堀辰雄
明治37年(1904年)~昭和28年(1953年)。作家。代表作に『聖家族』『美しい村』『風立ちぬ』『菜穂子』『大和路・信濃路』など。
室生犀星や芥川龍之介の知遇を得て、文学の道を進み始め、しばしば軽井沢、追分を訪れて、豊かな自然の中で読書や散策をしたり、作品の構想を練り、執筆し、数々の名作を生み出しました。
昭和19年(1944年)からは疎開と療養を兼ねて追分に定住、昭和26年には「堀辰雄文学記念館」のある、この地に家を新築し、亡くなるまで1年10ヶ月療養の日々を過ごし、昭和28年5月、49歳の生涯を終えました。
「こういった凄さを何処かその底にもってゐる山だが、その浅間も、追分の供養塔などの立ち並んだ村はずれ―北国街道と中山道との分か去れ―に立って真白な花ざかりの蕎麦畑などの彼方に眺めやってゐると、いかにも穏やかで、親しみ深く、毎日見慣れてゐる私の裡にまでそこはかとない旅情を生ぜしめる」(「初秋の浅間」)
「それらの夏の日々、一面に薄の生ひ茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いてゐると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たへてゐたものだった」(「風立ちぬ」)
「『やっぱり菜穂子さんだ』思はず都築明は立ち上がりながら、ふり返った。すれちがふまでは菜穂子さんのやうでもあり、さうでもないやうにも思へたりして、彼は考へてゐたが、すれちがったとき急にもうどうしても菜穂子さんだといふ気がした」(「菜穂子」)
洗練された文体、語り口の小説や随想が魅力的な作家です。福永武彦さんなどにも大きな影響を与えました。
ここにもヤマユリの花が。
「記念館」の前にあるのが脇本陣だった「油屋旅館」。
昔は「記念館」の並びにありましたが、ちょうど向かい側に移っています。平成24年からギャラリーと素泊まりの旅館になっています。
旧油屋旅館は、江戸時代に中山道追分宿で脇本陣をつとめた旅館でした。昭和になってからは堀辰雄・立原道造・加藤周一などの文士・知識人たちが執筆に利用し、多くの作品の舞台にもなりました。
この歴史・地域遺産である「旧油屋旅館」の建物保存と有効活用を目的に2012年、NPO法人「油やプロジェクト」は発足しました。「油やプロジェクト」は本・アート、そして音楽などの文化事業を「旧油屋旅館」を改修した「文化磁場油や」を拠点として活動をしています。
追分ゆかりの詩人であり建築家の立原道造は、信濃追分に芸術村をつくるという夢を「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」という卒業設計で遺しました。「油やプロジェクト」が少しでも立原道造の遺志をつぐ活動となれば、そして浅間山麓を訪れる皆様と一緒に末永く「文化磁場油や」を楽しんでいただければと思います。
(芥川龍之介、堀辰雄、立原道造は、東京府立三中―現両国高校―の先輩・後輩にあたります。)
「ふるほん」。
「雑貨」。
宿内を望む。
本陣跡。明治天皇追分行在所碑。
高札場の復元。
追分宿高札場
追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。
寛永10年(1633)の古文書によると、広さ9尺、横1間、高さ3尺の芝土手を築き、高札場の柱は5寸角のものを使用し、駒よせ柱は4寸角で、高さ6尺の規模であった。
昭和58年、当時の古文書等から高札場を復元した。
ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会
当時の屋号・看板を掲げたおうち。
落ち着いた街並み。
「中山道追分公民館」。「中山道追分宿」の碑。
(12:15)この先で追分宿も終わりとなります。
ところで、最寄り駅の「しなの鉄道信濃追分駅」は、無人駅で、一時間に1本か2本の列車が停まる。かつては特急が通る日本最高所駅(957 m)として知られていたが、しなの鉄道に移管されるとともに特急の設定はなくなった。
現在でもしなの鉄道の最高所駅であり、JRを除いた普通鉄道では最も標高の高い駅である(JRで最も標高の高い駅は小海線・野辺山駅・標高1,345.67m)。
(以上、写真を含め「Wikipedia」参照。)
明治37年(1904年)~昭和28年(1953年)。作家。代表作に『聖家族』『美しい村』『風立ちぬ』『菜穂子』『大和路・信濃路』など。
室生犀星や芥川龍之介の知遇を得て、文学の道を進み始め、しばしば軽井沢、追分を訪れて、豊かな自然の中で読書や散策をしたり、作品の構想を練り、執筆し、数々の名作を生み出しました。
昭和19年(1944年)からは疎開と療養を兼ねて追分に定住、昭和26年には「堀辰雄文学記念館」のある、この地に家を新築し、亡くなるまで1年10ヶ月療養の日々を過ごし、昭和28年5月、49歳の生涯を終えました。
「こういった凄さを何処かその底にもってゐる山だが、その浅間も、追分の供養塔などの立ち並んだ村はずれ―北国街道と中山道との分か去れ―に立って真白な花ざかりの蕎麦畑などの彼方に眺めやってゐると、いかにも穏やかで、親しみ深く、毎日見慣れてゐる私の裡にまでそこはかとない旅情を生ぜしめる」(「初秋の浅間」)
「それらの夏の日々、一面に薄の生ひ茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いてゐると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たへてゐたものだった」(「風立ちぬ」)
「『やっぱり菜穂子さんだ』思はず都築明は立ち上がりながら、ふり返った。すれちがふまでは菜穂子さんのやうでもあり、さうでもないやうにも思へたりして、彼は考へてゐたが、すれちがったとき急にもうどうしても菜穂子さんだといふ気がした」(「菜穂子」)
洗練された文体、語り口の小説や随想が魅力的な作家です。福永武彦さんなどにも大きな影響を与えました。
ここにもヤマユリの花が。
「記念館」の前にあるのが脇本陣だった「油屋旅館」。
昔は「記念館」の並びにありましたが、ちょうど向かい側に移っています。平成24年からギャラリーと素泊まりの旅館になっています。
旧油屋旅館は、江戸時代に中山道追分宿で脇本陣をつとめた旅館でした。昭和になってからは堀辰雄・立原道造・加藤周一などの文士・知識人たちが執筆に利用し、多くの作品の舞台にもなりました。
この歴史・地域遺産である「旧油屋旅館」の建物保存と有効活用を目的に2012年、NPO法人「油やプロジェクト」は発足しました。「油やプロジェクト」は本・アート、そして音楽などの文化事業を「旧油屋旅館」を改修した「文化磁場油や」を拠点として活動をしています。
追分ゆかりの詩人であり建築家の立原道造は、信濃追分に芸術村をつくるという夢を「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」という卒業設計で遺しました。「油やプロジェクト」が少しでも立原道造の遺志をつぐ活動となれば、そして浅間山麓を訪れる皆様と一緒に末永く「文化磁場油や」を楽しんでいただければと思います。
(芥川龍之介、堀辰雄、立原道造は、東京府立三中―現両国高校―の先輩・後輩にあたります。)
「ふるほん」。
「雑貨」。
宿内を望む。
本陣跡。明治天皇追分行在所碑。
高札場の復元。
追分宿高札場
追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。
寛永10年(1633)の古文書によると、広さ9尺、横1間、高さ3尺の芝土手を築き、高札場の柱は5寸角のものを使用し、駒よせ柱は4寸角で、高さ6尺の規模であった。
昭和58年、当時の古文書等から高札場を復元した。
ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会
当時の屋号・看板を掲げたおうち。
落ち着いた街並み。
「中山道追分公民館」。「中山道追分宿」の碑。
(12:15)この先で追分宿も終わりとなります。
ところで、最寄り駅の「しなの鉄道信濃追分駅」は、無人駅で、一時間に1本か2本の列車が停まる。かつては特急が通る日本最高所駅(957 m)として知られていたが、しなの鉄道に移管されるとともに特急の設定はなくなった。
現在でもしなの鉄道の最高所駅であり、JRを除いた普通鉄道では最も標高の高い駅である(JRで最も標高の高い駅は小海線・野辺山駅・標高1,345.67m)。
(以上、写真を含め「Wikipedia」参照。)
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