「権現堂堤」。
久々に「中川」の上流を歩きました。予定では、「権現堂堤」から上流を行けるところまで、と。
ところが、JR宇都宮線の踏切から先の道に迷い、行ったり来たり。
うろうろしたあげく、暑いくらいの陽気の中で歩き疲れ、途中、県道沿いのお店に入って、遅い昼食。
その先は諦めて、栗橋駅まで戻ることに。結局、駅の数としては二駅分。
それでも、青空の下、久々の歩きでした。
幸手駅から歩いて約40分。日光道中歩き以来の「幸手宿」。そして、「権現堂堤」へ。
前回、中川歩きで今年の6月に来たときは、アジサイの花がたくさん。今回は、彼岸花が。
少し時期は遅かったですが、それでも、堤一面、彼岸花。
白色のものも。
土手上にあるのは、「行幸堤之碑」。
「行幸堤(みゆきづつみ)之碑」。
権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。(現在は国道4号線がその上を通っています。)
明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
明治22年の町村制施行によって高須賀村。外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併し行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。
また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成12年~17年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、堤が高くなっために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。
さて、上流に向かいます。
権現堂堤・西端。
「行幸橋」からの中川。
これより上流の中川は、かつての「権現堂川」に流路の変更を行った「島川」(一部、開削された水路)になります。
橋を渡って左折し、すぐ右折しますが、この道は旧「日光街道」。
右に折れる。
前方は、東武日光線の鉄橋。
旧日光街道から分かれ、左の道へ。東武線のガードをくぐると、中川の土手へ。
東武線の鉄橋を振り返る。
中川の流れ。
右手には、一面、刈り入れが終わった田んぼが「広がる。
こちらは、畑。
農作業中のご婦人に聞くと、ネギや小豆を植えている、とのこと。
少し回り込み、中川に合流する流れに架かる橋を渡ります。
大排水路。
この流れの桜並木がすばらしい、とか。
再び、中川の土手道へ。
河川敷に遊歩道があります。
この付近は、かつて流れが大きく広がっていました。
1880年代のようす。中川(旧「島川」)の氾濫原(沼地)。
2010年代のようす。自然公園風になっています。かつての土手が現在の道に。