明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昼過ぎに父の墓参りに神楽坂へ。親戚の寺なので従兄弟の住職とひさしぶりに話す。この住職、ロシアのクラウン学校に日本人で初めて留学し、今はイリュージョンマジック、和妻(日本の伝統奇術)などこなし、口から火も吹く。 ボランティアで度々、東北の被災地に行っているが、子供の中にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)により、ビックリさせることにも、気をつけないとならなかったという。現地に行ってみると、復興もまだまだ、というのが実感のようだ。 3時に向かいの、日本出版クラブ会館のロビーで旧知のTさんと合う。百十数キロから六十キロ台までダイエットを成功させた人物である。おそらく事前事後の写真を常に携帯し、そのネタで酒場ではモテたに違いない。近々、木造住宅をそのまま生かしたギャラリーをオープンさせるそうである。元同僚の方も合流し、様々なことを話す。ロビーには外光が入らないので、話込んでいたら7時に。 地元へ帰り、店で食事をとっているとKさんから「T千穂にいます」とメール。だからどうした、という話であるが、顔を出すと、昨日のはしゃぎすぎと飲みすぎで青い顔をしている。まるで遠足の翌日の小学生である。しまいには脂汗をかいて冷たいタオルを額にあてて寝ている。脚がブルブル震えている。しかし自業自得。原因もお馴染み。本気で心配する人など誰もいない。
Kさんのトレードマークの額の“へ”の字の傷。フト見たら富士山に見えた。二本のシワは駿河湾という見立てである。これで松林があれば、『三保の松原』銭湯のペンキ絵ではないか。

額の反射が照りつける太陽に見えてくれば、砂漠にそびえ立つピラミッドであろう。陽炎越しにゆらめくラクダさえ見えてくる。

去の雑記
HOME



コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )


一日  


珍しく予定通り搬入の準備が完了し、シャワーを浴びる時間もあった。9時に退職金と年金でヒマを持て余すKさんが、キャリアを持って来てくれる。酒臭い。タクシーでプランタン銀座へ。グループ展参加は昨年に続き二度目であるが、アートギャラリー自体がなくなるので今回が最後となる。 Kさんは私の展示にかこつけ、KのRさんと待ち合わせている。この人は下手をすると、こうやって3、4回来る場合がある。まあせいぜい利用して下さい。しかし待ち人来たらず、ウロチョロしている。その間、私の20代の頃からの作品をいくつもコレクションしていただいているSさんと喫茶店へ。私が人物像を制作するとき、その佇まいを現すために、密かにこだわり続けている部分があるのだが、そのあたりを評価いただいているところが大変嬉しい。物事の見え方に共通点があり納得。 プランタンに戻るとKさん、まだウロチョロしている。こちらは寝不足である。早く帰りたいのだ。そこへRさん。酔って約束したものだからKさんが時間を間違えていた。3人でライオンに向う。 銀座4丁目の交差点。私が幼い頃、日本の中心だと思い込んでいた場所である。渡り終わったところでつまずいてコケル。地面が近いな、と思ったら手で支えもせず倒れた。眼鏡が壊れ、滲む程度だが目尻から出血。一瞬寝ていたらしい。おそらくボクシングなら即レフェリーが止めるような、ピストルで射抜かれたような倒れ方だったであろう。白昼の緊迫感を破ったのはRさんの高らかな笑い声であった。本日のハイライト。 地元へ帰り、以後は極端に少ないボキャブラリーでRさんを口説き続けるK。よく同じことを毎日繰り返すものである。今日は先日口説いた女性が同じカウンターに坐ったから、ちょっと面白かった。

去の雑記
HOME

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私が戒めていることの一つに、発表の予定のないものは作らない、ということがある。今回出品する架空のボクサーは、結局ただ作っただけで、写真作品にはしたが展示は初めてではないだろうか。少々大きく作ったので個展では浮いてしまう。当時ボクサーは、たまに作りたくなるモチーフで、5体は作ったろう。必ず顔を腫らしていて、テーマはすべて“負けと思わなければ負けではない”である。ただ諦めの悪い奴といってはいけない。 それとこれも戒めなければならない悪い癖なのだが、今こんな物を作っているのは、地球上で私だけだろう、と自己満足に酔うことである。一人嬉々としているのはいいが、はたから見れば、人が作らないのは必要がないからだ。ということに気付いていない愚か者に見えるであろう。今回出品するトミー・ジョンソンなどその代表例である。これも以前作った同じジョンソンでも、ロバート・ジョンソンは、ブルースのみならず、ロックにまで影響を及ぼしている巨人だが、こちらの方は、恐ろしくマイナーである。残される写真も不鮮明な物が一点である。代表曲『クールドリンク・オブ・ウォーターブルース』。ギブミー、ガソリン~♪の後のファルセットが味わい深い。酒の飲みすぎで死んだのではなかったか?私も学生時代、近所の車からガソリンが盗まれると、私が夜中に飲んだんだろう、と冗談をいわれたクチであるので、気持ちは少々だが判らないではない。

人形展会期: 5月11日[金]-5月17日[木] 7日間 ※最終日18:30閉場
プランタン銀座 本館6階アートギャラリー

 去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




11日~17日の銀座プランタンの人形展には3体ほど出品する予定である。今回はすべて旧作の黒人のシリーズで、架空の人物を作っていた頃の、かなり旧い作品もある。 この作品の頃は、楽器はともかく、資料写真や実際の人物の観察など避けていた。人体模型を作るわけではないし、本当の事を一度知ったら頭から追い出すことはできないだろう。実際と違っていても、私がそう思ったことには理由があるはずだ、と、いかにも独流の考えに基づいていた。デッサンもろくすっぽやったことがなく、かたくなだった私も、写真撮影をきっかけに実在した人物を手掛けるようになり、人間の部分の詳細を知ってしまう。昔想像したたことの一部は当っていて、知ってしまったらもう出て行かない。よって初期のような作品はもう作れないわけである。 そうこうして実在した人物を作ってもう16年が経ってしまった。今思うと次の段階に行くには、どうしたって本当のことを知る必要があったのであろう。実際はただやってきたらこうなっただけの話である。。そして再び架空の像を作りたくなり、出版社に提案したのが制作中の作品である。どうせなら架空の生き物で行こうと考えた。また変化の予感がしているが、私のことだから、後でこういう理屈があり、なんて顔をするのだろうが、実際は何も考えていないのであった。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




国技館内でMさんに、新作の人に非ずの頭部を披露したところ、普段自宅で見ているのと環境が違うせいであろうか、些細なことに気がついた。それは当初描いていた表情と、ちょっと違うな、ということである。不満があるわけではないし、イメージ通りに完成したと思っていたので、ほんのちょっとしたニュアンスである。そしてその理由が判った。(たぶん)  先日ツイッターで、昔の強豪レスラーが出演した映画の話題になった。昔から特異な容貌や体格を生かし、レスラーは映画に出演してきた。日本でも、例えば黒澤映画の『用心棒』に出てきた大男『羅生門綱五郎』は台湾出身で日本プロレスに所属したレスラーである。私は昔から巨人が好きなので始めて観た時はスクリーンに釘付けであった。東大の標本室に見学に行ったのも、出羽ヶ嶽文治郎の骨格標本を見たいがためであった。こちらは相撲レスラーだが。 それはともかく。話題に上がった映画は『Night and the City』  (50’)である。しかし、ここまでレスラーがどうの、といってきたが、実は関係がなく、『リチャード・ウィドマーク』である。独特の笑い声の、悪役を数多く演じてきた俳優である。日本語の吹き替えでは、なんといっても、ねずみ男(ゲゲゲの鬼太郎)ゴロマキ権藤(明日のジョー)の大塚周夫である。 私はTVでモノクロのハリウッド映画を観られた頃のファンであったが、この映像で久しぶりに観た。そしてどうもウィドマークのニュアンスが知らないうちに入り込んでいたようである。もっとも、他人が見たところで、そうかな、という程度のことであろう。この程度のちょっとしたニュアンスについてああだこうだ、やっているわけである。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




4時前に国技館前でMさん夫妻と待ち合わせ。先日書いたようにMさんには出版予定の本に登場いただく。K本の飲み仲間であるが、なんでも協力してくれる、と余計なことをいったおかげで、ご自身が作中に登場するはめに。そういう意味でいったのでは、と躊躇されていたが、大手ゼネコンを昨年定年されていたのも偶然とはいえないであろう。 先日、ドキュメンタりーという謳い文句で制作された恐怖ビデオを観たが、ちょっと見ただけで、どこかの劇団員がやる素人の演技だと判った。素人はカメラを見るものである。聞き込みのシーンでは、TVの再現ビデオで見るような役者が出てきた。実に甘い。その点、私の今回の作品には、今のところ素人中の素人しか出てこない。 相撲観戦は大鵬が優勝した千秋楽。おそらく昭和37年か9年以来である。しかも後ろも後ろの席で、土俵が小さかったが、今回は土俵から10メートルないくらいの升席である。着いて丁度、白鳳の土俵入りが観られた。実際観ると、TVで観るより土俵が狭く感じる。仕事を抜けた友人も合流。幕内も最初は豆タンクというような似た体つきが多い気がしたが、上位になると身体も違う。ライブの雰囲気で、どちらが勝とうが勝敗は気にならない。最近TV観戦もご無沙汰で、名前も知らない力士が多いせいもあるのだが。 子供の頃は立会いまでの間が耐えられず、それほど熱中することはなかったが、最もファンだったのが前理事長、放駒の大関魁傑である。「休場は負けと同じ」。なかなかいえるセリフではない。そして育てた横綱がガチンコの大乃国。さもありなん。高校から専門学校時代に熱中した。それもしまいには魁傑と誰が対戦するかにしか興味がなくなり、専門学校の陶器科で粘土を練りながらラジオを聴き、出番の頃には泥だらけで抜け出して、近所の蕎麦屋に観に行った。といっても店の外から覗いたのであるが。 弓取り式を観て、タクシーで本拠地のK本へ。そこからT千穂へと移動。 帰宅後、11日からの銀座プランタンの人形展に出品する作品を選ぶ。例によって、どうしても色を塗り替えたくなってしまうのであった。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日からT千穂の常連と伊豆に行ってるkさんより『今大盛り上がりです。川に落ちるかも?』というメールが着た。『落ちてもいけど、浮かび上がってこないでね』と返事。 今回出版予定の出版社は、大ヒット中の書籍のおかげでまだ打ち合わせができない。なんとかGW開けには、ということであったが、それもかないそうにない。今月末には編集者も編集作業にようやく戻れる、とのことだがどうであろう。そこまでブームになっているのなら、私の出版のさいには“○○の大ヒットでご存知”と帯に書いてよ、と提案したいくらいである。  主役の生き物は短時間でできたからといって、出来が満足ならそれで良いわけである。今日も頭部のディテールアップに努めていて、かなり気持ち悪い感じになった。これは当初からそうするつもりであったが、そこに10パーセント程の愛敬を盛り込むことが肝腎である。堀辰雄はこの短編小説を“氣味惡くなつて來てしかたがなかつた”と評しているが、基本的にはユーモア小説である。ただ気持ち悪いだけでは不十分であろう。
死んだら魂はどこへ行ってしまうのか?と同じ調子で、頭の中でイメージした物はどこへ行ってしまうの?幼い私はよく一人悩んだ。特に一人で居る時に空想したイメージは、知っているのは私だけである。絶対頭の中にあるのに。と思っていたが、それを頭から取り出して、「やっぱりここにあった。」と確認するのが私の創作行為といえるだろう。今あの頃の、洟をたらして口を半開きでボンヤリ考えている私に会ったら、今にそんなことばかりすることになるぞ、といってやりたい気がする。 ボンヤリと天井のスミを見つめる子供はお化けが見えているのかもしれないが、口を開けっ放しで遠くの空でも見つめていたら、直ちに頭を叩いて我に帰らせるべきであろう。なにしろ、取り出した物が良い物か悪い物かは、また別の話である。つまり取り出すほどの意味がある物かどうか。これは創作を続ける間ずっと付きまとう恐ろしい問題である。おかげで私の場合、多少満足のいく物ができたとしても、はしゃいでいられるのはせいぜい一週間である。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




永井荷風の養子であった永井永光さんが先月、荷風と同じ享年、同じ部屋で亡くなったという。永井さんには何度かお目にかかった。99年に神奈川近代文学館の荷風展に荷風像を展示し、その直後だったろうか、銀座で長年やっておられたバー『遍喜舘』にうかがい、荷風のエピソードを聞かせていただいた。04年の市川市文化会館の『永井荷風』―荷風が生きた市川―では現在の市川市を背景に、荷風像を撮って歩いた。これは後に『江戸東京たてもの園』や『世田谷文学館』における現在の風景を背景に作家像を撮影・展示につながっていったが、お宅に伺い、荷風が亡くなった部屋で荷風像を撮影させていただいたのは、大きな想い出となっている。最後にお会いしたのは08年世田谷文学館の『永井荷風のシングル・シンプルライフ』の搬入の際だったろう。まだまだお元気なご様子であったが。この時の展示では、現在の風景を背景に撮るどころか、ついにこの展覧会自体を荷風が訪れ眺めている状態を撮影した。これは学芸員の方のアイディアであったが、実に楽しい撮影であった。 永光さんもおっしゃっていたが、荷風は戦後性格が一変してしまったという。その吝嗇ぶりは有名で、全財産を青緑色のバッグに容れて持ち歩いた。市川市文化会館の展示には、荷風と交わった人々もご存命で、数々のエピソードが寄せられていた。市川に引っ越してきた時、世話をした地元の不動産屋は有名な作家ということで、息子を連れて掃除に掛け付けたが、『縁の下の塵も自分の物だ。余計なことはするな』。と追い返している。永光さんには、子供の頃、離れに住んでいた荷風に電話だと伝えに行くと、食べてる最中のカステラを、あわてて股の間に隠した。そういったものを分け与えられたことは一度もなかった、と伺った。しかし最近は、こういった荷風の性格は、戦争による恐怖症によるものではないか、と川本三郎さんの発言により、名誉回復?が成されつつあるようである。  永光さんのおかげで貴重な財産が守られ、我々も眼にすることができた。謹んでご冥福を祈りたい。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日主人公の頭部が数時間で完成したと書いた。細かな仕上げを含めてまる一晩、というところであろう。しかしいくらなんでも、と思い、何種か作って決めようと思っていたのだが、細かいディテールを作ってみると、これで良いのではないか、と思えてきた。短時間でできたとはいえ、これには何日にもわたり、作りたいのを我慢し、空腹状態が頂点に達するのを待って制作した結果である。この焦らし作戦?は、ここぞ、というときに時折行うのだが、集中力は高まるし、空腹のところへかぶりつくように作るわけだから、躊躇することなく、一直線に完成に向うことになる。不満といえば、物心付いて以来、この快感を味わうために作ってきたようなものだから、それを考えると、少々呆気ないところが不満とはいえる。  この頭部には、やはり人毛を植えようと考えているが、それはまた後日。この頭部を基本に撮影用の、異なった表情を何個か作ることになるだろう。後は以前触れたが、水中モーター取り付け用のバージョンも必用だが、こちらは夏までにあればよい。

去の雑記
HOME



コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




ここ数日、ブログを留守していた。キーボードに水をこぼし、近所のヨーカドーに買いにいったが、今は置いていない。面倒な方法で、ツイッターには書き込んだが、あいかわらずKさんは、ここでそのまま書けないようなことばかりだし、まあいいや、と誘われて友人の家でダラダラすごし、本日キーボードを買って帰宅した。 作る作るといって作り惜しみをしていた主役である、人に非ずな物を制作開始したのだが、数時間で頭部が完成してしまった。いくら架空の物で、資料も使わずイメージだけで作れるとはいえ、これでは楽しみにしていたのに拍子抜けである。これはこれとして何体か作ってみることにした。 資料を見ながら実在の人物の制作は、苦手なわりに随分作ってきた。これはそういうことが必用な時期だった、ということであろう。人形制作を開始した頃のように、架空の物を作ると私は実にのびのびとしている。 
この間K本の常連で、今度の作品にも登場いただく予定のMさんから、平日の7日、相撲見物にお誘いいただいた。奥さんと行かれるそうで、有り難いことに母も一緒にどうぞ、といっていただいたが、母の都合が悪い。そこで作中、Mさんの女房役に、と考えているデザイナーのYさんを誘うことにした。スケジュールさえ合えば夫婦同時に撮影したいので、事前に顔を合わせていたほうが良いし、それにMさんの奥さんには、Yさん用の着物をお借りする可能性があるので、奥さんにも会っておいてもらったほうが都合が良い。  それにしても、相撲見物は久しぶり、などという程度の話ではない。昭和30年代、大鵬が優勝した千秋楽以来である。幼稚園児の私も沿道で手を振った。以来もっぱらTV桟敷で観戦である。 ということで、作中鼻の下が長い、と描写される役のMさんだが、鼻の下の長さも少々手心を加えることになるであろう。それはそうである。私だって人間だもの。他の出演者の方も、お付き合いの仕方によってはシミをとったりその他諸々御相談に応じることが可能であります。こういった点において、私はかなり人間味が強い方である。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »