職場の同僚から「つい最近、兄貴が左肩を複雑骨折したんだ。家で転んで。手術をしたばかりだ。」
けっこう、冬場になって、こういうケガの話を耳にするように。
寒さなどで体が硬くなってつまずいたり、転倒事故が増えてくるのでしょうか。
そういえば、自転車とぶつかって転倒、老人が死亡した事案がありました。自転車に乗っていた女子高校生。寒くて前方をよく見ていなかった、とか。
行くたびに、リハビリの病院でも患者が増えてきているような。
「命あっての物種」。お互いに注意しましょう。
・・・
そして、「隅田川」・坂東玉三郎。
幕が開くと、青白い舞台が一面に広がります。
渡し守が出て名乗ります。能や狂言の定番の始まりかたです。
今日は川の対岸で「大念仏(だいねんぶつ)」がある、という話をします。
念仏を唱えて供養をする集まりの、大きなものがあるのです。
狂女が出てきます。歌舞伎だと「班女の前(はんにょのまえ)」という名前が付いています。
笹の枝を肩にかついでいます。
幣(奉納用の布きれ)を結びつけた笹の枝は、能をはじめ、中世に成立した芸能に共通する「狂女」の小道具です。
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思う道に 迷い(まどい)ぬるかな」
藤原兼輔(ふじわらの かねすけ)の歌です。900年代の人です。
班女の前が出るところの謡の文句がこれなのですが、
親心の悲しくも愚かしい、しかし有難い真理をついた歌として江戸時代は非常に有名でした。
歌舞伎、というか浄瑠璃の文句に頻出するので覚えておくといいと思います。
子供がさらわれて、探して旅をしてきた。
親子の縁はこの世だけ、一世の契りです(夫婦は二世、主従は三世)。
その短い間すらいっしょにいられないさびしさをなげきます。
渡し守に船に乗せてと頼みますが、渡し守は、「狂っているならおもしろく舞え、でなきゃ乗せない」とひどい事を言います。
隅田川の渡し守と言えば都からの旅人に優しいものなはずなのに、あなたはずいぶんひどい、と怒る班女の前。
このあと、有名な、「あの白い鳥は何?」「カモメだよ」「隅田川の渡し守なのに都鳥と言わないの?」
のやりとりがあります。
感心して、反省した渡し守は班女の前をていねいに船に載せます。
川の対岸で、さっき渡し守が話した大念仏をやっています。この由来を語る渡し守。
人買いが子供を連れて都からやってきた。
子供は慣れない旅で疲れ果て、この場所で倒れてしまった。人買いは情け知らずで子供を捨てて行ってしまった。
どことなく上品な子だったので土地の人が心配して世話したが、運命だったのだろう、死んでしまった。
都の吉田少将の子、梅若丸といった。
父は早くに死に、母に付き添っていたのだが、それももはやできない悲しさよ。
都の人が恋しいので、都からの旅人が通るこの道端に埋めてください。
そう言って死んだ。悲しいことだ。
それがちょうど一年前。その供養の念仏だ。
ショックを受ける班女の前、船から上がることもできません。
改めて事情を聞いて、探しているのが、まさにその子供だと知った渡し守、
深く哀れんで、班女の前を船から上げ、墓である小さな塚に案内します。
この前後はセリフも極端に少なくなり、班女の前の一挙一動を息を詰めて眺めるような舞台です。
言われるままに鐘を叩いて念仏を唱える班女の前。
能だと、子役のひとが一緒に念仏を唱え、塚から子供の幻が現われますが、歌舞伎では出ません。
班女の前が子供を見たと思い込んで駆け寄るのですが、子供はいないのです。
泣き崩れる班女の前。
夜が明けます。子供に見えたのは塚の上の草でした。なまじ幻を見てしまったばかりに思いはいや増します。
何もないまわりのの景色が悲しみを深めます。
(この項、「歌舞伎見物のお供」(gooブログ)HPより)
・・・
渡し守:坂東竹三郎
班女の前(はんにょのまえ):坂東玉三郎。
こうして、静かに幕が下ります。
「木母寺」
「木母(もくぼ)寺」は寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。
1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。
明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後、白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。(以上、「Wikipedia」参照。)
「⑩梅若の秋月―風流隅田川八景―」。
「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」との辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。
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