Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

傑作の救済(5)

2024年10月16日 06時30分00秒 | Weblog
 「文化防衛論」以外にも、「日本文化」=「鏡子」という見立てを補強する評論が存在する。
 例えば、「小説家の休暇」(昭和30年)の以下のくだりである。

 「ただ一つたしかなことは、現代日本の文化が、未曾有の実験にさらされているということである。小さいなりに、一つの国家が、これほど多様な異質の文化を、紛然雑然と同居せしめた例も稀であるが、人が気がつかないもう一つの特徴は、「日本文化にとって真に異質と云えるものがあるか」という問題に懸っている。日本文化は本質的に、彼自ら、こうした異質性を欠いているのではないか。私はせつかちな啓蒙家のやうに、日本文化の独自性は皆無で、模倣能力だけが発達してゐる、と云はうとしているのではない。日本文化は、ともすると、稀有の感受性だけを、その特質としており、他の民族とは範疇を異にしており、質の上で何らの共通性を、従ってその共通性の中に生れる異質性を、本質的に持たぬかもしれないのだ。」(決定版 三島由紀夫全集 第28巻p652)

 ここでは、「日本文化」の特質は「稀有の感受性だけ」であることが指摘されている。
 この特質を一言であらわすとすれば、私は、「鏡」以外の日本語を思いつかない。
 上に引用したのは昭和30年8月4日の日記であるが、この前年(昭和29年)に発表された短篇小説に、「鍵のかかる部屋」というのがある。
 この小説が「鏡子の家」との関係において決定的に重要であることについては、ありがたいことに、「裸体と衣装」(昭和33~34年)の中で作者自身が語ってくれていた。

 「「鏡子の家」のそもそもの母胎は、一九五四年の夏に書いた「鍵のかかる部屋」だと思はれる。この短篇小説はエスキースのやうなもので、いづれは展開されて長篇になるべき主題を
含んでゐたが、その後五年間、つひぞ私は、「鍵のかかる部屋」の系列の作品を書かなかつた。」(決定版 三島由紀夫全集 第30巻p238)

 読むと分かるが、「鍵のかかる部屋」は、(日銀の建物と同じく)「墓」になぞらえられている。
 他方で、「鏡子の家」は、「日本」を指していると考えられる。
 ・・・これで既にピンときた人もいると思うが、
 「鍵のかかる部屋」=「鏡子の家」=「日本」=「墓」
という等式が成立しているらしいのである。

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