おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR東金駅~成東駅。その4。旧道へ。「関東ふれあいの道」。「姫島池」・根蔵池・東池。成東高校。結城藩校興譲館旧跡。成東陣屋跡。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-12 21:50:31 | 銚子往還

しばらく県道を進みます。

左の旧道へ。

              古びた方向案内板。

この角にもあります。

「関東ふれあいの道」。

ため池「東池」。

                  西側には「根蔵池」「姫島池」。

旧道はもう少し進みますが、

県道に戻ります。

バス停「根蔵(ねぞう)」。

   

県立成東高校モニュメント。 

開校当時、学校と県道を直接つなぐ道路はなく、生徒は曲がりくねった小道をたどって登下校していたが、登下校時の混雑や雨天・霜解け時のぬかるみが大きな問題となっていた。これを解決するため学校と県道を結ぶ100間の道路建設を計画していたが、用地の買収をめぐって地主との折り合いがつかず、建設の目途がたっていなかった。1910年になって、地域有力者の仲介などもあって用地の買収が成立し、11月16日から職員・生徒を動員して建設工事がはじまり、12月24日に完成した。翌年、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が成東中学校に行啓した際、この道路を通過した事から、それ以降「行啓記念道路」と呼ばれるようになった。

県道から左の旧道へ。

この道も水路沿い。

結城藩校 興譲館旧跡。

             

明治2年(1869)2月24日14歳の水野勝寛が上総領千石減封の1万7000石で最後の結城藩主となり、勝知は7月4日に改めて二本松藩預となった。
6月版籍奉還で勝寛は結城藩知事となり、11月に成東陣屋の西に位置する福星寺に結城藩学館興譲館が開かれた。朱子学と武術を教え、武術は大河内阿三郎(不二心流四世大河内正道)が指導した。翌年に作られた勝寛の筆による興譲館扁額は市指定文化財。
明治4年(1871)7月14日に廃藩置県、11月に成東陣屋を廃した。 

「成東陣屋跡」。

結城藩水野家は武射(むさ)郡成東村に上総国領を治めるための陣屋を、廃城となっていた成東城址の入道山東南麓に造営した。
面積1615坪、かつては堀及び土手があり、南側に門、西側に牢屋や蔵が建てられていたという。  

    陣屋跡遠景。

県道に合流します。

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JR東金駅~成東駅。その3。街道筋らしい家並み。難解な地名・八街・匝瑳。水路沿いの旧道。公平幼稚園。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-11 21:03:08 | 銚子往還

街道筋らしい家並み。

バス停「東金商業入口」。

「←八街(やちまた)↑匝瑳(そうさ) 山武(さんむ)→国道126号」。

※「八街」、「匝瑳」、「山武」とどう読むのか、難解な地名が出てきます。

角に大きなお屋敷。

「千葉学芸高等学校」。

      

県道から分かれ、左の道に。

ここでも水路沿いに進む。 

           

変わりやすい雲行きに。

昔ながらの家並み。

「真亀川」沿いのレストラン。

kawa no saki」。古民家の店で隠れ家風。

                                          (「食べログ」より)

左奥にあります。

県道に合流する手前に、

キンカンの実がすずなり。

趣のあるおうち。

里山風景。

県道に合流。

「公平幼稚園」。

1974年(昭和49年)4月、旧公平小学校の西半分を使用し、公平幼稚園が開園。園庭は、かつての小学校の校庭の大きさだったのですね。園舎も小学校の校舎のまま?

右手は九十九里浜平野。

小高い森。

バス停「姫島」。「蛇島」伝説とも関わりがあるようです。

南北朝のころ、護良親王が鎌倉に幽閉され、二階堂谷の土牢で最期を遂げた。親王の息女・華蔵姫は、父を慕って京から鎌倉に遠路旅してきたが、辿り着いたときにはすでに親王は淵辺義弘により非業の最期をとげた後だった。

姫は一時泣き崩れたが、さすが猛将といわれた親王の娘、すぐに鎌倉に滞在するのは危険と判断し、南朝の味方の多い上総へと下った。姫の一行は山中たどりながら、目的地の姫島へと到着したという。

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JR東金駅~成東駅。その2。出桁造りの商家。なまこ壁。土蔵造り。看板建築。田間城址。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-10 13:35:39 | 銚子往還

バス停「片貝県道入口」。九十九里浜・片貝に向かう県道。

商家が建ち並ぶ。

             

西北(八街)に向かう県道。

街道の両側に古くて立派な商家造りが続きます。(写真を取りそこねたおうちも多い)

なまこ壁。

「上行寺」山門。

「←東金簡易裁判所」。

立派な土蔵造り。

「村井綿店」。

見事な看板建築。

「田中家具店」。1930年(昭和5年)築。黄金色のモルタル塗り。側面、正面とデザインが見事。

先に進みます。まだまだ古い町家がありそうです。

二軒とも素晴らしい。

       手前が看板建築、奥が出桁造りの商家。

バス停「金半前」。

朱塗りのおうち。

                 軽トラも朱塗り。

一方では洒落たお店も。

                    「SUNNY DAY」。

左手に「田間神社」。

この神社の上が、かつての城址に。

土塁と空堀で区画された主郭と、細長い第二郭が並ぶ直線連郭状の城跡で、現在城山団地となる一帯にも、「山小屋」と呼ばれた腰曲輪が存在していた。そのため、長軸で500メートル、短軸で240メートルが城域と考えられる。南西部は「ガンガン坂」と呼ばれる切り通し道で区切られるが、かつては城域を区切る堀切であった可能性が高い。緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪が回り、堀切や削り落しをもつ支尾根が数多く延びている。

 一説には、土気酒井氏が土気から田間城にいったん移り、城地の狭いことから東金城に移ったというが、裏付ける史料はない。むしろ、縄張りから判断すると、一六世紀半ばころの東金酒井氏領域における東端の「境目の城」として機能し、天正18年(1590)東金城の落城とともに廃城となった可能性が高い。

バス停「田間神社」。

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JR東金駅~成東駅。その1。九十九里鉄道線(廃線)。多田屋本社社屋・店舗。灰吹屋鈴木薬局。新宿。出桁造り。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-09 20:15:47 | 銚子往還

「東金駅」。

駅前の案内板。

今回から、JR東金線「東金駅」から「成東駅」までの報告。

かつて東金駅から九十九里浜まで鉄道が敷かれていました。

      ↑が軌道跡。                                「今昔マップ」より。

九十九里鉄道線は、千葉県東金(とうがね)市の東金駅と山武(さんぶ)郡九十九里町の上総片貝(かずさかたかい)駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となりました。1926年の開業後、成東(なるとう)町(現・山武市)や千葉市への延伸は実現しませんでした。九十九里鉄道では、小さな車体の単端式ガソリンカーが使われていました。客車の前面にフォード社製のエンジンを取り付け、バックができない構造のため、終点で向きを変える必要がありました。廃線間際には、鉄道と並行する未舗装の道路に自社の定期バスも運行し、列車と交互に運行しました。乗客が上総片貝駅で尋ねると、駅員が「列車が速いかバスが速いか」を、案内してくれたといいます。

※廃線跡は、用水路や歩道などとして残っているようです。機会を作ってこの路線の廃線跡を歩いてみようと思います。

さて、街道沿いには、歴史的な建築物がたくさんあります。

その一つ。国登録文化財「多田屋本社社屋・店舗」。

多田屋は江戸後期の文化2(1805)年創業の県下で最も古い書店の中の一つです。
 
 

カフェになっている。

店舗。看板建築の一つ。社屋に入る道路の角にあり、昭和初期に建築されたものと推測されます。

腰壁は切石積みですが、溝が入った柱型や持ち送りにより張り出した軒などは石造りを模した木造・モルタル造りで、全体からは古典的な雰囲気が見受けられます。                      

裏手の奥には、  

多田屋本社社屋。元々は「東金税務署」として明治末期ごろに建てられたものです。のちに税務署の移転に伴い多田屋本社の社屋として使われるようになりました。平面はコの字型で、中央には玄関が設けられており、2階のテラス状のスペースと屋根の中央に設けられた三角形の屋根窓が端正な意匠を形づくっています。 

                   

         

この他にも、古い建物が目につきます。

       

              奥に土蔵造りの倉庫。左奥が多田屋本社社屋。

成東駅に向かって銚子往還道を歩きます。

「灰吹屋鈴木薬局」。

                      明治20年代の建築。

初代当主が八日市場(現・匝瑳市)の灰吹屋で修業し、名前を名乗る事を許されたという。
 
灰吹屋の由来は?
 
からを取り出すための灰吹法に由来するらしいが、詳細はよく分からず
 
各地に灰吹屋の屋号を持つ薬種店があることから、薬屋 の代名詞であったようである。
 
バス停「新宿」。
 
出桁造りの建物。
 
     
 
※出桁造りは軒を伸ばすためのしくみで、 屋根裏や 柱から腕木を出して、 その先端に桁(けた)をのせて屋 根を支える。
 
 町家(店舗兼住宅)は、軒を深く前面に張り出した「出桁造」による立派な軒が商店の格を示していた。
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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その5。東金街道。新旧混じった街並み。東金線「東金駅」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-07 20:13:30 | 銚子往還

「東金」。

東金の(かつての)中心街に入っていきます。

バス停「砂郷入口」。

典型的な商家の建物。

 

「せいがい(出桁)」造り。

この付近の今昔。

                             (1880年代)。

東金街道沿いに町屋がり、東南側は畑地が広がる。

                             (現在)駅を中心に市街地が発展。

※「東上宿」は、かつての宿場としての地名ではなく、街道筋にある「上宿」との関連。

東金市

江戸時代には徳川将軍家徳川家康徳川秀忠)が八鶴湖鷹狩に訪れ、東金御成街道東金御殿などを整備し、宿場町問屋街として栄えた

その後も山武地域(山武郡市)の拠点都市として、農業・商業を中心に発展してきた。

市の中心駅東金駅と県庁所在地の千葉駅東金線-外房線で約35分で結ばれている。また、朝夕は京葉線経由で東京駅発着の通勤快速も運行されている。 バス輸送においても、東京駅千葉駅への直通バスが、東関東自動車道 - 京葉道路 - 千葉東金道路経由で運行されている。

市内に所在する東金インターチェンジ千葉東金道路首都圏中央連絡自動車道(圏央道)双方を連絡するジャンクションを併設しており、国道126号と接続し、2キロメートルほど行くと東金九十九里有料道路台方インターチェンジ)に接続するなど、首都圏九十九里浜(九十九里海岸)方面とを結ぶ交通の要衝となっている。

地名の由来

  • 東金の由来は「鴇が根」に由来するといわれる。当地にある最福寺境内の山嶺が(とき)の頭に似ていることから鴇ヶ峯と称され、トウガネに転訛し東金と言うようになったと伝えられる。
  • 城の名称も『東金町誌』によると「東金城は往古上総介の属館なりしが後年千葉氏の支城となりて鴇ヶ嶺城と云う。後東鐘城と唱へまた鴇ヶ根城と号す。大永元年(1521)東金城と改称せり」とある。
  • 東金では 明細帳に「村名之儀は往古は辺田方と唱申候処、慶長十九甲寅御成之節より東金町と唱申候」とあり、1614年慶長19年)徳川家康がはじめて同地を訪れた折から東金町と称したという 。
  • 同市東岩崎に旧名に由来するとみられる鴇嶺(ときがね)小学校がある。

(この項「Wikipedia」より)

この通りは、「東金御成街道」と重なっています。「東金御成街道」は船橋・津田沼からほぼ一直線の道。かつて歩きました。

 

        

バス停「上宿」。

右折して東金駅に到着。

「東金駅」。

              構内にある孟宗竹の竹灯り。

               ※東金高、東金商業高の生徒の作品。 

今回は、ここまで。 次回は、成東駅までの予定。

附:「東金御成街道」の記録。

 

「東金城址」
 東西約700m、南北約500mの規模をもつ、半独立丘稜の山城。東金酒井氏の本城として、天正18年(1590)まで機能していたことが確実である(「関八州諸城之覚書」『毛利家文書』、「豊臣秀吉朱印状」『難波創業録所収文書』)。本城の初見は、「鎌倉大草紙」によると、享徳の乱(1454~82)の初期、美濃より下向した東常縁の家臣浜春利が拠ったとされることである。昭和63年(1988)に行われた発掘では、15世紀末~16世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の播鉢の断片が出土している。標高74mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二郭を配する。比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。また、西端の尾根に大堀切・竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。
 遺構もよく残り、本城に関する一級史料もあることから、東金市の歴史を語るうえで、貴重な文化財であると言える。

「東金御殿跡」
 東金御殿は、徳川家康による「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝が、慶長18年(1613)から翌年にかけて、東金代官嶋田次兵右衛尉重次以栢(嶋田治兵衛伊伯)を造営に当たらせました。この御殿は、船橋-東金間に造られた御成街道の終着点にあり、東金辺での「鷹狩り」を行う将軍(大御所)の宿泊施設でした。現在、県立東金高等学校が建てられています。
 東金城があった城山の東麗の敷地(約6,700坪)に玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、弓部屋、老中部屋、台所などの部屋、別棟には鷹部屋、長屋、馬屋、大番所などが建てられました(下絵図)。ほぼ中央に家康専用の部屋があったといわれていますが、家康の所在を明確にしない事情もあり、絵図には記されていません。また、小池の拡張工事も行われ、谷池(御殿前池=八鶴湖)と上池に分けたといわれています。
 寛永7年(1630)の、大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われなくなり、その後、寛文11年(1671)に東金が幕府直轄地(天領)から福島の板倉藩領となり、御殿は取り壊され、その一部が小西の正法寺(現在の大網白里町)などに移されたとのことです。右絵図と下絵図の大きな違いは、「表御門」と「御裏門」が逆転していることです。元禄4年(1691)の記載がある下絵図の方が当時の状況に近いことから、右絵図は江戸時代後半~明治時代初期と判断されますが、時の経過とともに御殿跡の役割も変わったことがうかがえます。

「東金高校」。れんが造りの正門。

湖畔にある「八鶴亭」。

                         

「ビリヤード棟」など歴史のある料亭。
 八鶴亭(旧八鶴館)は明治期創業の老舗旅館で、東金市を代表する景勝地八鶴湖のほとりに所在することから、北原白秋や伊藤左千夫ら多くの文人墨客が訪れました。
 現存する建物のほとんどが大正から昭和初期に建てられ、そのうち本館・新館・宿泊館・浴室棟・ビリヤード棟5棟が国の登録有形文化財に登録されました。・・・


そこからの「八鶴湖」の眺望。

                   
八鶴湖
 その昔、谷池(ヤツ)と謂う 谷はヤチ(谷地)に通じアイヌ語で草深い湿地の意なり
 慶長18年(1613)家康公 東金御殿を造営されるに、その「御殿前池」として弁天島等を設け整備される
 面積は約1万1千坪(3万6300平方メートル)周囲10町(約1000メートル)
 天保年間、幕末の尊王家、梁川星厳その弟子遠山雲如ら詩人、学者盛んに湖に遊ぶ
 雲如その詩句に八鶴湖と称し天下に紹介される

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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その4。東金九十九里有料道路。旧道へ。大きなお屋敷が続く。「第三東金街道踏切」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-06 19:39:11 | 銚子往還

右手に「ヰセキ関東甲信越千葉事務所」。

                       かなり大きな営業所のようです。

左は「旬菜らーめんえむず」。

       地元食材、トマトなどを用いた創作ラーメンがウリ。

バス停「市立西中学校入口」。正面奥は、「東金九十九里有料道路」高架。

下の流れは「北幸谷川」。

                             

高架橋をくぐり、正面の道を進みます。

道路脇の用水路蓋の上を歩きます。

                      水路脇が旧道になっている場合がよくあるようです。

         槙の生垣。

立派なお屋敷が続きます。

               

正面を左に曲がります。

               

東金線の踏切を渡ります。

                      「第三東金街道踏切」。

  

「東金駅」方向。                   「福俵駅」方向。

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3月5日。啓蟄。菰はずし。春雷(「虫出しの雷」)。菜種梅雨(なたねつゆ)。

2024-03-05 20:22:34 | 世間世界

水緩む季節。

3月5日(火)は二十四節気の3番目「啓蟄(けいちつ)」。「雨水」から15日目頃で、今日から春分までの期間。

「啓」は「開く」「開放する」という意味があり、「蟄」は「隠れる」「虫が地中にとじこもる。」という意味があります。

土中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚める頃。

生き物たちは久しぶりに感じるさわやかな風と、麗らかな春の光の中で生き生きとしていく時期。

※実際に虫が活動を始めるのは日平均気温が10℃を超えるようになってからで、鹿児島では2月下旬、東京や大阪で3月下旬、札幌は5月上旬頃に当たる。虫が冬眠から目覚めるとそれを補食する小動物も冬眠から目覚め動き始める。

七十二侯では、

初侯 3月6日〜3月10日頃

蟄虫啓戸 すごもりむしとをひらく

土中で冬眠をしていた虫たちが、暖かい春の日差しの下に出てき始める頃。虫とはいいますが、冬眠から目覚め始めるすべての生き物のことを表しています。

次侯 3月11日〜3月15日頃

桃始笑 ももはじめてさく

桃のつぼみが開き、花が咲き始める頃。昔は“咲く”という言葉を“笑う”と表現したそうです。ゆっくりと開いていく桃の花は、ほほ笑んでいるようにも見えます。

末侯 3月16日〜3月20日頃

菜虫化蝶 なむしちょうとなる

厳しい冬を越したさなぎが羽化し、美しい蝶へと生まれ変わり、羽ばたく頃。菜虫とは、大根や蕪などの葉につく青虫のことをいいます。

のもの

さかな さより

春から秋にかけて収穫され、旬は3月~5月頃。寿司や天ぷらによく用いられる高級食材です。お祝いの席には、その長い身を結んだ昆布だしのお吸い物が出されることも。

鳥 かわらひわ

羽を広げると黄色のきれいな模様がはっきりと見えます。数羽で行動することが多く、春から夏にかけて頻繁に住宅街に現れます。

野菜 わらび

わらびは野山などの日当たりのいい場所に多くみられる山菜です。山菜の中でもあくが強く、時間がたつと硬くなってしまうので、採った日には必ずあく抜きをします。

花 かたばみ

ハート型の3枚の葉に、小さな黄色い花が春から秋にかけて咲きます。クローバーとよく似ていますが、全く異なる植物です。夜になると葉をしぼませ眠りについたように見えます。

                               

たのしみ(行事)

十六団子

春には農作物を守るために“田の神様”が山から里へ下りてきます。収穫が終わる秋には山に戻っていきます。この神様の移動日である三月と十一月の十六日に、十六個の団子を供えることを「十六団子」と言います。

(この項、「暦生活」HPより)

行事

菰はずし

マツカレハなどの害虫から守るために、松の幹に巻きつけていた藁(わら)でできた菰(こも)をはずす「菰はずし」を啓蟄の恒例行事にしているところが多い。

松の菰。「向島百花園」にて(2024・2)。

春雷

 立春から立夏の頃までに発生する雷。寒冷前線通過時に発生する界雷で、を伴うこともある。 立春の頃の雷は春の到来を伝えるともいわれ、冬眠していた地中の虫たちが雷鳴に驚いて目覚めるという意味から「虫出しの雷」とも呼ばれる。

菜種梅雨(なたねつゆ)

この時期に続く長雨のこと。ちょうど菜の花が咲く季節に降る長雨なので、このように呼ばれている。

「催花雨(さいかう)」という別名も。桜や菜の花など、さまざまな花が咲くのを促す雨という意。

東京地方は昼過ぎから明朝まで雨模様。肌寒い。真冬に逆戻り。しばらくは曇りや雨の日が続く。これが「菜種梅雨」(のはしり)。

来週からは、本格的な春の陽気が続くようですが。

「暑さ寒さも彼岸まで」といいますから、20日「春分の日」あたりが冬の寒さとのお別れ?

こうして確実に春がめぐってくる。

                  路傍の菜の花。(「荒川を遡る」より)

江戸川・流山付近の土手にて(2022・3)。

次の二十四節気は、『春分』(3月20日)。

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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その3。旧道? 大網白里市から東金市入り。「なめろう」。蛇島。東金線「福俵駅」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-04 18:42:48 | 銚子往還

「銚子往還」としての旧道は、国道を渡った正面の道のようですが、左に見える国道脇の道(旧道)に進んでしまいます。

             この道も旧道のようです。

すぐ国道に合流します。

                     

この付近の今昔。

                             (現在)現在も旧道として残されている。

                             (1880年代)新堀地区への道が旧道。

朽ちたバス停。 東金市へ。

九十九里浜らしい広告。「なめろう」。

イワシやハマグリなど海の恵みが豊かな千葉県ですが、千葉の海産物といえばやっぱりアジが代表的ですよね。千葉では昔からアジが豊漁で、なめろうは千葉の代表的な郷土料理として広く知られています。

あまりのおいしさに、ついお皿まで舐め尽くしてしまいたく──というのが由来の「なめろう」。

なめろうは、アジやイワシ、サンマなどの青魚を薬味や味噌などと一緒に包丁で叩いて作ります。味噌など塩気を含む調味料と一緒に叩くことで粘りが出て、魚の旨みや食感を存分に楽しめるのが特徴です。

千葉県では居酒屋などの定番メニューですが、実は自宅で簡単に作れるので、ぜひ自家製なめろうで楽しい晩酌タイムを過ごしてください。

オーソドックスななめろうに冷やしなめろう、さんが焼き。どれも簡単に作れますから、おうちで手軽に再現できます。夕食のおかずに、お酒のおともに、ぜひ千葉の豊かな海の恵みをご自宅でご堪能ください!

                

(この項「」HPより)

ここからは、海は見えませんが。

「高齢者向け住宅はまゆうの里・東金」。

本龍寺の杜。

大きなお屋敷が続く。

              

                             門前にバス停「蛇島」。

南北朝のころ、護良親王が鎌倉に幽閉され、二階堂谷の土牢で最期を遂げた。親王の息女・華蔵姫は、父を慕って京から鎌倉に遠路旅してきたが、辿り着いたときにはすでに親王は淵辺義弘により非業の最期をとげた後だった。

姫は一時泣き崩れたが、さすが猛将といわれた親王の娘、すぐに鎌倉に滞在するのは危険と判断し、南朝の味方の多い上総へと下った。姫の一行は山中たどりながら、目的地の姫島へと到着したという。

ところで、鎌倉二階堂谷には永く棲みついた大蛇がいた。大蛇は父宮幽閉の土牢を見にきた華蔵姫のことを忘れられず、姫を慕って後を追ったのだという。慣れない長道中鱗がはがれ、傷だらけになり、精根尽きはて、大蛇は福俵村の田んぼの中で死んでしまった。

部落の人々は大蛇の死骸に驚き、祟りを恐れてお坊さんに頼んで供養してもらった。さらに、華蔵姫を追ってきたのだということを知った人々は、改めて墓地塚を築いて供養をした。これを蛇塚といい、田の中に島のように見えることから蛇島と呼ぶようになったという。今はもう塚がどこにあったのかは知れない。

東金市教育委員会『東金の昔ばなし』(NTT)より要約

東金周辺にはこの護良親王の娘という華蔵姫(けぞうひめ)の伝説が色濃い。姫島というのは今も大字だが、山武市の東金市隣接地にある。東金側には家之子(いえのこ)という大字があるが、これが姫にちなむ地名といい、そこの妙宣寺や、かつて家之子にあったという圓福寺が縁故の寺であったという。

しかし、半ばから出てくる蛇は一体何なのかという不思議な話だ。福俵は今も大字としてあり(駅もあるが)、内に確かに蛇島というバス停名が見える。最終的に蛇は全く姫に影響を与えていないということになると、どういう話の型なのかというのも難しいところだ。

(この項、「蛇島の地名の由来(千葉県東金市) - 龍鱗」HPより)。

   

「ふくたわら動物病院」。

この先、左奥に東金線「福俵駅」があります。

福俵(ふくたわら)

地名は「ふけ(湿地)・た(処)・はら(原)」の転訛で湿地の広い平地という意味か。または水田地を指したものか。

「東金市トウガネの地名由来 | 未知の駅 總フサ」HPより)

※「福俵」は、縁起のいい漢字のようです。

日本人の主食である米が詰まった米俵は古くから富の象徴とされてきました。「五穀豊穣」「商売繁盛」などの意味があると言われています。

 (「」HPより)

東金線がこの道の先にあります。

右側(東側)。はるか遠くに「九十九里浜」。

東金線「成東」行き電車。

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3月3日。「上巳(じょうし)」・桃の節句。「桃夭(とうよう)」。「万葉集」大伴家持。「ひな祭り」・鴻巣のひな祭り。

2024-03-03 20:15:58 | 世間世界

 中国から伝わり、宮中行事となったのが「節句」の始まり。宮中行事であった5つの節句を、江戸幕府が一年のうちで特に重要な節目として式日(しきじつ)に定めたことで庶民の暮らしの中で根付いた。

※当時は旧暦(太陰暦)上の日にち。

今日は、「上巳」。上巳とは、3月最初の巳(み)の日という意味。「巳」は蛇。

※じっさい、今日の干支は「丙寅(ひのえとら)」。

1月7日=人日(じんじつ)、3月3日=上巳(じょうし)、5月5日=端午(たんご)、7月7日=七夕(しちせき)、9月9日=重陽(ちょうよう)という「五節句」の一つ。

「人日」を1月1日と勘違いしている人もいますが、1月7日が正しい日付。(1月1日は「元旦」として特別扱いに)。9月9日の「重陽」は日本では他の節句に比べて、なじみが薄い感じです。

※なお、今の暦(太陽暦)では3月3日・5月5日・7月7日は同じ曜日となります。

「上巳」は「桃の節句」とも。

同じように「人日」は「七草の節句」、「端午」は「菖蒲の節句」、「七夕」は「笹の節句」、「重陽」は「菊の節句」とも言います。

春らしい桃の花にちなんで、 上巳の日は「桃の節句」と呼ばれるようになりました。

桃には厄除け、魔除け、長寿のパワーが。花と言えば、中国では「桃」を指すようです。

『詩経』にある漢詩

桃夭」(とうよう)=「若々しい桃」

桃之夭夭  灼灼其華

之子于帰  宜其室家

桃之夭夭  有蕡其実

之子于帰  宜其家室

桃之夭夭  其葉蓁蓁

之子于帰  宜其家人

桃(の花)は若々しいよ、  燃えるように盛んに咲くその花よ。

(その花のように若く美しい)この娘は今お嫁に行きます。  きっとその家の人とうまくいくでしょう。

桃(の実)は若々しいよ、   はち切れるようなその実よ。

この娘は今お嫁に行きます。  きっとその家の人とうまくいくでしょう。

桃(の葉)は若々しいよ、  盛んに茂るその葉よ。

この娘は今お嫁に行きます。  きっとその家の人とうまくいくでしょう。

※嫁いでいく娘の幸福を願う庶民の素朴な感情を歌い上げたもので、代表的な祝婚歌として知られています。高校の古典の教科書では、定番のはず。

次の歌は、『万葉集』中、大伴家持の歌。

春の苑 紅にほふ 桃の花 した照る道に 出で立つをとめ

そして「ひな祭り」。

 ひな祭りの歴史は古く、その起源は平安時代中期(約1000年前)にまでさかのぼります。
 その頃の人々は、三月の初めの巳の日に、上巳(じょうし、じょうみ)の節句といって、無病息災を願う祓いの行事をしていました。陰陽師(おんみょうじ・占い師のこと)を呼んで天地の神に祈り、季節の食物を供え、また人形(ひとがた)に自分の災厄を托して海や川に流すのです。
 また、その頃、上流の少女たちの間では“ひいな遊び”というものが行われていました。ひいなとはお人形のことです。紙などで作った人形と、御殿や、身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶもので、いまの“ままごと遊び”でしょう。このことは紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』にも見られます。
 長い月日の間に、こうした行事と遊びが重なり合って、現在のようなひな祭りとなりました。
 上巳の節句が三月三日に定まったのは、わが国では室町時代(約600年前)頃のことと思われます。しかし、この頃から安土・桃山時代にかけては、まだひな人形を飾って遊ぶ今のひな祭りとはかけはなれた、祓いの行事の日でした。この日が華やかな女性のお祭りとなるのは、戦国の世が終り、世の中が平和になった江戸時代からのことです。
 江戸初期の寛永6年(1629)、京都御所で盛大なひな祭りが催されました。この頃から、幕府の大奥でもひな祭りを行うようになり、やがてこの習慣は上流から町民へ、大都市から地方へと大きく広がっていったのです。
 そして江戸中期には、女性たちばかりでなく、女の赤ちゃん誕生を祝う初節句の風習も生まれて、ひな祭りはますます盛んとなりました。江戸市中には雛市(ひないち)が、日本橋十軒店(じゅっけんだな・いまの室町)や浅草茅町(かやちょう・いまの浅草橋)など各所に立って大変にぎわいました。またこの頃から附属のひな人形やひな道具の種類も多くなり、かなり贅沢なものが作られるようになりました。幕府はひな人形の華美を禁じるお触れを再三出しています。
 明治に入ると、新政府は従来の節句行事を廃止して新しく祝祭日を定めました。節句行事は一時衰えますが、しかし、長い間人々の生活に根を下ろした行事は簡単になくなるものではなく、やがて復活します。こうして上巳、端午、七夕など子どもに関係深いお節句は、いまも民間行事として盛んに行われています。

(この項、「人形辞典」HPより)

以下は「中山道」を歩いた時の記録から。

・・・

鴻巣にある「広田屋」さん。ちょっと店内へ。

    

 お店の方に許可をもらって、写真を。ゆったりとしたスペースの店内には、ひな人形がズラリ。15万、20万円(それ以上の)というひな人形に「売約済み」の印がいくつも。

 「鴻巣」は江戸時代から受け継がれているひな人形のふるさと。関東三大ひな市(鴻巣、岩槻、江戸日本橋十軒店)の一つに数えられ、特に着物に着付けでは関東一と評判だった、とか。江戸から明治の「鴻巣雛」には鳳凰の刺繍が施され、女雛の手を出さないものが多いようです。着物の生地は京都西陣から買い付けいていました。
 明治になると「県内では越谷6軒、大沢3軒、岩槻3軒、に比べて、鴻巣の人形業者31軒、職人300人」という記録があるほどの活況ぶりでした。

「鴻巣の古今雛」。西陣の生地による鳳凰の刺繍。

初期の頃の「鴻巣雛」。  

そこで、鴻巣市ならではのイベントを紹介。
  (HPより)

・・・

ひな祭りの料理の定番は、「ちらし寿司」と蛤のお吸い物

また、「白酒」。白い見た目からも、甘酒と混同されていることが多いようですが、その成分や製法は全く異なります。白酒は、みりんや焼酎などに蒸したもち米や米麹を仕込み、1ヶ月程熟成させた醪をすりつぶして造られたお酒のこと。(「暦生活」HPより)

孫娘も高校生なので今さら「ひなあられ」でもないでしょうし、白酒というわけにもいきません。

当方は、日本酒で一杯! ではなく、「一番搾り」で乾杯(自分に)!

                

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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その2。看板建築。下宿。2か所の金尺手。田園地帯。南白亀川(なばきがわ)。(国道128号線。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-02 18:22:22 | 銚子往還

年季の入ったおうち。

        看板建築風。

バス停「大網下宿」。 

大きく右折します。

その先を左折。

                   「曲尺手(桝形)」。

宿場を抜けて田園地帯へ。

              

田畑が広がる。

「かえもん・ジョブファーム直売所」。

                       

里山風景が広がる。

   クラフト工房。

「国道128号線」を越えて進むのが、旧道。

※「国道128号線」は、「伊南房州通往還(房総東往還)」歩きのときに何度も出会い、歩きました。明治に入り、「伊南房州通往還」をなぞってつくられた道路で、千葉市内から房総半島を横断する幹線道路(「房総横断道路」)。

銚子往還でもしばらくは利用することになります。

「南白亀川」を渡ります。

       

南白亀川(なばきがわ)

千葉県房総半島東部九十九里平野を流れる二級河川。南白亀川水系の本流である。

地理・環境

大網白里市小西付近の丘陵面に源を発し東流する。間もなく両総用水を越えて、東金市との境界を南下する。東金線を越えると川幅が広がり、多くの支流を集めながら東へ進む。周囲は水田と畑が混ざって分布しており、複数の頭首工によ取水されている。東金市との境界で再び南へ折れ、小中川を合わせると茂原市に入る。赤目川を合わせると今度は長生郡白子町に入り、観音堂橋・白子町役場付近で東へ折れる。古所の九十九里浜太平洋に注ぐ。流路延長21.7kmのうち、東金線橋梁より下流17.5kmが二級河川に指定されている。中下流部には遊歩道が両岸に整備され、桜が植えられている。

河川名の由来は、白子町内流路上にある白子神社の白亀・白蛇伝承による。平安時代、白子の海岸に白い亀が南方から白蛇を背にして渡来し、これを見た潮汲みの翁が柄杓を差し出すと白蛇がそこに昇った。その白蛇を翁が自宅近くの小社に祀ったという伝承であり、白蛇は白子神社の御神体となっている。

茂原市内、河口から7.7kmの地点に清水堰があり、そこを境に上流が堰湛水区間、下流が感潮区間である。前者は季節により水量・景観が異なる。川面にはアズマネザサススキが繁茂し、コイギンブナが生息する。それに対し後者はヨシが繁茂し、シマイサキボラマハゼなどが見られる。潮の流れを利用し、毎年7月には「南白亀川イカダのぼり大会」が開催されている。かつてはハゼ漁などが盛んに行われたが、現在は南白亀川漁業協同組合が漁業権を持ち、捕獲量はわずか。河口部は、千葉県のレッドデータブックで最重要保護生物に指定されているアカウミガメの産卵地になっている

(この項、「Wikipedia」より)           

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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その1。房総往還・房総東往還に続き、銚子往還へ。大網宿。曲尺手。「本宿」バス停。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-01 20:10:53 | 銚子往還

:房総往還(JR「内房線」)、:房総東往還(「外房線」)。今回から:「銚子往還(街道)」歩きの報告。

大網~銚子、約63㌔の道のり。

成東までは、JR「東金線」、成東からは「房総本線」を利用しての歩きとなります。

このところ、九十九里浜の東方沖では群発地震が起こっています。はたしてこの先どうなるか? 歩いている最中に大きな地震に遭遇したら・・・もちろん地元の方々の不安・心配は大きいものですが。

第1日目 2月9日。晴れ時々曇り。

手始めに「大網」から「東金」までを歩くことに。北風が冷たく、体感的には寒い。温暖な南房総歩きとは、けっこう異なるようです。

※「大網白里市」歴史は古く、江戸時代から「大網宿」として知られ、九十九里(浜)と縁のある「百里」から漢字の「一」を抜いた「白里」が地名の由来とされている。

「大網」には旧大網駅など見所も多いようですが、別の機会に譲ることとして街道歩きを。

「大網駅」。右は「東金線」。

「駒込」交差点。

ここをスタート地点とします。

右(南)に進むのが「伊南房州通往還(房総東往還)」、左(北)に進むのが「銚子往還」。

   

 (右折する道)               (左折する道)=「銚子往還」。

「外房線」のガードをくぐります。

            「落合橋」から「小中川」上流。

                 「南白亀川(なばきがわ)」の支流。

下流方向。

大網白里市のマンホール。

             太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。    

旧市街地を進む。  

バス停「市役所入口」。町時代の「役場入口」というバス停も。

房総半島独特の小山。

宿場らしい家並み。

バス停「本宿」。

       

               上部は看板建築仕立て。

この先を右折します。

大きなお屋敷。

来た道を振り返る。

「曲尺手(桝形)」?

      「←白里海岸」。

                  (下方)北上する道を進みます。

街道筋には、まだ町家が続きます。

                 バス停「新宿」。   

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