(引き続きネタバレご注意)
もっとも、「疑似家族」という表現は、余り正確ではない。
この、「母と息子の関係性に、外からなんの変哲もない少女(みかげ)が入ってくる」という物語の構造は、「父(王)と娘(姫)の関係性に、外からexploit (功績)を挙げた男(英雄)が入ってくる」という英雄譚(あるいは部族形成神話)の基本構造とは真逆である。
念のため言うと、この小説は、「シンデレラの条件」(そのうちの④:花嫁テストと⑤:結婚成立、そしてハッピーエンド)を欠くため、シンデレラ譚とも異なる(みかげには特に exploit (功績)も取柄もなく、ごく普通の女の子として描かれている。)。
また、ここに至って、リアルな「男」を描かなかったばなな氏の意図が明らかになる。
おそらく、ばなな氏は、当時の社会(ないし世界)に対する(無意識的かもしれない)プロテストとして、アンチ英雄譚(アンチ「竜馬がゆく」=司馬遼太郎)の小説を書いたのである。
ばなな氏は、テストステロンの充満する社会に対するアンチテーゼとして、「24時間戦わない女の子」を提示した。
その究極の目的は、私見では、後述するように、「人間社会の始原(母、その胎内(子宮))への回帰」にあったと思われる。
さて、この小説の内部には、「アンチ英雄譚」という物語の構造において、既に社会(ないし世界)が反転した形で映り込んでいる。
また、社会(ないし世界)は、もっと分かりやすく、「肉親(両親、祖父母)の死」と「イエ」の喪失、さらに「えり子さんを殺害する男」(p65)という形(後者について言えば擬人化された形)でも侵入してくる。
これらが暴力的な社会(ないし世界)を象徴しているのはもちろんだが、同時に、伝統的な「イエ」が崩壊する一方で、その諸要素が「カイシャ」に転写され、吸収され尽くしてしまったことを示唆しているのかもしれない。
何しろ、今や「強い父」は家の中にはおらず、「カイシャ」の「企業戦士」として24時間戦っているのだから。
この、「母と息子の関係性に、外からなんの変哲もない少女(みかげ)が入ってくる」という物語の構造は、「父(王)と娘(姫)の関係性に、外からexploit (功績)を挙げた男(英雄)が入ってくる」という英雄譚(あるいは部族形成神話)の基本構造とは真逆である。
念のため言うと、この小説は、「シンデレラの条件」(そのうちの④:花嫁テストと⑤:結婚成立、そしてハッピーエンド)を欠くため、シンデレラ譚とも異なる(みかげには特に exploit (功績)も取柄もなく、ごく普通の女の子として描かれている。)。
また、ここに至って、リアルな「男」を描かなかったばなな氏の意図が明らかになる。
おそらく、ばなな氏は、当時の社会(ないし世界)に対する(無意識的かもしれない)プロテストとして、アンチ英雄譚(アンチ「竜馬がゆく」=司馬遼太郎)の小説を書いたのである。
ばなな氏は、テストステロンの充満する社会に対するアンチテーゼとして、「24時間戦わない女の子」を提示した。
その究極の目的は、私見では、後述するように、「人間社会の始原(母、その胎内(子宮))への回帰」にあったと思われる。
さて、この小説の内部には、「アンチ英雄譚」という物語の構造において、既に社会(ないし世界)が反転した形で映り込んでいる。
また、社会(ないし世界)は、もっと分かりやすく、「肉親(両親、祖父母)の死」と「イエ」の喪失、さらに「えり子さんを殺害する男」(p65)という形(後者について言えば擬人化された形)でも侵入してくる。
これらが暴力的な社会(ないし世界)を象徴しているのはもちろんだが、同時に、伝統的な「イエ」が崩壊する一方で、その諸要素が「カイシャ」に転写され、吸収され尽くしてしまったことを示唆しているのかもしれない。
何しろ、今や「強い父」は家の中にはおらず、「カイシャ」の「企業戦士」として24時間戦っているのだから。