「八広はなみずき 高齢者支援センター」。
そのガラス窓に昔懐かしい写真が掲示されいます。それらを紹介します。かつて映画館がいくつかある街だったようです。映画のポスターも。
「南龍館」、「橘館」、「電気館」、「松竹館」、「吾嬬富士館」、「向島映画劇場」・・・。当時、近所の工場で働く工員、庶民の娯楽の殿堂だったわけです。などがあり大いに賑わっていたそうだ。
向島駅周辺は、東側に映画館「南龍館」、商店街「南龍館通り(現「八広新中通り商店会」)」、西側にミツワ石鹸の工場などがあって、大いに賑わっていたそうです。映画館は昭和30年頃廃業となり、商店街は営業中。
が、商店よりも住宅が多くなっているようです。
橘館
主な活動/プロフィール
かつては30以上の映画館があった墨田区ですが、現在、墨東エリアには映画館がありません。そんな中、私たち橘館は、「まちを映画館に」をコンセプトに、特定の拠点は持たず、廃校、教会、カフェなど映画を映せる環境を探し出し、不定期に映画の上映会を行っています。
(この項、「」HPより)
向島橘銀座商店街
東京都墨田区の京成押上線京成曳舟駅から明治通りの南東約500mに位置する、南東に伸びる約450mの商店街である。
一般にはキラキラ橘商店街と通称で呼ばれることが多く、商店街の看板にも「キラキラ橘」と表示されており、惣菜・乾物等の商店が多いのが特色で、墨田区内でも1〜2番手にあげられる有力な商店街。
商店街の名称は、昭和6年に映画館の橘館がこの通りにできたことに由来し、戦前から「橘館通り」として地域住民に親しまれてきた。戦時中は物資の不足、戦災等で商業活動も中断したが、戦後は周辺地区の人口の過密化とともに、商店街も復興して戦前をしのぐ勢いとなり、発展を続けた。 昭和35年には「商業協同組合」を設立した。 しかしながら同区に存在する錦糸町や隣区の江東区にある亀戸の副都心化による発展などもあり、大規模な人口流出が起こり、徐々に衰退している。 そこで、商店街を地域の特性である「下町コミュニティ」の核として改めて位置づけ、近代化を進めることによって再生を図るべく、平成元年度の東京都コミュニティ商店街事業の申請を行った。そして、指定を機に、ハード・ソフト両面にわたる意欲的な活性化事業に着手した。
商店街の町並みは総じてレトロチックに構成され、戦前の町並みを彷彿とさせる。コンビニエンスストア等は商店街内には設立されていないが、その反面でスーパーマーケットのグルメシティやチェーン店の薬局も垣間見る。
(この項、「Wikipedia」参照)
(京成線の東側にあります。)
(この項、「」HPより)
コロナの影響か閉まっている店が目立ちます。
懐かしい映画のポスター。
『生きる』
1952年(昭和27年)10月9日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は志村喬。モノクロ、スタンダード、143分。東宝創立20周年記念映画。
無為に日々を過ごしていた市役所の課長が、ガンで余命幾何もないことを知り、己の「生きる」意味を市民公園の整備に注ぐという物語。黒澤作品の中でも、そのヒューマニズムが頂点に達したと評価される名作で、その題名通り「生きる」という普遍的なテーマを描くとともに、お役所仕事に代表される官僚主義を批判している。劇中で志村演じる主人公が「ゴンドラの唄」を口ずさみながらブランコをこぐシーンは、名シーンとしてよく知られている。海外でも黒澤の代表作の一つとして高く評価されており、第4回ベルリン国際映画祭でベルリン市政府特別賞を受賞した[注釈 2]。第26回キネマ旬報ベスト・テン第1位。昭和27年度芸術祭文部大臣賞。
ストーリー
市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。
ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師から軽い胃潰瘍だと告げられた渡辺は、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分の人生の意味を見失った渡辺は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコやダンスホール、ストリップショーなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる。
その翌日、渡辺は市役所を辞めて玩具会社の工場内作業員に転職していようとしていた部下の小田切とよと偶然に行き合う。何度か食事をともにし、一緒に時間を過ごすうちに渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを渡辺がとよに伝えると、とよは自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだできることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。
それから5か月が経ち、渡辺は死んだ。渡辺の通夜の席で、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所の幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザ者からの脅迫にも屈せず、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて息を引き取ったのだった。新公園の周辺に住む住民も焼香に訪れ、渡辺の遺影に泣いて感謝した。いたたまれなくなった助役など幹部たちが退出すると、市役所の同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績をたたえ、これまでの自分たちが行なってきたやり方の批判を始めた。
通夜の翌日。市役所では、通夜の席で渡辺をたたえていた同僚たちが新しい課長の下、相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺の創った新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。
ゴンドラの唄
(「You Tube」より)
『七人の侍』
1954年(昭和29年)4月26日に公開された日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。モノクロ、スタンダード・サイズ、207分。日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年)を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った7人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。
当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかったが、興行的には成功し、700万人の観客動員を記録した。黒澤明が初めてマルチカム方式(英語版)(複数のカメラで同時に撮影する方式)を採用し、望遠レンズを多用した。ダイナミックな編集を駆使して、豪雨の決戦シーン等迫力あるアクションシーンを生み出した。さらにその技術と共に、脚本、綿密な時代考証等により、アクション映画・時代劇におけるリアリズムを確立した。黒澤が尊敬するジョン・フォードの西部劇から影響を受けており、この作品自体も世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。アメリカでは1960年に『荒野の七人』として、2016年に『マグニフィセント・セブン』としてリメイクされている。
『七人の侍』は世界で最も有名な日本映画の一つであり、海外の多くの最高の映画のリスト(英語版)に選ばれるなど高い評価を受けている。Rotten Tomatoesでは61件のレビューで批評家支持率は100%を保持、平均点は9.35/10となった[4]。また同サイトにおける「アートハウス&国際映画のトップ100」では第6位にランクインされている。2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では第1位に選ばれた。 ・・・
(この項、「Wikipedia」参照)