明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



永井荷風の養子であった永井永光さんが先月、荷風と同じ享年、同じ部屋で亡くなったという。永井さんには何度かお目にかかった。99年に神奈川近代文学館の荷風展に荷風像を展示し、その直後だったろうか、銀座で長年やっておられたバー『遍喜舘』にうかがい、荷風のエピソードを聞かせていただいた。04年の市川市文化会館の『永井荷風』―荷風が生きた市川―では現在の市川市を背景に、荷風像を撮って歩いた。これは後に『江戸東京たてもの園』や『世田谷文学館』における現在の風景を背景に作家像を撮影・展示につながっていったが、お宅に伺い、荷風が亡くなった部屋で荷風像を撮影させていただいたのは、大きな想い出となっている。最後にお会いしたのは08年世田谷文学館の『永井荷風のシングル・シンプルライフ』の搬入の際だったろう。まだまだお元気なご様子であったが。この時の展示では、現在の風景を背景に撮るどころか、ついにこの展覧会自体を荷風が訪れ眺めている状態を撮影した。これは学芸員の方のアイディアであったが、実に楽しい撮影であった。 永光さんもおっしゃっていたが、荷風は戦後性格が一変してしまったという。その吝嗇ぶりは有名で、全財産を青緑色のバッグに容れて持ち歩いた。市川市文化会館の展示には、荷風と交わった人々もご存命で、数々のエピソードが寄せられていた。市川に引っ越してきた時、世話をした地元の不動産屋は有名な作家ということで、息子を連れて掃除に掛け付けたが、『縁の下の塵も自分の物だ。余計なことはするな』。と追い返している。永光さんには、子供の頃、離れに住んでいた荷風に電話だと伝えに行くと、食べてる最中のカステラを、あわてて股の間に隠した。そういったものを分け与えられたことは一度もなかった、と伺った。しかし最近は、こういった荷風の性格は、戦争による恐怖症によるものではないか、と川本三郎さんの発言により、名誉回復?が成されつつあるようである。  永光さんのおかげで貴重な財産が守られ、我々も眼にすることができた。謹んでご冥福を祈りたい。

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