おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

藍染川(谷田川)跡。笑吉。枇杷橋・・・。台東区と文京区の区界をたどる。その1。

2013-08-25 20:13:37 | 河川痕跡
 神保町まで出かけたついでに、ちょっと寄り道。地下鉄千代田線「千駄木」にて下車。そこから不忍池まで歩きました。約1時間。千駄木付近から谷中にかけての道は「ヘビ道」とも呼ばれ、かつての「藍染川(矢田川)」の流れ跡で、台東区と文京区の区界になっています。
 藍染川(「谷田川」とも)の成り立ち(水源)は、染井墓地付近からの湧き水などが集まってほぼ南(「不忍池」方向)に流れていた、という説と、北にある「石神井川」から飛鳥山の西側で分水した流れ、という説があります。石神井川からの分水という説が濃厚のようです。ただ、この場合、本流の「石神井川」は飛鳥山の下から東に向かい隅田川に流れ込んでいますが、それがどういう風にそうなったのかにも説があるようです。縄文時代の河川争奪説、江戸時代初期に度重なる洪水防止のために人工的に流路を開き、東に向かわせたという説などがあります()。

「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治中期のようす。赤丸が「飛鳥山」、その西側の、水色の線が「谷田川(藍染川)」の流路。上方が「石神井川」。明らかに分流した流れであることが分かります。中・下流は周りは水田でその中を用水路のような細い流れですが、くねりながら南に流れていきます。駒込の北西・染井は地図のもっと左下になります。

 石神井川から切り離された後は、上野台地と本郷台地の湧き水による小河川が流路(跡)に流れていたようです。
 もっと大昔には、(旧)石神井川が上野の山の西側を通り、秋葉原の先で東京湾に注いでいたようです。武蔵野台地の東端にあるのが上野の山。そこから北へ、日暮里、道潅山、飛鳥山と台地が続きます。藍染川が、谷中、根津と谷を南下し、不忍池に。上野の山から飛鳥山の台地と本郷台地との間の谷間が藍染川の流れになっています。

「今昔マップ」より。明治末期から大正にかけてのもの。緑色の部分が低地(谷)、赤い部分が高地(丘)。中央の蛇行している部分が藍染川(支流を含む)が流れていた谷の部分。右の赤い部分が上野(忍ヶ丘)から飛鳥山の台地。左の赤い部分が本郷台地。上流から王子付近まで続く石神井川の谷底低地が、飛鳥山の手前で南へ向きを変え、本郷台と上野台の間の底低地へと地形的に連続していることが分かります。
同じく「今昔マップ」より現代のようす。現在の上野広小路付近で東側の低地と合流しています。真ん中下の池が「不忍池」。
 「今昔マップ」のすばらしい特徴の一つに、高低が色分けで表示される上に、カーソルで地図上を追うと、メートル単位で標高が表示されることです。これは、河川の跡をたどるには大変便利です。基本的にはその地域で一番低い地点を川が流れていたわけですから。上流、下流どちらにも進めます。今回もそれを活用させていただきました。

 この地には染物や洗張を生業にする商店が集まっていため、藍染川と呼ばれていました。明治期には川幅約3メートルの細流となっていて、漱石の名作「三四郎」で美禰子さんが「ストレイシープ」とつぶやくのもこの川のほとり(近くの水たまり?)。
 現在の「石神井川」は、JR王子駅付近は飛鳥山にぶつかるような形になっているため、1958年の狩野川台風では、洪水が発生し、王子駅の改札口が冠水するなど北区だけで5000世帯が被害にあった。つい最近でも集中豪雨であっという間に水があふれ流域を水浸しにしました。そのため、今、流路変更の大工事を行っています。

:「Wikipedia」による)
①縄文期の河川争奪説
 1976年、東京都土木技術研究所の中山俊雄らはボーリング調査による石神井川と谷田川沿いの地質断面図を作成し、石神井川の流路変遷を論じた[7]。彼らは、谷田川から不忍池を経て昭和通りにいたる地下に基底が-20mに達する埋没谷が存在すること、石神井川下流の王子から隅田川合流までの地下に埋没谷が存在しないこと、流域の小さい谷田川のみで昭和通り谷が形成されたとは考えがたいことを指摘。昭和通り谷の形成時期に谷田川がその上流で石神井川でつながっており、これが石神井川の本流であったと結論づけた。また、立川ローム層を鍵層とした江古田層との対比より、石神井川の王子より上流の河谷底に堆積する泥炭層をサブボレアル期(4500-2500年前)のものとし、音無渓谷がこの泥炭層を開析しているように見えることから、渓谷の形成時期をサブボレアル期以後とした。
 1994年、北区教育委員会の中野守久らは石神井川の流路変遷時期を特定するため、現・石神井川から離れてすぐの谷田川の谷底低地にてボーリング調査を行い、その結果を発表した[8]。彼らは山手層(本郷層)の上位に泥炭質粘土からなる沖積層を発見し滝野川泥炭層と命名、14C年代測定によって約7400年前から約1000年前までに堆積したものと分かった。中野らは滝野川泥炭層は石神井川下流部が現在の流路をとるようになってから、旧河床が沼沢地となった環境で形成されたと考えた。また、石神井川が本郷台東端で縄文海進(6500-5500年前)に形成された埋没上位波食台(中里遺跡発掘の際に発見された)を侵食していないことなどから、縄文海進最盛期より後に河川争奪が起こったと推定した。これらのことから、石神井川は縄文海進最盛期に本郷台の崖端侵食に起因した河川争奪を起こし、流路を奪われた谷田川上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層が堆積し、王子方向へと流出した新河流は河床を深く掘り込んで峡谷を作った、と結論づけた。
 北区飛鳥山博物館では中野らの研究成果に基づき、縄文時代の河川争奪説の解説が展示されている。
③中世以降の人為掘削説
 歴史研究家の鈴木理生は1978年の自著において、石神井川が現在の石神井川と谷田川に分断されたのは人為的な工事の結果であると主張した。鈴木は飛鳥山付近の台地が東から広義の利根川、西から石神井川の浸蝕を受けて人為的に短絡しやすい地形であったこと、「滝野川」という地名が登場するのは13世紀後半に成立した『源平盛衰記』以後のことで、正史の『吾妻鏡』には見られないことなどから、この間に人為的な掘削があったと推論した。この工事は、豊島氏による下町低地への灌漑水路の開発、または矢野氏による洪水防止の工事であったと鈴木は推定した。
 後、2003年、鈴木は大著『江戸・東京の川と水辺の事典』の中で、上述の中野らによる自然現象説を紹介するとともに、再び人為変更説を主張した。まず鈴木は『源平盛衰記』に「滝野河」の名前があるのは、この時期にすでに滝のような水流で渓谷ができていたと解釈できるとして、この時期の工事説は述べなかった。代わりに、江戸時代に刊行された多くの地誌で不忍池とお玉が池の説明ぶりが不自然である点、軍用道路であった岩槻道(現在の本郷通り)は石神井川をまたぐより台地の縁沿いに通るほうが自然である点を指摘し、江戸氏・太田道灌・後北条氏あるいは徳川氏初期に江戸湊の洪水を防ぐために瀬替えしたと主張した。
④そのほかの説
 2008年11月14日放送のテレビ番組『タモリ倶楽部』では、石神井川の流路変遷について取り上げられた。番組の中で漫画家の江川達也は、石神井川が上野台地を貫いて東へ流れているのは、江戸時代の治水工事によるものと主張。それに対し、出版社之潮社長の芳賀啓は『寛永江戸全図』を示し、江戸時代初期にはすでに現在の流路をとっていたと分かっていると反論。また、石神井川下流へ人工的に流したとすると直線的に隅田川に流れるはずだとする説を唱えた。
 
 このへんのやりとりは、とてもおもしろい。が、今回は現地のようすを!
「よみせ通り」。商店街が続きます。上流方向を望む。かつては、川に沿って夜店が並んだのか?
 次の機会はこの道を上って行くつもり。今回は、不忍池方向へ。
 ぶらり歩いて気になったお店。
ガラス細工のお店。
 そして路地を覗くと。
「笑吉」。指人形のお店。公演も見せてくれる。時間があったら立ち寄りたかったが。そこで紹介。

さんより。)
さんでも紹介しています。
南(下流)を望む。
交差点にある説明板。「枇杷橋跡」。「合(藍)染橋」とも。
 《解説文「藍染川と枇杷橋跡》

「文京区と台東区の区境の道路はうねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。『新編武蔵風土記稿』によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原へ、さらに駒込村から根津谷へ入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園の入口のところ)で忍川となり三味線堀から隅田川に注ぐ。
川の名は上流から境川、谷戸川(矢田川)、藍染川などと呼ばれた。藍染の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川端に染物屋があり、川の色が藍色に染まっていたからなど。前方の道路の交わるところに、藍染川に架かる橋があった。江戸時代の『御府内備考』や『新編武蔵風土記稿』によれば、この橋は合染橋、藍染橋、琵琶の橋(のち枇杷橋)などと呼ばれた。また旧八重垣町には同名の橋があった。
この川は水はけが悪く、よく氾濫したので大正十年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境となっている。」

 ここでは、染井付近が水源となっています。石神井川からの流入が減少した藍染川(旧石神井川)に流れこんでいた小さな流れの一つだったと思います。(文京区としては「北区」の説には与しなかったのでしょう。)
 このあたりは、東西の台地にはさまれ、けっこう幅の広い谷筋で、田んぼなどの間を通る小さな川が幾筋もあったようです。上記の解説文にもある、もう一つの「藍染橋」は、もっと西南の旧八重垣町(現在の根津2丁目付近)、「不忍通り」のすぐ東側にあった流れに架かっていた橋と思われます。

角にあるお蕎麦屋さん「大島屋」。風情のある建物です。
交差点(枇杷橋跡付近)から東を望む。緩やかな坂道(三崎坂)になって上っていきます。
西側(文京区側)を望む。「不忍通り」をはさんでやはり坂道(団子坂)になっています。(「不忍通り」は、本郷台地のへりを進む。そのためこの先北方で大きく西に曲がる。)東西に広い幅になっている谷筋を流れていたことが分かります。
先ほどの商店街の通りとはうって変わって細い曲がりくねった道が住宅街の中を南に向かっています。右が文京区、左が台東区。
かつての流路を彷彿とさせるような通り。
コメント
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