さて、先日少し触れた「君の名は」のテーマの1つである「名づけと記憶」についてである。
人間が記憶し、それを再生する場合に、「言語思い出し型」と「事物思い出し型」の2つのタイプがあることは広く知られている。例えば、三葉という少女を思い出すのに、「みつは」という言葉(文字・音声)を先に思い浮かべるのが「言語思い出し型」であり、まず具体的な人物の姿(図像)を思い浮かべるのが「事物思い出し型」である。
そして、これは、言語学でいう「シニフィアン」と「シニフィエ」にほぼ対応している。例えば、「三葉」という名前が「シニフィアン」であり、三葉という人物そのもの(ただし、図像には限定されない。)が「シニフィエ」ということになる。
これに対し、新海誠監督が提起したのは、「シニフィアン」=「名」が失われた世界における記憶というテーマである。
1200年前の隕石落下を記載した書物は破壊され、スマホの日記もデータが消失し、ついに「三葉」という「君の名」の記憶までも失われた。残されたのは、夢の中の図像による記憶と、「糸」という物質だけということになる(ここで、メインテーマ(世界の螺旋的構造)を象徴する「糸」が出てくるのが面白いところ。)。
ところが、主人公の瀧は、得意の画力を活かして、夢に出てきた村の光景をデッサンし、それが糸守町であることを発見する。ここでは、滝が図像ひいては「シニフィエ」を操る人物であることが強調されている。
要するに、新海監督は、「シニフィアンによらない記憶及びその再生・伝承」というテーマを提示していると思われる。
人間が記憶し、それを再生する場合に、「言語思い出し型」と「事物思い出し型」の2つのタイプがあることは広く知られている。例えば、三葉という少女を思い出すのに、「みつは」という言葉(文字・音声)を先に思い浮かべるのが「言語思い出し型」であり、まず具体的な人物の姿(図像)を思い浮かべるのが「事物思い出し型」である。
そして、これは、言語学でいう「シニフィアン」と「シニフィエ」にほぼ対応している。例えば、「三葉」という名前が「シニフィアン」であり、三葉という人物そのもの(ただし、図像には限定されない。)が「シニフィエ」ということになる。
これに対し、新海誠監督が提起したのは、「シニフィアン」=「名」が失われた世界における記憶というテーマである。
1200年前の隕石落下を記載した書物は破壊され、スマホの日記もデータが消失し、ついに「三葉」という「君の名」の記憶までも失われた。残されたのは、夢の中の図像による記憶と、「糸」という物質だけということになる(ここで、メインテーマ(世界の螺旋的構造)を象徴する「糸」が出てくるのが面白いところ。)。
ところが、主人公の瀧は、得意の画力を活かして、夢に出てきた村の光景をデッサンし、それが糸守町であることを発見する。ここでは、滝が図像ひいては「シニフィエ」を操る人物であることが強調されている。
要するに、新海監督は、「シニフィアンによらない記憶及びその再生・伝承」というテーマを提示していると思われる。