「鏡子」の正体が一応掴めたので、次は彼女の「良人(おっと)」が何かを追求することになる。
結論から言えば、答えは「文化防衛論」に書いてあるのだが、それだと面白くないので、ここで一旦原作に立ち戻ってみたい。
「鳥も愛さず、犬も猫も愛さず、その代りに人間だけに不断の興味を寄せてきた、このわがままな家つきの一人娘は、むしやうに犬好きの良人を持つた。犬が夫婦のいさかひの原因になり、はては離婚の理由になり、娘の真砂子を手元に置いて、良人を追ひ出してしまつた鏡子は、良人と一緒に七疋のシェパァドとグレートデンを追ひ出して、やうやうのことで家ぢゆに漂つてゐた犬の匂ひから自由になつた。それは犬の匂ひといふよりも、人間ぎらひの男の不潔な匂ひのやうに思はれ出してゐたのである。」(決定版 三島由紀夫全集 第7巻p23)
「「もうお見えになる時分よ」
と鏡子が何度目か真砂子に言つたときである。門内の玉砂利を圧して、自動車の辷り込んでくる疑ひやうのない音をきいた。鏡子は、飛び出さうとする真砂子をしつかりと押へた。
「何度も言つたでせう。ここで待つてゐるのよ。ここでお父様を迎へて、おかえりあそばせと言ふんです」
これが鏡子の矜りの名残り、最後にちょつぴり見せるべき自尊心の名残りでなければならない。そのためにわざわざ、ドアに背を向けた長椅子を選び、入つて来た良人の跫音を確かめてから、ゆつくり立ち上つて、振り向いて迎へようと思つたのである。
玄関の扉があいた。ついで客間のドアが、恐ろしい勢ひで開け放たれた。その勢ひにおどろいて、思はず鏡子はドアのはうへ振向いた。
七疋のシェパァドとグレートデンが、一どきに鎖を解かれて、ドアから一せいに駆け入つて来た。あたりは犬の咆哮にとどろき、ひろい客間はたちまち犬の匂ひに充たされた。」(前掲p550)
このように、「良人」は実際にはラストまで登場せず(ラストでも姿は見えない)、それまではひたすら「語られる」だけの存在である。
寓喩を多用している上にこういう思わせぶりな書き方をしていたため、多くの読者だけでなく、専門家である作家や文芸評論家たちを誤解させてしまった。
そのうちの一人が、元東京都知事である。
「帰ってきた夫は、いまになってみれば岸信介を象徴していたことになる、と僕は深読みしている。」(「ペルソナ 三島由紀夫伝」猪瀬直樹p341)
いつ読んでも爆笑したくなる(おそらく作者が蘇って読んだとしたら同じ反応だろう。)。
「ペルソナ」は、私もリアルタイムで読んでいたという記憶で、第1章は出色の出来だと思うが、引用した部分を含む第4章はやや的外れの記述が目立つ。
「良人」=「岸信介」
なんてことがあるはずがないからである。
だが、「七疋のシェパァドとグレートデン」などという暗号を使った作家にも、誤解の責任の一端があると感じる。
この「七疋のシェパァドとグレートデン」は、一体何を意味しているのだろうか?
この答えは、テクストそれ自体からは絶対に出て来ない。
特に、外国人にこの意味を理解せよというのは無茶な話だろう。