この地域にあった史蹟や寺社は移転しています。
「銅像榎本武揚」像。
本像は、榎本武揚没後の大正2年(1923)5月に建立されました。銅製で、標高は約3㍍あり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。・・・榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。・・・
「梅若公園」。
この付近に移転前の「木母寺」があったようです。
正面のガラスに描かれた梅若堂。
明治期の木母寺境内。
江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人々の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に消失を免れたものです。「木母寺境内の図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。
「梅若塚」。
解説板。
梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫の藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中、隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い、現在地に移転しています。
より詳しい解説板。
・・・「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはら(隅田河原)の 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞元元年3月15日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。
①「木母寺」は、「梅」の寺を分けて「木母」となったと言われています。
②「妙亀塚」は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求め、この地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅が原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園内にあります。
③「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現縁起」があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起巻物です。
④謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。
梅の木と公園入口。残念ながら物寂しい広場になっています。
「(墨)堤通り」。
東白鬚団地。
鐘ヶ淵陸橋。「鐘ヶ淵の由来」。
鐘ヶ淵の由来には隅田川が子の辺りで直角に曲がり、それが工匠の遣う曲尺に似ているところから、また、寺院の移転の際に梵鐘が川に落ちたところからの二説が伝えられています。
※右のレリーフ。
広重の木母寺内川御前栽畑(名所江戸百景)。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を舟で出入りすることができました。
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