「それがいくら自然の産みだしたやむをえないこととはいえ、つぐみのこわれた肉体に、つぐみの心が宿っているというのはひどく切ないことだった。つぐみには誰よりも深く、宇宙に届くほどの燃えるような強い魂があるのに、肉体は極度にそれを制限しているのだ。」(p116)
「恭一は黙って聞いていた。私の声は波音と重なり、闇と吹きわたる風と、ほほを打つ冷たい水滴の中にくっきりと、つぐみの面影を浮かび上がらせた。まるで点々と海をふちどる船明かりのように、つぐみの行動を言葉にすればするほど、つぐみの生命の光が今ここにあるいたいな強烈さで話のそこここに輝きはじめるのだ。」(p194~195)
吉本ばなな氏も、やはり「『海』の象徴的用法」を好む作家の一人である。
もっとも、神戸の汚い海を海の原イメージとしているであろう遠藤周作氏とは異なり、ばなな氏は、毎年夏休みに家族で過ごしていた伊豆の海を、海の原イメージとして持っている(吉本隆明氏 「バカなことさせる番組はいい」と電波少年出演)。
さて、上に引用したくだりを読むと、つぐみ、あるいは彼女の魂・心が海とシンクロしており、まるでつぐみは海の化身であるかのようだ。
つまり、ここでの「海」は、実在する海とは違う”なにもの”かである。
だが、この分析は少し甘く、読者は、「あとがき」を読んであっけにとられることとなる。
あとがき「夏はいつも、西伊豆に家族と行きます。10年以上、同じ場所,同じ宿に通っているのでそこは私にとって故郷のようなものです。夏はいつも、何ていうことなくそこで、退屈に過ごします。
その何もなさ、いつも海があって、散歩や、泳ぎや、夕暮れをくりかえすだけの日々の感じをどこかにきとんととどめておきたくてこの小説を書きました。これで、私や、私の家族がたとえ記憶を失っても、この本を読めばなつかしく思うことができるでしょう。そして、つぐみは私です。この性格の悪さ、そうとしか思えません。」(p230)
なんと、「つぐみ」は「私」=ばなな氏だったのである。
ここに至り、「つぐみ」=「海」=「吉本ばなな」の”三位一体”が成し遂げられた。
こんな風に、実在する海とは違うけれども、「自我」の拡張の対象となる「海」も存在するわけである。
このことについては、次回説明したいと思う。