「木根川橋」。
この付近、荒川には三本橋が架かっています。下流から「木根川橋」、「新四つ木橋」、「四つ木橋(四つ木小橋)」。しかし、歴史的には変遷がありました。子供頃は、今の「四つ木橋」を「新四つ木橋」と言っていましたし、「荒川」を「荒川放水路」と言っていましたが。
荒川放水路(現:荒川)開削前は、綾瀬川と曳舟川通りが交差する所に木ノ下橋が架かっていた(現在は新四ツ木橋が架かっている)。
1922年(大正11年)6月30日、荒川放水路開削に伴い橋長451メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木製の方杖桁橋の四ツ木橋(旧橋)が架橋された。また、綾瀬川には1921年(大正10年)11月30日開通した橋長53メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木桁橋の四ツ木小橋が架けられていた。位置は現在の国道6号ではなく、約500 m下流の京成押上線荒川橋梁のすぐ下流側、東京都道465号深川吾嬬町線の延長上にあった。木橋ながら戦車を通すこともできた。
1969年(昭和44年)12月、木製の旧四ツ木橋が解体され、代わりに旧四ツ木橋の約100 m下流に木根川橋が橋長539.6メートル、幅員10.5メートル(車道6.5メートル、歩道2メートル×2)の7径間下路式平行弦ワーレントラス橋で架橋された。右岸側にある旧四ツ木橋の取り付け道路は残され、木根川橋へクランク状に接続されている。なお、木根川橋の工事名は四ツ木橋であった。また竣工は1969年(昭和44年)2月であった。
現在の国道6号上に近代的な橋をかける計画があり、戦後、1950年に工事が再開、1952年(昭和27年)7月に完工、7月30日に永久橋が開通した。これが現在の四ツ木橋である。東向島広小路止まりだった都電も、この橋を渡って路線延長される計画が存在した(着工せず、廃線)。
開通時は旧橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼んでいた。
その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として1973年(昭和48年)4月5日、新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通り沿いに架橋された。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、一方1952年(昭和27年)製の新四ツ木橋の名称が「四ツ木橋」になった。
京成線橋梁。
上流方向に向かって「京成線橋梁」「新四つ木橋」「四つ木橋」と並ぶ。
旧四つ木橋(今の「木根川橋)。
2・26事件発生の際は、この木橋を市川の陸軍連隊所属の戦車部隊が続々と反乱軍鎮圧に渡っていった、とあります。
下流方向。
木根川橋 歌:さだまさし. 作詞:さだまさし. 作曲:さだまさし.
『先生、俺達の木造校舎すっかりなくなっちまったんですねェそれに、あの暑い夏に重いローラー転がしてならしたテニス・コートの上にプールなんか出来ちまって… 先生、時の流れって、そんなもん ...』
さだ まさしさんは、葛飾区立中川中学校出身。
さだまさし
歌手・小説家
1. 昭和27(1952)年~
2. 昭和47(1972)年、フォークデュオ“グレープ”として「雪の朝」でデビューした。翌年に発表した「精霊流し」はレコード大賞作詞賞を受賞。平成13(2001)年には、自伝的小説『精霊流し』がベストセラーになる。その後に発表した『解夏』や『眉山』もベストセラーとなり、いずれも映画化された。平成27(2015)年、「一般財団法人 風に立つライオン基金」を設立、国内外で奉仕活動や慈善活動をしている個人や団体を支援したり、大災害が起きた際などに支援活動をするための組織作りを行っている。
3. 小学校卒業後、ヴァイオリン修業のために単身上京。昭和40(1965)年より昭和42(1967)年まで葛飾区に在住していた。
(この項、「葛飾ゆかりの人」HPより)
「木根川橋」を渡ると、葛飾区に入ります。「綾瀬川」。
「荒川放水路(現:荒川)」開削工事は、「綾瀬川」「中川(古利根川)」が流路変更、寸断され、さらに、多くの田畑、家屋が移転しての難工事でした。
荒川放水路
荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。
1910年(明治43年)8月5日頃から関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめて太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現・隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断、死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起した。また、利根川や多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先し荒川放水路の建設を決定する。内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは1913年(大正2年)のことである。
この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が地方自治体としては廃止となり、周辺の町村へ編入されていった。
結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3200万円あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。
当時は工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたものの、現代のような重機はほとんどなかった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況・物価高騰も難工事に拍車をかけた。
1924年(大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。
「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。
また、この部分を横断する鉄道は地下鉄を含め地下(トンネル)ではなく、すべて橋梁で横断している。なお、荒川全体では埼玉高速鉄道線が赤羽岩淵 - 川口元郷間で、新荒川大橋(国道122号)のすぐ西側を唯一地下で抜けている。
(この項、「Wikipedia」参照)
(写真・絵図は「」HPより)
このHPには、経緯から現況まで詳しく掲載されています。
荒川放水路で寸断され残された「綾瀬川」が隅田川に合流する地点。「墨提通り」にある「綾瀬橋」という橋が「元綾瀬川」に架かっています。
写真は、綾瀬橋から隅田川との合流点を望んだもの。右手に見えるのは、「伊沢造船」という造船所。創業は1877(明治10)年。古い歴史をもつ造船所です。(2,009年9月撮影)
旧中川。中川(古利根川)が明治末の荒川放水路開削によって分断され、中川は荒川沿いに流れるようになり、西側の部分が取り残されてしまいました。現在、上流は江戸川区・墨田区、下流は江戸川区・江東区の区界となっています。
かつて、旧中川一帯は、増水・決壊など台風などの被害が続出していた地域でした。また家庭や工場からの排水で淀んだ川になっていましたが、近年は、護岸工事・治水工事、環境整備によってかつての清流を取り戻し、両側の土手沿いの道も川の流れにも親しめる自然環境になっています。都内の広い河川の中では、一番水辺に近く散策できるようです。しかし、蛇行する流れは今も昔も変わりません。北東は荒川に接し、南東も再び荒川に接しています。
旧中川の最上流。「木下川(きねがわ)排水機場」。(2,012年9月撮影)
下町の河川の氾濫から地域を護るための施設。この施設は旧中川の水をくみ上げ浄化して荒川に流すためのもの。
そのため、現在の旧中川には、かつてのような川上から川下へという流れはない。旧中川全域が潮の満ち干に関係なく、ほぼ一定の低水位に保たれるようになっている。
「きねがわ」は荒川をはさんだ葛飾区側に「木根川(きねがわ)」として存在する。荒川開削以前は同じ地域・集落と考えられる。荒川の少し上流にある「堀切」なども同じ。