おやじのつぶやき

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吾妻(あがつま)線。その8。「川原湯温泉駅」。川原湯源泉公園・源頼朝・笹竜胆(ささりんどう)の紋。水陸両用バス【八ッ場にゃがてん号】。

2024-09-16 19:36:47 | ローカル鉄道の旅

「川原湯温泉駅」で下車した人は、小生ともう一人のみ。

「川原湯温泉駅」。

新装の駅舎は瀟洒な佇まい。

移転した「川原湯温泉」地図。

        

「吾妻川」上流を望む。

駅から「八ッ場(やんば)ダム」までは炎天下の歩きとなります。

ダム湖が眼下に。

         「八ッ場あがつま湖」。かつての「川原湯温泉」地区、吾妻線などが湖底に沈んでいる。

                     (現在)。川原湯温泉駅付近。

赤色の道路がかつての吾妻川左岸沿いになる。

                     (1970年代)。中央が吾妻川。上部に温泉街。

眼下に「川原湯源泉公園」。

最近整備された公園のようです。正面に源氏の家紋「笹りんどう」。

帰りに寄れたら、と。

しかし、炎天下の往復と電車の発車時刻が迫っていたので、断念しました。

そこで、「」HPより。

川原湯温泉に温泉を供給している源泉のある公園。公園内には源頼朝が着ていた衣を掛けたという衣掛石のレプリカがある。

元の湯源泉

●縁起

川原に湯が出るので川原湯の称となります。湯の歴史は古く、1193年(建久4年)、源頼朝が温泉を発見したと伝えられています。弱酸性の草津温泉に対して、中性の川原湯温泉は、「草津の上がり湯」として親しまれてきました。この元の湯源泉は、八ッ場ダムの建設によって水没することになりましたが、コンクリート製の井筒によって源泉を保護し、井筒内の源泉をポンプで汲み上げることにより、現在でも、川原湯温泉のすべての温浴施設に配湯されています。

衣掛石(ころもかけいし)

この「衣掛石」は、源頼朝が入湯の折、衣服を脱いで掛けたと伝えられている石です。明治時代初期の川原湯温泉を描いた「川原湯真図」や明治40年頃のはがきの写真では、地面から約3分の1が露出しており、「王石」あるいは「神代石」として祀られていたようです。その後、1930年(昭和5年)に発生した土砂崩れで道路を拡幅した際に埋没したといわれていましたが、2018年(平成30年)源泉公園整備工事事業で道路を掘削した際に発見され、88年ぶりにその姿を現しました。頂部には矢穴痕が認められ、石工により切削されたことが分かります。また石全体にひび割れが確認され、移設することが困難なことから、レプリカを作成し、実物はそのまま埋め戻されました。

高さ:261㎝ 周囲:1034㎝ 重量:約35t(推定)

  上流には「不動大橋」。

湖畔に木々が。水没前からの樹木でしょう。

水陸両用バスが湖面進む。

八ッ場ダムのダム湖を遊覧する水陸両用バス【八ッ場にゃがてん号】。「長野原草津口駅」前から発着するようです。

右手に「八ッ場大橋」。


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