「館山城模擬天守」。
1580年(天正8年)、里見義頼によって館山城が築城された。天正19年6月から11月までの間にかけて、里見義康が岡本城から館山城へ移転をしてくる[2]。その後、1614年(慶長19年)に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなった。この際に館山城も廃城となり、破却された。後の1781年(天明元年)に、稲葉正明が館山藩主となって館山に入ったが城を再建することはなく、2代正武が城の麓に館山陣屋を構えて、そこを新たな政庁とした。
現在建つ天守は、後に丸岡城を模して1982年(昭和57年)に再建された模擬天守であり、当時の天守の概要や外観については不明である。この天守は現在、館山市立博物館分館(八犬伝博物館)として利用され、周辺は城山公園となっている。
(この項、写真も含めて「Wikipedia」による。)
鈴木家住宅。
館山市沼は江戸時代以降,国内沿岸の物資輸送を行う船が立ち寄る湊町として栄えました。そのため沼には、盛岡藩の船宿がありました。
鈴木家は,江戸時代に屋号を「南部屋」といい,盛岡藩の常宿を務めた家でした。明治21(1888)年に旅籠をやめて,医院を始めますが,赤い門柱のある医院ということから,現在も「赤門」の名で,市民に親しまれています。
鈴木家住宅は,横浜の建築家が設計し,関東大震災直後の大正13(1924)年に完成しました。この時,蔵と表門も同時に完成しています。
昭和5(1930)年,近くに館山海軍航空隊が設置されましたが,昭和20年の終戦間際には,海軍将校の社交の場などとしても使用されたことがあるといいます。
門は,目地にモルタルが使われ,石が積み上げられた構造です。建築当初は,鉄の扉が付いていましたが,第二次大戦中に供出されてしまい,現在,取り付け金具が残るのみです。
主屋は和洋折衷様式の木造2階一部平屋建てで,屋根は,2階部分がスレート(石盤)葺,平屋部分が鉄板葺です。正面には,ポーチが設けられています。1階中央に中廊下式のホールがあり,和風の客間・居間・仏間,台所,洋風の食堂・居間・寝室などが配置されています。2階はすべて洋風の仕上げで,応接間・寝室があります。洋風部分の,床のコルクタイルや壁紙などには,建築当時の内装がよく残されています。
蔵は,梁など米松材が用いられ,外部はモルタル洗い出しの仕上げになっています。
※一般公開はしていませんので,御了承ください。
赤門。
宮城。ここが「房総往還」の終点とされる。
「館山湾」方向を望む。
さて、一区切りがついたところで、次はどこに? 少し先の道を左折、「ブロワ珈琲焙煎所」の前の住宅地に、
「掩体壕(えんたいごう)」。
■ 館山海軍航空隊掩体壕(えんたいごう)ってなあに?
館山海軍航空隊は、海軍5番目の航空隊(昭和20(1945)年の終戦の時には、54の海軍航空隊があった)として、昭和5(1930)年にできました。
そのあと、現在の館山市沼から香にかけての地区には、さきほど見学した射撃場跡や、飛行機の部品や弾薬、食料、燃料などを保管するための倉庫や、この「掩体壕」などさまざまな建物がつくられました。
昭和14(1939)年の記録によると、館山海軍航空隊には、97式艦上攻撃機を中心に124機の飛行機がありました。この時の、館山海軍航空隊の役割は、中国で行われていた戦争に飛行機を送ることでした。
しかし昭和16(1941)年に、日本とアメリカが戦争をはじめると、館山海軍航空隊は、東京、東京湾、太平洋岸を守るための基地として使われました。戦争が終ったあとに、日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦の時には、零戦、紫電など41機の飛行機しか残っていませんでした。
この「掩体壕」は、アメリカ軍の飛行機に爆弾を落とされても飛行機を守ることができるよう、全体が分厚いコンクリートで固められています。館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周辺には40以上の掩体壕がつくられましたが、現在残っているのは、この宮城のものと、香(こうやつ)に残っている大型の掩体壕の2つだけです。
(この項、「」HPより)
「97式艦上攻撃機」(「」より)
誘導路跡。
この付近には、「赤山地下壕跡」があります。見学時間がなくて、省略。戻る途中に、地下壕の一部が?
元の道に戻り、海岸を目指します。