右手に畑。家庭菜園なのか、手入れをする方が何人か。
広い通りの向こうに、「川の停車場」。
ここで、失敗! そのまま通りを突っ切って行けばいいのでしたが、右折し、橋を渡ってしまいます。橋の名を確認せずに、さらに先の「弁天川(弁天掘)」の橋を渡って気づきました。しかたがないので、そのまま弁天川沿いに本来渡るべきだった「関枠橋」の方向へ進みます。
→が「関枠橋」。○の橋を渡ってしまい、「弁天川」沿いに戻ることにします(―)。釣り人がたくさん。
「手賀沼」からの流れ「手賀川」。
向こうに見えるのが「発作(ほっさく)新田」集落。
橋の手前に「若山牧水歌碑」。
草むらに隠れ、立入禁止になっています。
はるけくてえわかざりけり沼の上や近づき来る鷺にしありけり
大正14年(1925年)8月21日、若山牧水は木下町(現:印西市木下)の銚子屋旅館に泊まっている。
この歌は、大正14年8月22日歌人若山牧水御夫妻一行が「創作社」社友で当地歌人腰川一麿氏の案内で愛弟子鈴木菱花(大森)の墓参のあと美しかった手賀沼で舟遊びをした時に詠んだものです。第15歌集「黒松」にこのときの歌16首が収載されています。なお、この歌は牧水揮毫のものが当地に残されていますが一部欠如があるため行書体で刻字いたしました。
手賀沼水質浄化運動のシンボルとなることを願って、船出したゆかりの地にこれを建立します。
平成12年8月22日 若山牧水来郷記念歌碑建立委員会
せっかくの歌碑なのに、このままでは残念!
「関枠橋」。
「手賀沼」方向。
橋から右手に入る道が旧道。
「手賀川」方向を振り返る。
右手に「海野屋作兵衛の頌徳碑」。
海野屋作兵衛は、江戸時代初の本格的干拓「寛文期の干拓」に関わった人。開発は思うように進まず、当初の17人の仲間のうち、海野屋作兵衛以外はみな撤退した、とのことです。もと江戸本小田原町の鮮魚商。寛文11年(1671年)下総手賀沼新田の開発を請け負い、17人の開発仲間の金主となり印旛郡に移住。手賀沼から印旛沼に至る約4kmの排水路の掘割工事を行い、発作新田などの約230haの新田を拓いた。
手賀沼干拓
手賀沼はかつては香取海の一部(手下浦)を構成していたが、利根川東遷工事などの影響によって江戸時代前期には周囲34km・面積10平方キロメートルの閉じられた沼となり、わずかに布佐と大森の間にあった小さな水路を通じて利根川に通じているのみであった。寛永13年(1636年)に弁天堀と呼ばれる新たな水路が設置された。明暦元年(1655年)には、万屋治右衛門を中心とする江戸の町人から最初の干拓計画が江戸幕府に提出されて開始をされたが、本格的な工事は寛文11年(1671年)に海野屋作兵衛らによるもの以後である。海野屋らは手賀沼の水を印旛沼に流すために7間の幅の水路を2本(長さ2298間・1566間)設置、その結果翌年には新田230町歩を得て天和2年(1682年)には幕府による検地も実施され、畑地も含めて約300町歩が計上された。だが、度々の洪水によって新田は破壊された。
享保12年(1727年)、幕府勘定方井沢為永(弥惣兵衛)・江戸町人高田友清(茂右衛門)らによって再工事が開始され、沼の中央部に千間堤を築いて沼を上下に区分し、東側の下沼の干拓に成功して享保15年(1730年)の検地で39か村分1500石を得たが、元文3年(1738年)の利根川の洪水で千間堤が崩壊したために新田は壊滅した。井沢は再度の干拓を試みて延享2年(1745年)に完成するが、再び洪水に襲われた。
天明5年(1785年)に当時の老中である田沼意次によって印旛沼干拓と並行して行うことが決定され、翌年完成したが、同年の洪水で堤防などが流された。それでも、寛政6年(1794年)の検地では2600石を得ている。
本格的な干拓工事が再開されたのは、昭和21年(1946年)のことであり、22年の歳月をかけて約500haの水田を開かれるとともに、面積は3.7平方キロメートルまで縮小して東半部分が消滅するなど形も大きく変わった。だが、その間に周辺の宅地化が進展し、生活排水の大量流入によって沼の水質は急激に悪化することになった。・・・
(この項、「Wikipedia」より)
この地域は干拓と洪水の繰り返しで、永年、水田干拓は容易でなかったようです。また、以前、「手賀沼」は「汚い沼 全国ワースト1」という不名誉な記録が何年も続いていましたが、最近は県や近隣の市政による水質改善の取り組みで、浄化が進んでいます。
1880年代のようす。沼沿いの集落が「発作(ほっさく)村」。
2010年代のようす。水田が大きく広がっています。山裾を通る道は「木下街道」。「鮮魚街道」はその北側、水田の中を通る道。右上の橋が「関枠橋」。