明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日からT千穂の常連と伊豆に行ってるkさんより『今大盛り上がりです。川に落ちるかも?』というメールが着た。『落ちてもいけど、浮かび上がってこないでね』と返事。 今回出版予定の出版社は、大ヒット中の書籍のおかげでまだ打ち合わせができない。なんとかGW開けには、ということであったが、それもかないそうにない。今月末には編集者も編集作業にようやく戻れる、とのことだがどうであろう。そこまでブームになっているのなら、私の出版のさいには“○○の大ヒットでご存知”と帯に書いてよ、と提案したいくらいである。  主役の生き物は短時間でできたからといって、出来が満足ならそれで良いわけである。今日も頭部のディテールアップに努めていて、かなり気持ち悪い感じになった。これは当初からそうするつもりであったが、そこに10パーセント程の愛敬を盛り込むことが肝腎である。堀辰雄はこの短編小説を“氣味惡くなつて來てしかたがなかつた”と評しているが、基本的にはユーモア小説である。ただ気持ち悪いだけでは不十分であろう。
死んだら魂はどこへ行ってしまうのか?と同じ調子で、頭の中でイメージした物はどこへ行ってしまうの?幼い私はよく一人悩んだ。特に一人で居る時に空想したイメージは、知っているのは私だけである。絶対頭の中にあるのに。と思っていたが、それを頭から取り出して、「やっぱりここにあった。」と確認するのが私の創作行為といえるだろう。今あの頃の、洟をたらして口を半開きでボンヤリ考えている私に会ったら、今にそんなことばかりすることになるぞ、といってやりたい気がする。 ボンヤリと天井のスミを見つめる子供はお化けが見えているのかもしれないが、口を開けっ放しで遠くの空でも見つめていたら、直ちに頭を叩いて我に帰らせるべきであろう。なにしろ、取り出した物が良い物か悪い物かは、また別の話である。つまり取り出すほどの意味がある物かどうか。これは創作を続ける間ずっと付きまとう恐ろしい問題である。おかげで私の場合、多少満足のいく物ができたとしても、はしゃいでいられるのはせいぜい一週間である。

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