「東金」。
東金の(かつての)中心街に入っていきます。
バス停「砂郷入口」。
典型的な商家の建物。
「せいがい(出桁)」造り。
この付近の今昔。
(1880年代)。
東金街道沿いに町屋がり、東南側は畑地が広がる。
(現在)駅を中心に市街地が発展。
※「東上宿」は、かつての宿場としての地名ではなく、街道筋にある「上宿」との関連。
東金市
江戸時代には徳川将軍家(徳川家康、徳川秀忠)が八鶴湖へ鷹狩に訪れ、東金御成街道、東金御殿などを整備し、宿場町・問屋街として栄えた。
その後も山武地域(山武郡市)の拠点都市として、農業・商業を中心に発展してきた。
市の中心駅東金駅と県庁所在地の千葉駅は東金線-外房線で約35分で結ばれている。また、朝夕は京葉線経由で東京駅発着の通勤快速も運行されている。 バス輸送においても、東京駅・千葉駅への直通バスが、東関東自動車道 - 京葉道路 - 千葉東金道路経由で運行されている。
市内に所在する東金インターチェンジは千葉東金道路と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)双方を連絡するジャンクションを併設しており、国道126号と接続し、2キロメートルほど行くと東金九十九里有料道路(台方インターチェンジ)に接続するなど、首都圏と九十九里浜(九十九里海岸)方面とを結ぶ交通の要衝となっている。
地名の由来
- 東金の由来は「鴇が根」に由来するといわれる。当地にある最福寺境内の山嶺が鴇(とき)の頭に似ていることから鴇ヶ峯と称され、トウガネに転訛し東金と言うようになったと伝えられる。
- 城の名称も『東金町誌』によると「東金城は往古上総介の属館なりしが後年千葉氏の支城となりて鴇ヶ嶺城と云う。後東鐘城と唱へまた鴇ヶ根城と号す。大永元年(1521)東金城と改称せり」とある。
- 東金では 明細帳に「村名之儀は往古は辺田方と唱申候処、慶長十九甲寅御成之節より東金町と唱申候」とあり、1614年(慶長19年)徳川家康がはじめて同地を訪れた折から東金町と称したという 。
- 同市東岩崎に旧名に由来するとみられる鴇嶺(ときがね)小学校がある。
(この項「Wikipedia」より)
この通りは、「東金御成街道」と重なっています。「東金御成街道」は船橋・津田沼からほぼ一直線の道。かつて歩きました。
バス停「上宿」。
右折して東金駅に到着。
「東金駅」。
構内にある孟宗竹の竹灯り。
※東金高、東金商業高の生徒の作品。
今回は、ここまで。 次回は、成東駅までの予定。
附:「東金御成街道」の記録。
「東金城址」
東西約700m、南北約500mの規模をもつ、半独立丘稜の山城。東金酒井氏の本城として、天正18年(1590)まで機能していたことが確実である(「関八州諸城之覚書」『毛利家文書』、「豊臣秀吉朱印状」『難波創業録所収文書』)。本城の初見は、「鎌倉大草紙」によると、享徳の乱(1454~82)の初期、美濃より下向した東常縁の家臣浜春利が拠ったとされることである。昭和63年(1988)に行われた発掘では、15世紀末~16世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の播鉢の断片が出土している。標高74mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二郭を配する。比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。また、西端の尾根に大堀切・竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。
遺構もよく残り、本城に関する一級史料もあることから、東金市の歴史を語るうえで、貴重な文化財であると言える。
「東金御殿跡」
東金御殿は、徳川家康による「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝が、慶長18年(1613)から翌年にかけて、東金代官嶋田次兵右衛尉重次以栢(嶋田治兵衛伊伯)を造営に当たらせました。この御殿は、船橋-東金間に造られた御成街道の終着点にあり、東金辺での「鷹狩り」を行う将軍(大御所)の宿泊施設でした。現在、県立東金高等学校が建てられています。
東金城があった城山の東麗の敷地(約6,700坪)に玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、弓部屋、老中部屋、台所などの部屋、別棟には鷹部屋、長屋、馬屋、大番所などが建てられました(下絵図)。ほぼ中央に家康専用の部屋があったといわれていますが、家康の所在を明確にしない事情もあり、絵図には記されていません。また、小池の拡張工事も行われ、谷池(御殿前池=八鶴湖)と上池に分けたといわれています。
寛永7年(1630)の、大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われなくなり、その後、寛文11年(1671)に東金が幕府直轄地(天領)から福島の板倉藩領となり、御殿は取り壊され、その一部が小西の正法寺(現在の大網白里町)などに移されたとのことです。右絵図と下絵図の大きな違いは、「表御門」と「御裏門」が逆転していることです。元禄4年(1691)の記載がある下絵図の方が当時の状況に近いことから、右絵図は江戸時代後半~明治時代初期と判断されますが、時の経過とともに御殿跡の役割も変わったことがうかがえます。
「東金高校」。れんが造りの正門。
湖畔にある「八鶴亭」。
「ビリヤード棟」など歴史のある料亭。
八鶴亭(旧八鶴館)は明治期創業の老舗旅館で、東金市を代表する景勝地八鶴湖のほとりに所在することから、北原白秋や伊藤左千夫ら多くの文人墨客が訪れました。
現存する建物のほとんどが大正から昭和初期に建てられ、そのうち本館・新館・宿泊館・浴室棟・ビリヤード棟5棟が国の登録有形文化財に登録されました。・・・
そこからの「八鶴湖」の眺望。
八鶴湖
その昔、谷池(ヤツ)と謂う 谷はヤチ(谷地)に通じアイヌ語で草深い湿地の意なり
慶長18年(1613)家康公 東金御殿を造営されるに、その「御殿前池」として弁天島等を設け整備される
面積は約1万1千坪(3万6300平方メートル)周囲10町(約1000メートル)
天保年間、幕末の尊王家、梁川星厳その弟子遠山雲如ら詩人、学者盛んに湖に遊ぶ
雲如その詩句に八鶴湖と称し天下に紹介される