この先に「堀江ドック」。回り込んで進みますが、その先の土手は工事中のため、立入禁止。そのため土手下の道を歩くことに。
2010年代のようす。堀江ドック周辺。
※「堀江ドック」=「堀江の船溜まり」。かつてはびっしりと船がとまっていましたが、老朽化に伴い数は少なくなりました。現在は、主に屋形船の乗り場として機能しています。(1966年に整備・完成)
この南東側、1970年代にはほとんど住宅がありません。
(「歴史的農業環境システム」より)
浦安一帯は急速に変貌していきます。
堀江排水機場。
左手には住宅が建ち並んでいます。
再び土手の道に。
対岸は、江戸川区東葛西。
上流を望む。
視界が開けてきます。
遠くに「東京ディズニーランドホテル」が見えてきます。
ここで、浦安市の歴史を。
明治22年、町村制の施行に伴い堀江、猫実、当代島の3村が合併して「浦安村」が誕生しました。
当時の戸数は1040戸、人口5946人。その命名の由来は、当時漁村であった当地の漁浦の安泰を祈願する意味で、初代村長新井甚左衛門によって名付けられたといわれています。
また、一説には日本国は昔「浦安の国」と称したことから、この名を採用したともいわれています。
その頃の主な交通手段は、明治27年に開航した川蒸気船「通運丸」でしたが、大正8年には定期船「通船」「葛飾丸」が就航、浦安-高橋(江東区)間を約1時間半で結び、発着場となった「蒸気河岸」は大変な盛況ぶりでした。
その後、昭和15年に浦安-葛西間に浦安橋が開通するとともに自転車、自動車の普及が進み、60年余り浦安の重要な足として親しまれた船の交通は、19年に廃止されました。
明治42年9月「浦安町」がスタート。
昭和初期の浦安の産業は、のりの養殖やアサリ漁など水産業中心に栄え、境川や船圦川にはべか舟がひしめき合い、漁師町として発展しました。
一方では浦安の歴史は、さまざまな災害に立ち向かう歴史でした。大津波や大火によりいく度となく、まちは甚大な被害を受けてきました。
昭和19年には米軍の空襲に見舞われ、家屋の焼失など被害が相次ぎ、犠牲者を出しました。
戦後の混乱が続く24年8月31日、キティ台風の来襲による堤防の決壊や高潮の被害が続出し、家屋の倒壊・流出や農漁業などの産業にも凄まじい爪あとを残しました。
33年4月、本州製紙江戸川工場からの排水による魚介類の大量死滅が発生し、6月には工場に押しかけた漁民との間で大乱闘事件にまで発展しました。
この事件がもとになり、「公共水域の水質の保全に関する法律」などが公布。深刻化する漁場の汚染と京葉工業地帯土地造成のための海面埋め立ての進行を受け、37年漁民は漁業権の一部を放棄し、39年秋から海面埋立事業が本格化、住宅地造成などが進みました。46年には漁業権を全面放棄するまでに至りました。
44年3月、地下鉄東西線が開通し浦安駅が開業、東京のベッドタウンとして都市化が急激に進行しはじめました。
53年1月の首都高速湾岸線の一部開通によって道路のアクセスも良くなり、54年5月には人口5万人を突破。
56年3月第二期海面埋め立ての最終部分が終わり、市域が16.98平方キロメートルへ。
56年4月1日に念願の市制施行を果たしました。
58年4月、東京ディズニーランドが舞浜に開園し、新しい浦安のシンボルとなりました。
62年5月には人口10万人を突破、翌63年ベイエリアのホテル群がオープン。また、待望の京葉線が開業したことにより、ますます都心が近くなりました。
平成元年、浦安誕生100年の年にフロリダ州オーランド市と姉妹都市提携を果たし、着々と国際化を進めるなか、18年には市制25周年を迎えました。
その後も浦安市は、未来を見据えた都市計画を順調に進め、人が輝き躍動するまち・浦安を目指しています。
(この項、「」HPより)
※現在の浦安市の面積16.98平方キロのうち約74パーセントが海面埋立てでできた土地から成り立っている。
埋め立ての歴史。
(この項、「」HPより借用)大変参考になります。
しおかぜ緑道「富士山噴水」。
土手から本物の富士山が見えるそうです。今回は残念ながら見えませんでした。
この先「見明川(みあけがわ)」で行き止まり。
左手に「見明川」。
旧江戸川の最下流の浦安市富士見と浦安市舞浜との境界より分岐し、南東方向へ流れ三番瀬に注ぐ。舞浜地区の埋めたての際に川として残された人工河川で、川幅50m、コンクリート護岸の直線状の河道として整備された。汽水域であり、ニゴイ、ボラ、スズキ、ハゼなどが確認されている。(「Wikipedia」より)
(「今昔マップ」より)
旧江戸川の河口。左岸は右の○付近、右岸は左の○付近。中央に「三角州」。
ということは、現在の「見明川」が東京湾と旧江戸川(左岸)との境界線だった可能性が。
実は、市川付近までは「海から○㎞」という標識があったのですが、上流の「広尾防災公園」にあった「東京湾5㎞」という標示からその先、全く見当たりませんでした。果たしてどの地点が「海から0㎞」なのでしょうか?
「見明川」脇を抜けて、「大三角線」通りに出て、橋を渡ります。その橋のたもとに「変なホテル」。
ところで、「大三角線」通りのいわれは?
旧江戸川の河口に大きな三角州があったことから。その三角州を埋め立てたのが現在の舞浜地区。三角州の一辺が旧江戸川の本流で、もう一辺が旧江戸川から分流する人工河川の見明川。
※上図(「今昔マップ」)参照。
旧江戸川。
上流を望む。
「見明川」。
この南には東京湾の干潟(三角州)・荒れ地が広がっていました。
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