Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

背景的情動としての「無気力」(1)

2025年01月03日 20時21分21秒 | Weblog
ベートーヴェンは、「なぜ作曲するのか?」という問いに対して、次のように答えた。
なぜ私は作曲するか?---〔私は名声のために作曲しようとは考えなかった〕私が心の中に持っているものが外へ出なければならないのだ。私が作曲するのはそのためである。」(ゲーリングに)

これを読んで、「やっぱり天才は違うな~」と感じる人も多いだろうが、「天才」の一言で片づけてしまうのは、おそらく間違いである。
あらゆる天才について言えることだが、やはり「環境」も大事であり、これが「天才」を殺してしまうこともあるのである。
例えば、仮に、ベートーヴェンが現在の日本の一般家庭に生まれ育ち、正規の教育を受けたとしてみよう。
その場合、彼の音楽的才能は十全に開花し、彼は「楽聖」と呼ばれる域に達していただろうか?
彼が、日本の小学校・中学校の義務教育を受けて、一般的な高校の普通科に入学したとしてみよう。
そこでは、「芸術」は別として、これでもか!これでもか!といわんばかりの、たくさんの科目を「詰め込まれる」のである(文部科学省 高等学校学習指導要領について)。
このカリキュラムで3年間を過ごした人物が、後に「楽聖」となる可能性は、限りなくゼロに近いのではないだろうか?
もっとも、ベートーヴェンの“初等・中等教育”が、理想的なものであったというわけではない。
ロマン・ロランも指摘するとおり、
つらい子供時代---そこには、いっそう幸運なモーツァルトの幼時を取り巻いていたような家庭的な愛情の雰囲気が無かった。最初からしてすでに彼にとっては人生は悲しく冷酷な戦いとして示された。父は彼の音楽の才能を利用して、神童の看板をくっつけて子供を食いものにしようとした。」(「ベートーヴェンの生涯」p25)」
からである。

ベートーヴェンは1770年12月16日、ドイツ中西部のボンで、宮廷のテノール歌手だった父ヨハンと、母マリア・マグダレーナのもとに生まれた。ヨハンはモーツァルト父子を理想として、3歳から息子を教育。その甲斐あって、ルートヴィヒは7歳にして演奏会を開き、11歳で作品を初出版するなど、幼少から類稀な楽才を発揮した。 その一方、息子が曲を弾き通せるまで、食事も与えずに部屋へ閉じ込め、暴力も厭わなかった父親は、やがてアルコール依存症で失職。ルートヴィヒや3歳年下の弟カスパルら子供たちに、いっそう辛く当たるように。そんな生い立ちが、その後のルートヴィヒの人格形成へ、暗い影を落とすこととなる。 11歳からは、作曲と鍵盤楽器を大家クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに学んだ。16歳の時にはウィーンへ赴き、敬愛するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの前で即興演奏。これを聴いた天才作曲家は感嘆し、「諸君、注目し給え! 彼はやがて、世間を驚かせるだろう!」と叫んだとも伝わるが、これを事実と裏付ける証拠はない。 その5年後の1790年末。20歳を迎えたばかりのベートーヴェンは、1回目のロンドン訪問の途中にボンへ立ち寄った、ヨーゼフ・ハイドンと知己に。1792年の夏に再会した折り、若き楽聖は大作曲家に弟子入りを志願して認められ、秋にはウィーンへ移住。師弟関係は、ハイドンが2度目のロンドン訪問へと旅立つ、2年後まで続いた。

ちなみに、不幸なことに、ベートーヴェンは父のアルコール依存症を受け継いいたようで、後に酒精飲料の過剰摂取から宿痾ともいうべき腸カタルを発症しているので、「健康法」などの科目(現在の高校では必修科目ではないが・・・)を学んでおいたら良かったのかもしれない。

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