暮れなずむ百花園(去年の12/12)。
スカイツリー(今年の12/16)。
サザンカ。
マユミ。
小鳥(↓)が一羽。
上空には飛行機(↓)。
そろそろ帰るとしますか。
けっこう冷えてきます。
ロウバイ。
ナンテン。ツワブキ。
別の日。東武線の隅田川に架かる「隅田川橋梁」脇に浅草から渡れる歩道橋ができました。そこを少し歩きます。
金色のビルは、アサヒビール本社。
「源森川水門」。隅田川との水門。
江東0㍍地帯を守る防潮水門。通常は開放されているが、高潮や津波の恐れがある場合は直ちに閉鎖される。
「源森川」は、「北十間川」を指します。
北十間川(きたじっけんがわ)江戸初期に開削された運河。西に隅田川、東に旧中川と接続する。横十間川との合流点より西は墨田区内を通り、東は墨田区と江東区の区界となっている。名称は、本所の「北」を流れる、川幅が「10間」の川であることに由来する。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名源兵衛堀)、東を北十間川といった。(「Wikipedia」より)
「源森川」の水面には、たくさんの水鳥。
東武線ガード。かつての石積みが残っています。
その昔は、この先には駅がありました。駅が廃止された後、「墨堤通り」に面したガード下に「ラーメン屋」さんがありました。こってりとした味でけっこう好きでした。
すっかりこの辺も様変わりです。
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2009・5の投稿記事。「源森川」対岸から。
「隅田公園」駅。東武鉄道伊勢崎線が、都内のターミナル駅としていた浅草駅(現:業平橋駅 注:その後、「東京スカイツリー」駅に。)から浅草雷門駅(現在の浅草駅)までの延伸を果たした、1931(昭和6)年、中間駅(隅田公園への最寄り駅でもあった)として開設された。
戦時体制が濃くなった1943(昭和18)年)に、不要不急駅整理の対象となって休止となり、そのまま営業を再開する事もなく、1958(昭和33)年に廃止された。なお、1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」によりホームが焼失したこともあった。
今も存続していれば、「墨田区役所」への、墨田区内で最短の最寄り駅になっていたはず(墨田区役所が出来たとき、この駅を復活させるという話も出ていたと思うが)。
浅草駅を発車した列車が、隅田川橋梁を渡ってすぐの所に設けられていて、ホーム上屋を持つ高架駅で、ホームの長さも長く取られていた。急行列車は停車せず、普通列車のみが停車していた。
廃止されてからしばらくは、プラットホームは撤去されず、そのまま放置されていた。昭和38年の航空写真には、まだそのホームがはっきりと写っている。
東武電車で「浅草」に行くとき、このあたりでいつも電車のスピードが落ちるので、なおさら、どうしてここにホームがあるの? と鮮明に記憶している。
かつては、高架線下には駅舎(を転用した)建物側面に、階段の跡がくっきりと残っていたが、数年前に高架下の建物がすっかり撤去されたため、駅舎の痕跡はまったくなくなってしまった。
ただ、この写真でもわかるように、その駅舎に続いてあったと思われる、業平橋寄りの高架下の建物の一部は現存していて、窓枠にかつての駅舎の面影が残っている?(写真の左手。なお、写真は、北十間川をはさんで対岸から撮ったもの。)
また、高架の真下にアーチ状の建物跡が残ってもいる。高架線の向こう側が、隅田公園。新緑の木々を川面に映して時を刻んでいる。
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1970年代のようす。「隅田公園」も大改修。
2010年代のようす。
ところで、最近、ブログの閲覧数が以前の3分の2くらいに急減。PCにアクセスしてブログを開いてもらう面倒さなのか、小生のブログへの興味関心が低下したのか。最大の原因は、当ブログの掲載記事のマンネリ化に・・・。常連だった方々も少なくなったようで。
一方で、他には、相変わらずたくさんの読者が閲覧するブログもまだまだたくさんあるようです。
さて、今後どうするか。紙面の刷新が必要? 「おやじのつぶやき」から「おやじのぼやき」あるいは、「おやじのつぼやき」に変えるかな。