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で川縁でナニやら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を詰んだ舟描かれています。画面の奥には名勝地と知られていた白鬚明神社(現在の白鬚神社)の鎮守の社を配し、また右側に配された白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が40~47歳頃の作品です。
現墨堤通りから旧通りを望む。
その先、白鬚橋東詰め交差点を右折、「明治通り」から少し入った「法泉寺」門前に、
「⑫寺島法泉寺詣」。
文政年間(1818年~30年)の中頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために絵師に注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多いのが特徴です。葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60~70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻(もとどり)不動明王嶌法泉寺」とあります。現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、墨田区所蔵のピーター・モースコレクション以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定有形文化財となっています。
次は、「隅田川神社」門前にあります。「⑪雪月花 隅田」。
雪景色の隅田過半を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。
⑩は梅若伝説で名高い「木母寺」脇にあります。
「木母(もくぼ)寺」は寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。
1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。
明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後、白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。(以上、「Wikipedia」参照。)
「⑩梅若の秋月―風流隅田川八景―」。
「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」との辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。
「隅田川」沿いの最後の絵は、鐘ヶ淵陸橋のたもとにあります。
「⑨隅田川関屋の里―富嶽三十六景―」。
葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から「足立区千住曙町、千住関屋町あたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感のある松、朝焼けの富士山が見え早朝の中、疾走する3騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保2(1831)年頃の作品です。
こうして隅田川沿いにある北斎の案内板などをクリアし、戻ることに。高層住宅が広くなった「墨堤通り」沿いに立ち並ぶその一角、歩道脇に立っているのが「榎本武揚」の巨大像。もともとは「隅田川神社」境内にあったものですが、高層住宅建設時に神社は隅田川沿いに移転し、この像が遺されたようです。
榎本武揚
榎本武揚は、天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所(昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の地知識が技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の開陽丸を回送し帰国しました。
武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換期を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の闘いとなった函館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。
その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら、逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣をなどの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役回りを積極的に引き受けました。
晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。
さらにそのそばには「梅若塚」碑。
解説板。
梅若塚
梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川に吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。
木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い現在地に移転しています、
平成24年3月 東京都教育委員会
こうして一巡してきました。今度は両国駅周辺を探索してみます。
桜橋から上流に向かいます。首都高の下に「銅像堀」の名が。
「銅像堀自転車集積所」。
「銅像堀公園」はけっこう敷地が広いようで、少年野球場など、かつては屋内プール場(現在は駐車場)をまとめて称しています。「隅田川花火」見物にはおすすめのスポットのようです。「銅像堀」のいわれとなると、?
さて、次の北斎の版画を探してそのまま隅田川沿いのジョギング道路を北上しましたが、いっこうに見当たりません。そうこうしているちに旧綾瀬川との合流地点まで来てしまいました。
対岸は「伊沢造船所」。右が「綾瀬橋」。
「墨堤通り」上の「綾瀬橋」。渡ると、足立区へ。
どうも残りの案内板は、直接「隅田川」土手上ではないようです。そこで、桜橋まで引き返し、墨堤通りを進むことに。
「旧墨堤の道」。
隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661~73)。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通2丁目白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)あで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民で賑わう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残です。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で特ににぎわいました。
関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2カ所だけとなっています。
突き当たりが「東向島白鬚神社」。
1880年代 2010年代
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
もう1カ所の「墨堤植桜之碑」。
「首都高入口」のところ。
「言問団子」、「長命寺桜もち」のお店がある付近。
(「同」より。)
旧墨堤の入口付近にある「子育て地蔵尊」。左が「地蔵坂通り」の道になっています。その角には、「日本一のきびだんご」のお店。
♪桃太郎さん桃太郎さん、おこしにつけたきびだんご♪
桃太郎が鬼退治の時に携えていたきびだんごは、戦争前には子供の大人気のおやつでした。しかし今では、下町へ屋台でやって来るきびだんご屋に群がる子供の光景を見ることもありません。
この懐かしのおやつを再現したのが「地蔵坂」バス停近くの吉備子屋。昔話『桃太郎』を読んだ息子の「きびだんごが食べたい」という願いを叶えるために作り始めたものです。
茶屋風の店内に置かれたリアカーで、串に刺さったビー玉大の団子が作られています。軽くゆでられた団子にはきな粉がたっぷりとかかっており、思いのほかさっぱりとした後味で飽きがきません。これも栄養価の高いタカきびで作られた団子がきな粉とマッチして程よい甘さを作り出しているためでしょう。また、添加物が一切使われていないのもおいしさの秘訣です。
・・・「渡る世間は鬼ばかり」というドラマがありますが、どんな人生も度々起こる鬼のような出来事を避けて通ることはできません。
そんな出来事にぶつかったときには、きびだんごの力を借りよう!きっと桃太郎のように鬼にうち勝つ勇気と正義が沸いてきます!!
代表 : 福永 勝
(HPより)
旧墨堤通りの途中にありました! 「⑬白鬚の翟松 今戸の夕烟」
秋の夕暮れが広がる画面の左では、今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で川縁でナニやら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を詰んだ舟描かれています。画面の奥には名勝地と知られていた白鬚明神社(現在の白鬚神社)の鎮守の社を配し、また右側に配された白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が40~47歳頃の作品です。
現墨堤通りから旧通りを望む。
その先、白鬚橋東詰め交差点を右折、「明治通り」から少し入った「法泉寺」門前に、
「⑫寺島法泉寺詣」。
文政年間(1818年~30年)の中頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために絵師に注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多いのが特徴です。葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60~70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻(もとどり)不動明王嶌法泉寺」とあります。現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、墨田区所蔵のピーター・モースコレクション以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定有形文化財となっています。
次は、「隅田川神社」門前にあります。「⑪雪月花 隅田」。
雪景色の隅田過半を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。
⑩は梅若伝説で名高い「木母寺」脇にあります。
「木母(もくぼ)寺」は寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。
1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。
明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後、白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。(以上、「Wikipedia」参照。)
「⑩梅若の秋月―風流隅田川八景―」。
「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」との辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。
「隅田川」沿いの最後の絵は、鐘ヶ淵陸橋のたもとにあります。
「⑨隅田川関屋の里―富嶽三十六景―」。
葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から「足立区千住曙町、千住関屋町あたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感のある松、朝焼けの富士山が見え早朝の中、疾走する3騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保2(1831)年頃の作品です。
こうして隅田川沿いにある北斎の案内板などをクリアし、戻ることに。高層住宅が広くなった「墨堤通り」沿いに立ち並ぶその一角、歩道脇に立っているのが「榎本武揚」の巨大像。もともとは「隅田川神社」境内にあったものですが、高層住宅建設時に神社は隅田川沿いに移転し、この像が遺されたようです。
榎本武揚
榎本武揚は、天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所(昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の地知識が技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の開陽丸を回送し帰国しました。
武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換期を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の闘いとなった函館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。
その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら、逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣をなどの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役回りを積極的に引き受けました。
晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。
さらにそのそばには「梅若塚」碑。
解説板。
梅若塚
梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川に吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。
木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い現在地に移転しています、
平成24年3月 東京都教育委員会
こうして一巡してきました。今度は両国駅周辺を探索してみます。