Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

君のシニフィアンは

2018年01月07日 07時40分35秒 | Weblog
 さて、先日少し触れた「君の名は」のテーマの1つである「名づけと記憶」についてである。
 人間が記憶し、それを再生する場合に、「言語思い出し型」と「事物思い出し型」の2つのタイプがあることは広く知られている。例えば、三葉という少女を思い出すのに、「みつは」という言葉(文字・音声)を先に思い浮かべるのが「言語思い出し型」であり、まず具体的な人物の姿(図像)を思い浮かべるのが「事物思い出し型」である。
 そして、これは、言語学でいう「シニフィアン」と「シニフィエ」にほぼ対応している。例えば、「三葉」という名前が「シニフィアン」であり、三葉という人物そのもの(ただし、図像には限定されない。)が「シニフィエ」ということになる。
 これに対し、新海誠監督が提起したのは、「シニフィアン」=「名」が失われた世界における記憶というテーマである。
 1200年前の隕石落下を記載した書物は破壊され、スマホの日記もデータが消失し、ついに「三葉」という「君の名」の記憶までも失われた。残されたのは、夢の中の図像による記憶と、「糸」という物質だけということになる(ここで、メインテーマ(世界の螺旋的構造)を象徴する「糸」が出てくるのが面白いところ。)。
 ところが、主人公の瀧は、得意の画力を活かして、夢に出てきた村の光景をデッサンし、それが糸守町であることを発見する。ここでは、滝が図像ひいては「シニフィエ」を操る人物であることが強調されている。
 要するに、新海監督は、「シニフィアンによらない記憶及びその再生・伝承」というテーマを提示していると思われる。
 
 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする