(引き続きネタバレご注意)
キッチン 吉本ばなな/著
「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。・・・
私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。
本当に疲れ果てた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、誰かがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。
田辺家に拾われる前は、毎日台所で眠っていた。
どこにいてもなんだか寝苦しいので、部屋からどんどん楽なほうへと流れていったら、冷蔵庫のわきがいちばんよく眠れることに、ある夜明け気づいた。」(p9~10)
登場人物とストーリー(あるいはプロット)が小説の骨格であるとすれば、milieu(ミリュー 。「物語環境」とでも訳しておく)は小説の血と肉であり、多くの小説家がこれに心血を注ぐ。
「神は細部に宿る」からである。
余談だが、milieu を浮かび上がらせるために全精力でディテールを描写する小説の例を見たいと思うのであれば、「ユリシーズ」や「魔の山」を読んでみるとよい。
但し、このレベルまで来ると、ディテールの描写がくどすぎて、読むのをやめてしまう読者も多いのではないだろうか?
それに比べると、ばなな氏による milieu の構築は、読者に非常に親切である。
milieu の中心は、冒頭から明らかなとおり、「キッチン」である(もっとも、「キッチン」(p61でやっと登場?)より「台所」という言葉が多く出てくる。これは「台所太平記」へのオマージュなのだろうか?)。
そして、「キッチン」は、上に引用した短い文章からも分かるとおり、「胎内(子宮)」と「棺」という二重の意味を持っている。
何もないキッチンに置かれた(80年代の)冷蔵庫から響く「ジー」という機械的な持続音は、母親の体内を流れる血液の音を示しているかもしれない。
私は、この小説のテーマは「人間社会の始原への回帰」であると解釈するのだが、この小説が成功した最大の理由は、milieu がテーマと完璧に調和していることだと思う。
キッチン 吉本ばなな/著
「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。・・・
私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。
本当に疲れ果てた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、誰かがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。
田辺家に拾われる前は、毎日台所で眠っていた。
どこにいてもなんだか寝苦しいので、部屋からどんどん楽なほうへと流れていったら、冷蔵庫のわきがいちばんよく眠れることに、ある夜明け気づいた。」(p9~10)
登場人物とストーリー(あるいはプロット)が小説の骨格であるとすれば、milieu(ミリュー 。「物語環境」とでも訳しておく)は小説の血と肉であり、多くの小説家がこれに心血を注ぐ。
「神は細部に宿る」からである。
余談だが、milieu を浮かび上がらせるために全精力でディテールを描写する小説の例を見たいと思うのであれば、「ユリシーズ」や「魔の山」を読んでみるとよい。
但し、このレベルまで来ると、ディテールの描写がくどすぎて、読むのをやめてしまう読者も多いのではないだろうか?
それに比べると、ばなな氏による milieu の構築は、読者に非常に親切である。
milieu の中心は、冒頭から明らかなとおり、「キッチン」である(もっとも、「キッチン」(p61でやっと登場?)より「台所」という言葉が多く出てくる。これは「台所太平記」へのオマージュなのだろうか?)。
そして、「キッチン」は、上に引用した短い文章からも分かるとおり、「胎内(子宮)」と「棺」という二重の意味を持っている。
何もないキッチンに置かれた(80年代の)冷蔵庫から響く「ジー」という機械的な持続音は、母親の体内を流れる血液の音を示しているかもしれない。
私は、この小説のテーマは「人間社会の始原への回帰」であると解釈するのだが、この小説が成功した最大の理由は、milieu がテーマと完璧に調和していることだと思う。