もっとも、遠藤氏やばなな氏のような「象徴的用法」とは異なる用法で「海」を用いる作家も多い。
例えば、アンデルセンは、「即興詩人」の主人公:アントニオをいわば自己の分身として、「海」へのあこがれを述べさせている(健全な自我の拡張)。
ここでの「海」は、「象徴的用法」における「海」とはおよそ対極にある。
「わが滿身の鮮血は蕩け散りて氣となり、この天この水と同化し去らんと欲す。」
この表現から明らかなとおり、アンデルセンは、「血液」の根源として、あるいはそれと同種のものとして「海」を位置づけ、この発想に基づいて、「自我の拡張」の一形態である「(体液の)エクペダン(噴出)」を描いたのである(根本原因(12))。
この用法を、仮に「『海』の即物的用法」と名付けてみる。
あくまで私見だが、「即物的用法」における「海」は、① 現実に存在する海を指していること(実在性)、② 自我の「外部」に存在しているものであって、かつ自我の拡張の対象となっていること(外在的対象性)、③ 到達可能なもの、つまり禁忌のものではないこと(到達可能性) という3つのメルクマールを備えていることが重要と思われる。
例えば、遠藤周作氏の「海と毒薬」における「海」は、おそらく①と②を欠いていると思われるから(ちなみに、私も数年住んでいたから知っているが、F市の海を「黝い」(あおぐろい)はまだしも、「黒い海」と形容するのはかなり違和感がある。F市の名誉のために弁護すると、F市には、実際は至る所に綺麗な海水浴場が存在している。)、「即物的用法」には当たらず、「象徴的用法」ということになるはずだ。
また、吉本ばなな氏の「TUGUMI」における「海」は、②と③を満たしていると思われるものの、「海=つぐみ=私」という三位一体関係における「海」は、もはや実在の海を超越しているから、①のメルクマールを欠き、やはり「象徴的用法」ということになるだろう。
「ボヴァリー夫人は私だ」というフローベールの言葉があるように、小説の中の登場人物は、常に作者の分身(拡張された自我)である可能性があるが、ばなな氏のように、「海」までも自分の分身として利用する作家も存在するわけである。