おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その1。「笹川駅」。諏訪大神。「天保水滸伝」・笹川の花会・十一屋。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-28 20:52:25 | 銚子往還

5月17日(金)。快晴。今回「椎柴駅」まで行く予定でしたが、一つ手前の「下総豊里駅」で終了。

あと1日でゴールの銚子・飯村観音までたどり着けるか、微妙に。

成田線「笹川駅」。

                         素朴な駅舎。

アーケードをくぐって街道に復帰。

                   

「御大典記念築堤」碑。

「諏訪神社(大神)」境内。

坂上田村麻呂蝦夷征討の際、悪神退散を祈願して建てた一祠が当社の始まりとされ、大同2年(807年)に創建されたといわれており、須賀山明神とも称された。東国鎮護の神社として国司武将等の崇敬篤く、特に大江維時は社殿を造営し、源頼朝建久2年(1191年東重胤に命じて社殿を改築した。その後天正19年(1591年)に徳川家康朱印地10石を寄進し、享保3年(1718年)には神階正一位を授けられた。

当社の春の例祭には、神前の神楽殿で「笹川の神楽」が演ぜられる。天狗の面・小屋根の面・大玉の命の面・乙女の面・手力男の面などの十六座からなり、太々神楽あるいは岩戸神楽ともよばれ千葉県の無形民俗文化財に指定されている。また、秋季例祭には相撲まつりが行われる。山車が街中に繰り出し、笹川繁蔵が催して以来続けられている素人相撲大会などが開かれ、遠近からの参拝客でに賑わう。2017年の大相撲夏巡業期間中は出羽海部屋幕下以下の力士がここへ合宿に訪れていた

なお境内には、天保13年(1842年)に笹川繁蔵が建てた野見宿禰の碑[2]が残っており、境内の入り口には天保水滸伝遺品館[3]がある。

脚注

  • 笹川繁蔵が、相撲の元祖野見宿禰の碑を建てるとともに農民を救済することを名目として大花会を行った時に建てたもので、花会には、清水次郎長国定忠治大前田英五郎など天下の親分衆が駆けつけ大盛会であったと講談『天保水滸伝』は伝えているが、当時次郎長はまだ売り出し前で、国定忠治も手配書が出て逃亡中であり、真偽のほどは不明であるともされている。
  • 3 繁蔵の使った合羽や駒札、平手造酒の手槍と徳利、勢力富五郎の火縄短銃などといった、遺品・古文書を展示している。

(この項、「Wikipedia」より)

※「野見宿禰(のみのすくね)神社」が、両国・北斎通りにあります。

「北斎生誕の地」の掲示板と四つ角をはさんでほぼ南側にある神社。

かつて東側に高砂部屋があった。明治18(1885)年親方の高砂浦五郎が津軽藩上屋敷跡地であったこの地に相撲の神様・野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まり、という。石柱には力士や相撲関係者の名前が刻まれている。また、境内には歴代横綱の名を記した石碑がある。

野見宿禰(のみのすくね)
 能見宿天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速に勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後、垂仁天皇に仕えたという。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる「埴輪の制」を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった、という。

「とうのしょう観光マップ」。

参道脇に、

                  「天保水滸伝遺品館」。開館していませんでした。

「天保水滸伝遺跡案内図」。

「天保水滸伝」は、天保から嘉永にかけて下総一帯で繰り広げられた飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の騒擾を題材とした実録体小説、および同じ題材を元に作られた講談浪曲等の演目。天保15年8月6日、下総国大利根河原で実際にあった「大利根河原の決闘」が物語のハイライトとなっており、飯岡助五郎や笹川繁蔵が実名で登場する。数ある演目の中でも特に文化史的に重要なのが講談で、初代宝井琴凌が自ら現地で採集した実話を元に拵えた。侠客を主人公にした侠客講談の皮切りであり、清水次郎長伝など、一連の侠客物が続々と作られるきっかけとなった

(この項「Wikipedia」より)

その物語のうち、

講談『天保水滸伝 笹川の花会』

【あらすじ】
 朝、笹川繁蔵から飯岡助五郎の元に、花会を笹川の十一屋で開くとの知らせが届く。花会とは親分衆ばかりが集まって開く賭場のことである。助五郎は風邪をひいて寝込んでいるので、洲崎(すのさき)の政吉に花会に行くよう言いつける。政吉は助五郎の跡目を継ぐ者であり一番信頼のできる子分である。政吉は笹川繁蔵に渡す「義理」(金)として、親分・助五郎から5両、その子分一同から3両を預かった。2人の子分を連れて5里離れた笹川まで赴き、花会が開かれる宿屋・十一屋へ着く。
 宿屋に入り、「義理」を繁蔵の子分に渡そうとするが、傍らにいた繁蔵はそれを自分の懐にしまい込んでしまう。横から金を頂戴してしまうようなしみったれた野郎だと政吉は鼻で笑う。花会の開かれる二階の広間に入ると政吉は驚いた。見渡すと、どこの誰だかは知らないが一目見ただけでこれは大物だと分かる貫禄のある親分衆がズラリと居並んでおり、すっかり威圧されてしまった。政吉はそれほどの貫禄は無いし、見知った親分も見つからない。どこへ座ればいいものかと思っていると、「こっちへ来い」と声がかかった。常陸国の親分、皆治であった。皆治は助五郎の親分である銚子の五郎蔵と兄弟分の仲である。皆治は参席している親分たちに政吉のことを紹介する。ひとり、皆治の向かい側に胸毛の見える眉毛の太い、いかつい顔をした男が腕を組んで政吉をじっと睨んでいる。この男は政吉の親分の助五郎のことを「スケ」と呼ぶ。頭にきた政吉。その男は広間に居並ぶ、遠方からも駆け付けた大親分の歴々の名を言い立てる。さらに飯岡と笹川がすぐ近くなのにも関わらず、這ってでもなぜ来なかったと助五郎をなじる。この男こそ上州の大親分、国定忠治であった。
 鴨居にはどこどこの親分からいくらいくらの「義理」を貰ったとのビラが貼って並べてある。そこには親分だったら50両から60両、身内一同だったら25両というような額が並ぶ。ところが助五郎が渡した「義理」は5両でその身内一同からは3両。これでは助五郎は大恥をかく。ところが繁蔵の子分が張った、助五郎の義理のビラには「助五郎50両、身内一同30両」と書いてある。政吉は自分が渡した義理を、繁蔵が懐へしまい込んだ理由が分かった。助五郎が万座の中で恥をかかないようにと繁蔵は金を差し換えてくれたのだ。政吉は繁蔵をありがたく思う。このビラを見て国定忠治も機嫌を直したようで、にっこり笑って盃を渡す。
 政吉は繁蔵に深々と頭を下げて礼を言い、他に回るところがあるからと先に花会の場を去る。飯岡に戻った政吉は、助五郎に花会の模様を話す。大変に盛んで、遠くからも各地の大親分が集まっていた。助五郎親分も明日、顔を出したらいかがでしょうかと言う。繁蔵を妬ましく思う助五郎。政吉はひとり酒を手酌で飲みながら繁蔵になにか恩返しをしなければとしみじみ思う。

(この項、「」HPより)

※私事ですが、父親の出は「清水」、母親は「赤城」、叔父は、戦後まもない新宿のテキ屋の親分、かみさんは小見川(笹川の隣町)、「飯岡」は銚子往還で立ち寄ったところ、というわけ。まるで「天保水滸伝」・任侠の世界ですな。

「諏訪大神」前の道。

この道が旧街道。講談で「花会(賭場)」の会場として登場する旧旅館「十一屋」の建物が左手奥にあります。

この付近の今昔。  

        (現在)桝形が残っている。     (1880年代)「諏訪社」は広大な敷地を有していた。 

「笹川十一屋」。現在は陶芸のお店になっているようです。

  裏手に大きな屋敷。


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