まだしつこく「天保水滸伝」の続き。
「利根川」歩きの時、「黒部川」と「利根川の」間の土手のすぐ左手の駐車場脇に田中角栄の石碑がありました。
元首相「越山・田中角栄」の筆による「天保水滸伝」の歌詞の一節。
利根の川風 袂に入れて 月に棹さす 高瀬舟
浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語。下の版画は、"大利根河原の決闘"を描いたもの。
歌川芳虎〈1828~87頃〉「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(「城西国際大学水田美術館」より)
※天保15年、博徒でありながら幕府の十手持ちでもあった助五郎が多数の子分たちをひきつれ、繁蔵一派に斬り込んだという史実に基づいている。
笹川繁蔵物語
笹川繁蔵は、文化7年(1810)下総国須賀山村(香取郡東庄町)に生まれた。生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた村きっての物持ちで、繁蔵は幼少のころから漢字や数学、剣などを著名な師について学び、人間的にも優れた人物だったと言われる。
繁蔵はやがて相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け笹川一家を張ることになる。
一方、相模国三浦郡公郷村(神奈川県横須賀市)に生まれた飯岡助五郎は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、繁蔵と同様、博徒の親分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいられなくなった。
天保15年(1844)、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根河原の血闘である。
この争いは笹川方の圧勝に終わった。しかし当時助五郎は、博徒でありながら十手持ちでもあった。
飯岡側の「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自身は笹川を離れることになった。
初秋の大利根を後に旅立ってから3年。弘化4年(1847)春、繁蔵は飄然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵のもとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきた。以前にも増して勢力を持った笹川一家。しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺の機会をうかがっていた。
弘化4年7月4日。賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちにあい殺害された。
笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。
(この項、「」HPより)
さて、もう一方の「飯岡助五郎」について、「」では、
飯岡助五郎
飯岡の漁業振興につくした遊侠の親分、飯岡助五郎。
市内には助五郎の墓をはじめ、天保水滸伝に登場する人物たちの遺跡が残っています。
古くから漁業で繁栄した旭市。飯岡助五郎は、江戸時代、海難事故により途絶えかけた漁師の人材の確保をはじめ、海岸侵食を防ぐための堤防工事など、旭市の漁業振興に力を注いだ人物でした。
また、網元として成功するかたわら、「十手持ち」として近隣の治安にあたるほか、江戸相撲を興行するなど、地域振興に活躍した人物でもあります。光台寺には助五郎の墓があります。
【天保水滸伝】
浪曲や講談でおなじみの「天保水滸伝」では、笹川(現在の東庄町)一帯を中心に勢力を拡大する笹川繁蔵一派との勢力争いが「大利根の決闘」として語られています。
この決闘で一度は笹川方に大敗した飯岡方ですが、のちに繁蔵を討ち果たします。その時討ち取られた繁蔵の首は飯岡助五郎によって、定慶寺の境内に丁重に葬られたといわれています。
というわけです。任侠二人が、それぞれ、地元でこうして今でも語り継がれているわけです。
※「東庄町」は、利根川沿い、「旭市(飯岡)」は、九十九里浜沿い。
では、田中角栄との関連は?
天保水滸伝は浪曲として二代目玉川勝太郎の名調子によって語られ、多くの人々の共感を呼んだ。利根に一雨来そうなと言れわる豪快にして沈痛な読み口には大利根の哀愁があり詩情が漂う。この一節を永く讃えることとなり、揮毫は浪曲を愛し庶民の心を理解される 時の宰相田中角栄氏に懇請快諾を得た。ここに天保水滸伝の一節は越山田中角栄書として一段の光彩を放ち、永遠に大河のほとりに在ることとなった。
・・・ということで、
今回の街道歩きに戻ります。「桁沼川」(「黒部川」方向)。
上流方向。
「国道356号(利根水郷ライン)」に合流します。
来た道(旧街道)を振り返る。
通りの向こうに石碑。
近づくと「飯沼観世音江五里」。残り20㎞。
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