おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

葛飾北斎の描いた風景をたどる。+α。隅田川沿い。その3。

2017-09-27 21:09:39 | 世間世界
                                 「蔵前橋」を望む。

 続いて第二弾。吾妻橋から下流の探索。北斎画が①から⑧まであるようですが。

「ライオン」本社ビルの先、高速道路下に①があります。
  
「御厩川岸より両国橋夕陽見ー富嶽三十六景ー」
 富士山を描いた「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。夕陽に浮かぶ富士山を中心に、船の往来でにぎわう両国橋や、様々な客でひしめきあう御厩川岸の渡し船の様子が描かれています。構図上の特徴は、船頭の頭を中心点として、橋の曲線と船の弧が点対称になっている点です。また、活き活きとした波の描写には、北斎らしさが表れていると言えるでしょう。御厩川岸(おんまやかし)の名は、江戸時代、西岸の浅草に幕府の馬小屋である御厩があったことに由来します。現在の墨田区本所1丁目あたりから台東区蔵前2丁目あたりを結んでいた渡し場がありました。
    
    
1880年代                        2010年代

「蔵前橋」をくぐり抜けた土手沿いに②「首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉ー絵本隅田川両岸一覧ー」

 隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。隅田川の対岸から描かれています。釣り舟の向こう、左手に描かれているのが首尾の松です。首尾の松は蔵前にずっと並ぶ米蔵の真ん中あたりにあった松で、丁度よい目印になっており、この辺は釣りの名所でした。 釣り糸の向こう、右手の森が肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷です。この上屋敷には本所七不思議の一つに数えられる「落ち葉なしの椎」があったことから、椎の木屋敷と呼ばれるようになりました。

    1880年代

    2010年代


 土手下を見ると、今まで見なかった建物。「刀剣博物館」とあります。建物の撮影をしているスタッフに聞いてみると、8月に完成し、来年1月に開館とのこと。


刀剣博物館
 公益財団法人日本美術刀剣保存協会により運営され、美術刀剣類の保存、展示する。また、同会の事務所が博物館の建物内に所在する。
 刀剣博物館は、日本国内でも数少ない日本刀専門の博物館である。刀剣愛好家より寄贈された作品や、愛好家より保管と管理を依託されている刀剣・刀装・刀装具類を収蔵・公開する。渋谷区代々木四丁目にあった旧刀剣博物館は、2017年(平成29年)3月末に閉館し、新刀剣博物館は2018年1月開館にむけ準備中。
 刀剣博物館の収蔵品は、刀剣、刀装、刀装具、甲冑、金工資料など約190点で、刀剣類の中には国宝、重要文化財、重要美術品など、国の指定・認定を受けた物件があり、平安・鎌倉・南北朝期の古名作を中心に、各年代・流派の作品が収蔵され、国宝や重要文化財に指定された刀剣などを所有している。(以上、「Wikipedia」参照。)

 たしかここは、かつて天井のドーム型が特徴だった「両国公会堂」があったところ。ずっと昔、文化祭の発表会場や展示会場として何回か利用させてもらいました。なかなかすてきな建物でした。近年、建物内外の痛みがひどくて、取り壊し計画を風聞したことはありましたが、こうして敷地周囲を含め、全面的に取り壊されていたのです。「歴史的建造物」として保存ができなかったようです。
 それにしても、墨田区は各所にある小さな博物館をはじめ、「江戸博」「北斎美術館」など積極的に博物館を誘致、建設する区です。
        
                      (「関根要太郎研究室@はこだて」HPより拝借)

 次は「旧安田庭園」の門前にあります。③「駒止石ー馬尽ー」

 文政時代(1818-1830)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの一枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永8(1631)年の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。当時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は旧安田庭園内で見ることができます。

「旧安田庭園」。 

                             
 
 時間がなくて見学できず。そこで、

 もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688〜1703)に築造されたと伝えられる。かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備される。明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。氏の没後大正11年東京市に寄附されました。関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修を行い、復元、開園しています。現在は、ポンプにて人工的に潮入が再現されている。
(以上、HPより)

④は「両国国技館」前にあります。

「新柳橋の 御竹蔵の虹ー絵本隅田川両岸一覧ー」。
 狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。

 
1880年代                        2010年代



1880年代。→が「御蔵橋」。



2010年代

関取衆の幟が掲げられ、触れ太鼓の音が聞こえてきそう。


南側はJR両国駅旧駅舎。

国技館とスカイツリー。

「忠臣蔵 俵屋玄蕃の道場跡」。
 「宝蔵院流の槍の名手」とあるが、忠臣蔵に登場する架空の人物で、道場がこの辺りにあったとされている。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で槍の技を披露した。

 両国駅西口、国技館通りの両脇の歩道にはブロンズ像の力士像が設置され、台座には歴代の横綱の 実物大の手形があります。
                 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする