明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



頭部ができたら完成も同然である。ここからは、頭に浮かんだ物を写真作品として描いていけば良い。といっても、すべて顔、その表情が主役であり、それを生かすために制作する。いつもと違うのは、今の所昼間の圓朝は考えておらず、夜の室内の蠟燭、油灯の灯りで、と考えている。もっともそれはそのままでは使わない。6、7センチの頭部に蠟燭の炎はタイマツ並みになってしまう。 工夫のしどころは圓朝の顔にどう光を当てるかである。圓朝は素噺の前は、背景画や鳴物入り道具仕立ての芝居噺で知られていた。自らの顔に下から蠟燭の光を当ててみせたくらいはしただろう。手燭(手持ちの蠟燭台)を持ってもらって下からの光でいわゆる“お化けだぞ〜”をやってみたい。いっそのこと人魂を光源にしても良いだろう。

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河本の客のイメージの象徴ともいえる常連ゲンさん(通称であり本名ではない)の誕生日である。母の誕生日でもあり、Mさんがケーキを買って祝ってくれるそうなので母を連れて行った。母の誕生日を祝うなんて、子供の頃以来である。私はそもそも記念日の類いに対して全くの不感症で、母の誕生日を把握したのは、色々手続きをしなければならなくなったここ1、2年のことである。父に対しては、誕生日どころか命日も覚えていない。しかし無理矢理連れて行かれたフィリピンパブでフィリピーナに「苦労ガ足リナインジャナイ?」と評されてしまう私のちょっと見の若さの原因はその辺りにあろう。新入社員が入ってくる訳でもなく、子供が大きくなる訳でもなく、自覚するきっかけがないまま、ただズンベンダラリと生きている。きっと死の間際で「私死ぬの?聞いてないよ?」と焦った所で後の祭りとなろう。 本日久しぶりに新作三遊亭圓朝の首をポケットに入れ皆さんに披露。ようやくここまで来て、昨日には戻りたくないし、まして作る前に戻りたくない。毎日これを続けていれば、「聞いてなかったけどまあしかたがない。」と思えるのではないだろうか?

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圓朝ぐらいになると、立体像は過去に作られていると思ったのだが、検索しても未だに出て来ない。文学上も言文一致運動の大功労者ではあるが、そこは芸人ゆえ、ということなのであろうか。 圓朝の頭部、さらに完成に近づく。後は細かい部分の仕上げである。とはいっても小さな首。ここから一時間でグッと完成に向かうことあれば、その逆起こる。余裕を持ちたい。 ただ祈るだけの頭部作りも佳境に入って来ると、どんな撮影をしようか考えながらの制作である。とりあえずバストアップ(人魂付き)、次に高座姿は作ることになるだろう。頭部完成後、まずは座布団の上の圓朝を作ることにする。ようやく楽しい領域に達しつつある。

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三遊亭圓朝の頭部、ようやく8合目というところだろうか。昔の人物はそもそも残された写真が少ない。さらに高精彩な画像が見られれば良いが、なかなかそうはいかない。高精細な画像が残されたおかげで夏目漱石の鼻は実は鷲鼻だ、と鬼の首を取ったように私にいわれてしまうのであるが。 普通見ることが出来る写真は、多くはコントラストの高い、中間調がすっぽ抜けたような画像である。その何もない所にどんな形状が隠されているのか、そこを推理するのが難しい。ちょっとでも角度違いの画像と見比べて想像する訳である。これは人間の顔とはどういう物か、がどれだけ頭にはいっているかが重要である。 写真は漱石の鼻のように修正がほどこされている場合が多い。またその写真を複写、あるいは絵画化、またそれをさらに複写-、という過程でこれが同じ人物か?という場合さえある。その間には本人のこう見られたい、写真師のこう撮りたい。または絵師のこう描きたい。その他様々な思惑が差し挟まれている。こういった表面に浮ぶ塵芥をそうっと取り除いて、私なりの人物像を作り上げなければならない。オリンピックを観もしないで。

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鏑木清方は東京市中で流行っていた絹地に墨、藍、代赭(やや明るい茶系)の三色を用い、顔には薄墨で陰影を施した肖像画を嫌い、肖像画に「そっぽを向くようになった」という。それが昭和になって「特殊の人間を出来るだけ内面的に深く究めて、伝記を書く気で画いてゆけば、肖像画もまたやりがいのある仕事となる」と一念発起して描いたのが円朝像だそうである。清方の画集を見て、圓朝と樋口一葉と“明石町”以外はピンと来なかった、というようなことを書いたが、私が清方の圓朝像を残された写真よりも、とああだこうだ書いているのも、清方が一念発起した作となれば当然であった。 “特殊の人間を出来るだけ内面的に深く究めて、伝記を書く気で画いてゆけば” は、私にも多少判る話で、特に“伝記を書く気で”という心持ちは今後パクらせていただきたいようなセリフである。

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午前中、野暮用で時間を取られ疲れる。一眠りしたいところだが、そのままバスで東京駅丸の内口へ。『ジュリア・マーガレットキャメロン展』。オイルプリントの再現のため孤軍奮闘している頃、写真の歴史書など随分読んだが、必ずでてくるのはマーガレットキャメロンである。当時女性の写真家は珍しかったろうが、他とは一線を画すアプローチに魅かれた。 美しいプリント。ピントはほとんど目にあっておらず、独自のイメージに基づいてシャッターを切っている。 “厳しい批評家たちは、真実を写すものと考えられていた写真を想像上の主題を描写するために用いたとしてキャメロンを攻撃した。”とどのつまりはこれだろう。私はこの写真という用語を蛇蝎のごとく嫌い、まことなど写したくないし、画面の中からできるだけ排除したい。とブログでもことあるごとに書いている。 マーガレットキャメロンは自分の美学に固執する一方雑なところもあり、男達がアドバイスするが、どこ吹く風。自分にとって肝心なことが実現していれば良いし、必要のない技術は身につけないように心がけている私には痛快である。私が魅かれる写真家は女性が多い。というより写真に反映される男性的な部分が苦手である。

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三遊亭圓朝の頭部、方向がようやく決まる。私なりにこんな人だろう、ということが決まってきたということで、まだまだである。 圓朝、鏡花、とりあえず夜の室内撮影を前提で考えている。どうしても行灯、燭台、その他灯火器の類いが必要になる。先のことも考えて、行灯4種。燭台3種。うち手持ち用が1種。油を入れて灯を点す陶器製のこれだけあれば対処できるだろう。 それは背景として、某所を撮影するのだが、それとは別に、明治期の高座を再現する予定である。緋毛氈に二本の燭台、今の寄席では見られない火鉢に鉄瓶を配し、完成の暁にはちょっと高い所に置いて、作品をを見ながら三遊亭圓生の圓朝作品でも聴いてみたい。古今亭志ん生では1回それをやってみた。まったくマスターベーションの如きもので、そんなところは人に見せられないが、なかなか楽しくはあった。 残念ながら圓朝の声は残されていない。九代目團十郎もなんだか良く判らない映像は残っているが声はない。ヤフオクでいつか、昔の声色芸人のSPレコードが出品されていて、レパートリーに九代目があった。これは聴きたい、とドキドキしながら飲んでいたら寝てしまった。

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昨今の怪獣は大き過ぎる。地球由来の成分で出来ている気がしない。 怪獣映画の怖さは人が死ぬ所にある。それもビルの倒壊などではない死に方。初代ゴジラには、アナウンサーが中継しながら死んで行くシーンがあったが、これが実に怖い。怪獣映画でも『サンダ対ガイラ』が別格の趣があるのはガイラが人を食うところにある。『大魔神』が怖いのも、悪人とはいえ直接手を下すからであるが、そう思うと程よいのは30メートルくらいの大きさであろうが、現代兵器とのバランスを考えればそうもいかない。よって今時の怪獣映画は、というのを前提で観たが、実は面白く観られた。最後のゴジラの死に方が武蔵坊弁慶じゃあるまいし、というのはあったが。前半の対策中の政府の連中の中に河本でよく見かける役者さんがいて困ったが、これはしかたがない。エンドロールには伊福部昭の名曲が流れる。子供の頃の私には、力道山とゴジラは完璧なフォルムに見えたものである。

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イメージした物を作るためにはどんな手でも使おうと考えている私ではあるが、鏑木清方描く圓朝像を参考にしなければならない、ということは実に癪である。人が創作した物を参考にするなんてことはできればしたくない。本人を目の前にして制作された浅草寺の九代目團十郎像は未だに観に行っていないくらいである。人となりを知るにつけ、写真に撮られた圓朝像は私にはほとんど何も伝わって来ない。ただのそこらの隠居にしか見えないのである。その点清方作品は、デフォルメはしているものの実見記に残されている圓朝像を表しているように思えるのである。 考えてみると私は常に、まことを写す、という意味で付けられた写真という物が、まことなどほとんど写されていないので、イライラし、著作を含め様々な物を読んで、そこに何かニュアンスを加えようとドタバタして来たわけである。昔は感光性が低く、しばらくじっとしていなければならないなど不自由もあったのではあるが。 まだ観に行っていないので憶測でしかないが、女流写真家ジュリア・マーガレットキャメロン。たしか娘にカメラをプレゼントされて写真を始めたような人物だったと思うが、この人は一味違うような気がしている。

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『三遊亭圓朝全集』(別巻)図録・資料集 角川書店(1976)は届いてすぐに包装紙を引き破いて読んだが、残念ながら肝心の圓朝像に関しては得るものはなかった。ただし資料として圓朝を作る人間には必携であろう。(私以外に誰がいる) 九代目團十郎を作った時のように、じわじわと、その偉さが染みてきている。 九代目は五代目尾上菊五郎とともに明治天皇に歌舞伎を披露し、その二年後には圓朝が口演をする。御維新以降、そんな物わかりゃしない田舎役人が演劇演芸、なんでも改良運動である。 明治23年に英国の軽気球乗りスペンサーが来日し興業をおこなう。大変な人出だったらしい。菊五郎はそれを観て舞台化しようと考える。英語のセリフも使いたい。そこで相談するのが伊藤博文。さらに菊五郎が圓朝を演じた。猫背の雰囲気まで出ていたという。 圓朝が猫背なのは正面からしか撮っていない写真では判らない。撮影した写真師もおおかた「師匠背筋伸ばして。」とかいったのであろう。判るのは斜めから描いた鏑木清方の画だけである。清方はその猫背の感じを表現したかったので、この角度を画にしたのは間違いない。伝えられる圓朝の“品格”も写真からは伝わってこない。

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