左手に「へそまん総本舗」。へそまんじゅうを購入。
(11:01)温かい「へそまんじゅう」を食べながら進みます。「神代万年橋跡」解説板。
神代万年橋跡
神代万年橋はいつ築かれたかは明らかではないが、北岸の村々(青梅村・日向和田村・二俣尾村)と南岸の村々(下村・日陰和田村等)を結ぶ重要な通路であった。また、万年橋とは一年中往来できる橋という意味と考えられている。
文政3年(1820)に書かれた『武蔵名勝図会』には次のように記されている。
「下村橋とも唱え、或は永久橋とも号せり。蜷多和田と二俣尾と領地の堺にあり。街道附きにて、玉川通路の橋なり。両岸より大木を投げ渡して、柱なく組み上げたり。長さ19間、橋3尺余。水際まで4丈許。下村、日陰和田、二俣尾、日向和田と4ヶ村普請なり。常に牛馬を通ぜず。ー中略ー御嶽山参詣のもの多くは青梅村へかかり、夫よりこの橋を越えて、下村、柚木、御嶽を行くを順路となす。」
神代万年橋は奥多摩町梅沢万年橋、御嶽万年橋と共に江戸時代に多摩川に架けられていた万年橋のうち最下流に架けられた橋であるが、現在も川岸に橋台が残り往時が偲ばれる。
この内容からすると、奇橋「猿橋」と同じ「刎ね橋」にも見えますが。この先の川井にある「大正橋」も同様な構造の橋だったようです。
※刎ね橋
岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。
地元の方でしょうか、親子連れが踏切を渡って、森の中に入っていきます。
ブリヂストンの保養所「ブリヂストン奥多摩園」。
奥多摩の山並みが遠くに。
(11:22)堂々としたログハウス。「カフェ・喫茶 らびっと」
(11:27)
桃の里の歌碑
花を見てかへるといはぬ人はなし
たもとを桃のにしきたちきて 逍遙院内府公
春の日のひかりもそらにみちとせの
名におふ桃のはなの下陰 桑門浄月
立ちよりてあかぬ色香や花のなの
ももたびちたび春あふとも 中原典則
みちとせの春をふくみてこのさとに
花のにしきのをりはへて見ゆ 青木維吉
気温は高くなっていますが、爽やかな風が。
今回、ひたすら「現青梅街道(国道411号線)」を歩いていますが、
「石神前」駅から「二俣尾駅」付近まで、旧青梅街道は青梅線の北側を進んでいました。さらに「軍畑駅」駅付近では大きく北側にカーブして渓谷を渡っていたようです。(この項、「今昔マップ」さんの地図を参照しました。)現在もその一部は残っています。
(11:37)「桜橋の由来」。
昔の街道は、三角山新道の段丘上に江戸往還の道(甲州裏街道)が、東西に貫くように伸びていますが、鎌倉街道と行き交う「奥澤」から東へ、西木戸の急坂を登り切ると開けた台地に出ます。ここが「桜橋」です。縄文の人々が暮らした遺跡があり、時代が下ると三田氏が後北条氏と一戦を交えた古戦場でもありました。
「桜橋」の名の起こりは「田の入り(屋号・谷合弘平さん宅)」の裏山から流れ出た小さな沢が、街道を横切り多摩川に落ち流れていますが、そこに小さな土橋が架かり橋際に大きな
えられています。後に、鉄道延線工事の際、沢は暗渠となり橋も桜もなくなりました。
近くに住む市川善一さんから「家の古い屋号は『桜林』だった」と伺ったことがあります。桜の木々に囲まれた家があったのか、裏山全体が「桜の林」だったのかと思いを巡らしながら、調べてみると意外な事実がありました。
慶長3年(1598)検地の記録に「さくらばし」が既にあり、さらに「さくら木」「さくら木道上」「さくら木のこし」ほか「桜」と名の付く小字名がたくさんありました。春ともなればこの一帯は、桜の花が咲き誇る自然豊かな里山だったのではと思われてなりません。
新橋の完成によって交通の難所が取り除かれ、安全でしかも快適に通行できることは誠に喜ばしいことですが、反面その利便さと恩恵の陰にともすると歴史や出来事が忘れられがちです。「桜橋」の開通に寄せて昔日のことごとを御紹介しました。
平成22年1月吉日
青梅市自治会連合会第5支会(文:福島和夫氏)
この道が旧道?
(11:43)「鎧(よろい)橋」。この付近は古戦場だったようです。
駅名の「軍畑」の由来は南北朝から戦国時代にかけて青梅一体を支配した三田氏と小田原の北条氏の合戦場所だったことから名づけられました。
新緑がまぶしい。
深い渓谷。
旧道は、大きく上流に迂回していました。
直線の道を進みます。
左手の坂道が旧鎌倉街道? (11:45)「軍畑駅入口」交差点。
軍畑駅付近の案内図。
「青渭(あおい)通り」。
「青渭神社」への道。
次の駅が「沢井」。今回の目的地、酒蔵「澤乃井」を目指して。
(11:01)温かい「へそまんじゅう」を食べながら進みます。「神代万年橋跡」解説板。
神代万年橋跡
神代万年橋はいつ築かれたかは明らかではないが、北岸の村々(青梅村・日向和田村・二俣尾村)と南岸の村々(下村・日陰和田村等)を結ぶ重要な通路であった。また、万年橋とは一年中往来できる橋という意味と考えられている。
文政3年(1820)に書かれた『武蔵名勝図会』には次のように記されている。
「下村橋とも唱え、或は永久橋とも号せり。蜷多和田と二俣尾と領地の堺にあり。街道附きにて、玉川通路の橋なり。両岸より大木を投げ渡して、柱なく組み上げたり。長さ19間、橋3尺余。水際まで4丈許。下村、日陰和田、二俣尾、日向和田と4ヶ村普請なり。常に牛馬を通ぜず。ー中略ー御嶽山参詣のもの多くは青梅村へかかり、夫よりこの橋を越えて、下村、柚木、御嶽を行くを順路となす。」
神代万年橋は奥多摩町梅沢万年橋、御嶽万年橋と共に江戸時代に多摩川に架けられていた万年橋のうち最下流に架けられた橋であるが、現在も川岸に橋台が残り往時が偲ばれる。
この内容からすると、奇橋「猿橋」と同じ「刎ね橋」にも見えますが。この先の川井にある「大正橋」も同様な構造の橋だったようです。
※刎ね橋
岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。
地元の方でしょうか、親子連れが踏切を渡って、森の中に入っていきます。
ブリヂストンの保養所「ブリヂストン奥多摩園」。
奥多摩の山並みが遠くに。
(11:22)堂々としたログハウス。「カフェ・喫茶 らびっと」
(11:27)
桃の里の歌碑
花を見てかへるといはぬ人はなし
たもとを桃のにしきたちきて 逍遙院内府公
春の日のひかりもそらにみちとせの
名におふ桃のはなの下陰 桑門浄月
立ちよりてあかぬ色香や花のなの
ももたびちたび春あふとも 中原典則
みちとせの春をふくみてこのさとに
花のにしきのをりはへて見ゆ 青木維吉
気温は高くなっていますが、爽やかな風が。
今回、ひたすら「現青梅街道(国道411号線)」を歩いていますが、
「石神前」駅から「二俣尾駅」付近まで、旧青梅街道は青梅線の北側を進んでいました。さらに「軍畑駅」駅付近では大きく北側にカーブして渓谷を渡っていたようです。(この項、「今昔マップ」さんの地図を参照しました。)現在もその一部は残っています。
(11:37)「桜橋の由来」。
昔の街道は、三角山新道の段丘上に江戸往還の道(甲州裏街道)が、東西に貫くように伸びていますが、鎌倉街道と行き交う「奥澤」から東へ、西木戸の急坂を登り切ると開けた台地に出ます。ここが「桜橋」です。縄文の人々が暮らした遺跡があり、時代が下ると三田氏が後北条氏と一戦を交えた古戦場でもありました。
「桜橋」の名の起こりは「田の入り(屋号・谷合弘平さん宅)」の裏山から流れ出た小さな沢が、街道を横切り多摩川に落ち流れていますが、そこに小さな土橋が架かり橋際に大きな
えられています。後に、鉄道延線工事の際、沢は暗渠となり橋も桜もなくなりました。
近くに住む市川善一さんから「家の古い屋号は『桜林』だった」と伺ったことがあります。桜の木々に囲まれた家があったのか、裏山全体が「桜の林」だったのかと思いを巡らしながら、調べてみると意外な事実がありました。
慶長3年(1598)検地の記録に「さくらばし」が既にあり、さらに「さくら木」「さくら木道上」「さくら木のこし」ほか「桜」と名の付く小字名がたくさんありました。春ともなればこの一帯は、桜の花が咲き誇る自然豊かな里山だったのではと思われてなりません。
新橋の完成によって交通の難所が取り除かれ、安全でしかも快適に通行できることは誠に喜ばしいことですが、反面その利便さと恩恵の陰にともすると歴史や出来事が忘れられがちです。「桜橋」の開通に寄せて昔日のことごとを御紹介しました。
平成22年1月吉日
青梅市自治会連合会第5支会(文:福島和夫氏)
この道が旧道?
(11:43)「鎧(よろい)橋」。この付近は古戦場だったようです。
駅名の「軍畑」の由来は南北朝から戦国時代にかけて青梅一体を支配した三田氏と小田原の北条氏の合戦場所だったことから名づけられました。
新緑がまぶしい。
深い渓谷。
旧道は、大きく上流に迂回していました。
直線の道を進みます。
左手の坂道が旧鎌倉街道? (11:45)「軍畑駅入口」交差点。
軍畑駅付近の案内図。
「青渭(あおい)通り」。
「青渭神社」への道。
次の駅が「沢井」。今回の目的地、酒蔵「澤乃井」を目指して。
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