著者のホセ・オルテガ・イ・ガセーは、スペインの哲学者。1883~1955。
1930年(昭和5年)に発表された「大衆の反逆」は、文明批評家としての彼の名を広く世界に印象づけました。大衆化社会という20世紀の病理をえぐり出し、その指摘が今なお、80年以上経った現在においても多くの先見性があることに驚きます。
このかん、日本のみならずアメリカなど世界が「第二次世界大戦」を筆頭にさまざまな壊滅的状況を経験しながらも、未だその人類的教訓を生かしていない、むしろ、1945年以前に回帰しつつある状況(回帰させようとする動き、混乱)を目の当たりにする時に、あらためてこの書の持つ現代的な意義(予見性)をつかむことが必要であるかと思います。
この文庫版は2002年に初版が発刊され、13年に8版となった書です。今回は、各所にちりばめられたオルテガの洞察的文言を拾い出しておこうと思います。
われわれが解剖しようとする事実は、次の二つの問題にまとめることができる。第一、以前にはもっぱら少数派のためにとっておかれた人生の目録と、大綱において一致する目録を、今日の大衆はわがものとしている。第二、同時に大衆は、少数派に対して従順でなくなった。かれらに服従せず、そのあとについていかず、また尊敬せずに、かれらを押しのけ、かれらにとって変わった。(P18)
「大衆の反逆」は、貴族(自らを選ばれた貴族だと考えている者達、大衆化社会に眉をひそめる人々)にとってはまさに溜飲を下げる書という一面がありました。日本でも三島由紀夫などは大いにこの書に触発され、日本の国家像の欺瞞性、大衆によって牛耳られている日本の現状(とりわけ自衛隊・軍隊のあり方)を直接行動によって変革しようとしたあげく、自刃します。
今日、アベ自身も強烈なエリート意識の持ち主。祖父への尊敬とそれを批判する人間への許しがたい思い、これによって今の自らの政治生命を保っていると考えているようです。ですから、大衆組織である「組合」、特に「日教組」への反感は、並ではありません。
大衆に迎合せず、君らと違って国家100年の計を立てている私を尊敬しろ! 服従しろ! 従順になれ! このような意識の持ち主でしかないような気がします。底の浅いエリート観に酔っている、そしてお追従する連中の存在。
オルテガの語る真の貴族とはまったく異質なもので、浅い世界観・人生観でしかないことを自ら暴露しているようなものです。オルテガがいう「人生の目録」とはけっして「自己満足」というのではありません。「生の充実」ということであって、「本当の生の充実は満足や成就や到達にあるのではない。」(P31)
のらりくらりと論点をぼかし、最後は数によって「決めるときには決める」。かつての「決められない政治」への強烈な皮肉ですが、そこから生まれるかれの選良意識はとてつもなく恐ろしい。
自由主義とは、公権が万能であるにもかかわらず、公権自体を制限する政治的権力の原則であり、また、公権と同様に、つまり、最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々も生きていくことができるように、公権の支配する国家のなかに、たとえ犠牲を払ってでも、余地を残しておくことに努める政治的権利の原則である。
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敵とともに生きる! 反対者とともに統治する! こんな気持ちのやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。反対者の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横顔をはっきりと示しているものはない。ほとんどすべての国で、一つの同質の大衆が公権を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させている。大衆は―団結した多数のこの人間たちを見たとき、とてもそんなふうに見えないが―大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。(P91)
アベ自身、「貴族」でも「エリート」でもありません。「選挙」という「大衆」の洗礼によって登場した「大衆」の一人にすぎません。だからこそ、公権力を握ったとたん、自分に反対するすべての者を「死ぬほど嫌っている」のです。
《慢心した坊ちゃん》の時代
以上のことを要約してみよう。私がここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史は、いまやはじめて、じっさいに凡庸な人間の決定にゆだねられているように見えるという新しい社会的事実である。
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今日、あらゆるところを歩きまわり、どこででもその精神の野蛮性を押しつけているこの人物は、まさに人類の歴史に現れた甘やかされた子供である。甘やかされた子供は、遺産を相続する以外に能のない相続人である。
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生まれたときに突然、なぜだかわからないが、自分が富と特権のなかに据えられているのを見いだす。それらは、かれに由来したものでないから、本来のかれとはなんの関係もない。それは、他の人間、他の生物、つまりかれの祖先の残した巨大な甲冑である。しかも、かれは相続者として生きなければならない、つまり、他の生に属する甲冑を鎧わなくてはならない。そこで、どういうことになるだろうか。世襲《貴族》は、かれの生を生きるのか、それとも、初代の傑物の生を生きるのか。そのどちらでもない。かれは、他人を演ずる運命、したがって他人でもなく、かれ自身でもない運命をしょわされている。かれの生は否応なく、真実性を失い、他の生を演ずる生、あるいは他の生に似せた生となる。
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世襲《貴族》は、生を使用し努力することがないために、その人格がぼやけたものになっていく。その結果生まれるのは、古い貴族の家柄に特有の、類のない愚鈍である。この悲劇的な内的機構―あらゆる世襲貴族をどうしようもない退化に導く悲劇的な内的機構―を記述した人は、厳密な意味ではひとりもいない。(P121)
ところで、《慢心した坊ちゃん》の特徴は、ある種のことをしてはならないことを《知り》ながら、しかも、知っているがゆえに、その行動とことばで、反対の確信をもっているようなふりをすることにある。・・・ふまじめと冗談、これが大衆的人間の生の主調音である。かれらがなにかをするときには、ちょうど《箱入り息子》がいたずらをするのと同じように、自分の行ないは取り消しがきかないのだというまじめさが欠けている。(P127)
アベをはじめ、坊っちゃん世襲議員によって牛耳られている国会に付ける薬はないのだろうか。
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これは、5年前の投稿です。大叔父の記録を塗り替えると辞職するに違いない、と思っていた方は多かったのでは。小生もその一人。案の定、その通りの結末になったようです。28日。識者の中には退陣を想定した新聞社からの依頼に、事前に予定稿を用意したようです。
本当に持病の悪化が理由なのだろうか。「1億5千万」を皮切りに、身辺に迫りつつある検察の手。それに抵抗(?)しつつ、時には圧力をかけてうやむやにし(握り潰し)、権力をほしいままにしてきた(これから先も)、安倍、麻生、二階、菅の「男たち」の新たな悪巧みの始まりではないか、と。