Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

入学の「権利」?

2023年07月04日 06時30分00秒 | Weblog
 「米連邦最高裁は29日、大学の入学選考で黒人などの人種的少数派を優遇するアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)について、憲法の定める「法の下での平等」に反するとの判断を下した。

 「これらに照らすと、優遇措置は過去における差別の埋め合わせとしてでははなくもっぱら学校における多様な学生の確保の目的でのみ許され、しかも人種的な特別枠を設けたり、人種を理由に自動的に入学を認めることは許されず、人種はあくまで考慮すべきさまざまな事情の一つとして考慮することが許されるに過ぎないことになろう。」(p414)
 「Grutter v. Bollinger, 539 U.S. 306 (2003) では、・・・多様性確保というやむにやまれない利益を実現するための限定的手段であるとして、その合憲性が支持されている。ただ、最高裁は、いつまでも優遇措置を認めることに躊躇し、25年を経過すれば、優遇措置も必要なくなることを示唆した。」(p413)

 今日はアメリカの独立記念日であるが、アメリカ司法の変容を象徴するようなニュースである。
 一般に、この種の事件では、受験生が原告となって、アファーマティヴ・アクションを採用している学校などを訴えるのだが、「そもそも入学の「権利」などというものが認められるのだろうか?」という観点からのアプローチもある。
 法哲学者ロナルド・ドウォーキンの主張がその代表である。

 「多様性を根拠とするアファーマティブ・アクション擁護論は、・・・入学許可を学生への見返りではなく、社会的価値のある目的を達成するための手段と見なす。」(p221)
 「・・・権利を重視する法哲学者のロナルド・ドゥウォーキンは、アファーマティブ・アクションにおける人種の考慮は誰の権利も侵害しないと述べる。・・・おそらくホップウッドらが求めているのは、フットボールがうまいことやアイダホ州出身であること、無料食堂でボランティアを経験したことなどではなく、学業に関する尺度のみで審査される権利なのだろう。・・・つまり入学選考では、学業面での優秀さのみを指針とするべきだというわけだ。
 ・・・ここに多様性を根拠とするアファーマティブ・アクション擁護論の核心をなす、根源的だが賛否のわかれる主張がある。それは、入学許可は学生の能力や徳に報いるための名誉ではない、というものだ。・・・つまりドゥウォーキンは、学生の能力や徳に報いることが入学許可の正義ではないと言っているのだ。」(p224~226)

 個人を「手段」とみなすのであればカント主義の立場からはタブー中のタブーであり(ところが、カント主義者でアファーマティヴ・アクションに賛同する人は多い)、賛否の分かれるところだが、ドゥウォーキンは、要するに、「能力・徳の見返りとして入学許可を求める権利」は存在しないと言っている。
 これは、ある意味では常識的な発想とも言える。
 例えば、法律で、全ての大学に対して、面接などを実施せず、内申書なども一切考慮せず、ペーパーテストの点数だけで入学許可の判断を行うことが義務付けられたとすれば、一般の常識ある人たちは違和感を抱くのではないだろうか?
 これだとむしろ、スポーツなどに打ち込む学生に対する差別になって、違法とされかねないだろう。
 こうなってしまうのは、入学の「権利」なるものを想定してしまうからである。
 このことは、就活の場面に置き換えると分かりやすい。 
 たとえば、学生には、企業に対して、「一流大学出身であり学業優秀である自分を正社員として採用することを求める権利」なるものが認められるだろうか?
 この問題については、「企業には(契約の自由の一つである)「採用の自由」が認められる」という説明で片づけられてしまうが、同じことが大学に当てはまらない理由は見当たらない。
 ただ、大学は、営利企業とは違い、大学が本来追及すべき善に応じて入学許可を公平に判断すべき義務を負うこととなる。
 それは、サンデル(&ドゥウォーキン)によれば、
 「公平性の条件は二つしかない。一つは偏見や侮蔑によって不合格にされる者がいないこと、もう一つは大学が定めた使命とかかわる基準によって出願者を審査することだ。」(p236)
ということになる。
 この考え方からすれば、大学が定めた使命及びそれに基づく(憲法を含む公序に反しない)アドミッション・ポリシーの公開並びに選考過程の可視化(少なくとも事後的に検証可能であること)は必須条件だろう。
 さて、こういう風に見てくると、もちろん個別事案の事実関係にもよるが、アファーマティヴ・アクションが違憲であるという結論を導き出すことは、むしろ難しいのではないかという気がするのである。
 
 
 
コメント
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