明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



私がHPを立ち上げたのは2000年であるが、廃れてしまった写真の個展技法『オイルプリント』の作品と技法の公開が目的であった。前年に入手したPC相手に悪戦苦闘。それまでワ一プロ一つ触ったことがなく、HP作成ソフトのマニュアル本を隣の部屋まで全力投球を二回はしただろう。「このヤロ一いい加減にしろ!」本に向かっていう言葉ではない。いい加減にしなくてはならないのは私の方だが、人には当たらないが物にはよく当たるのである。 当時は今とはネットの環境も違い、とにかく画像は軽く、といわれていた。何か更新していかないと誰も見てくれないともいわれ、身辺雑記も始めた。随分続けたものであるが、長い分地が出てしまって人形作家としての神秘性は台無しである。 今から数年前、私事でバタバタし、PCの不調も重なり面倒になりHPの更新を止めてしまった。しかし時代とともに当HPの体裁も実にどんくさい物になってしまった。リニュ一アルとはいかないまでもその間に制作した作品ぐらいは更新したい。最新のソフトを入手したが、似ているようで勝手が違う。本日はまずポ一のペ一ジを作ろうと、エドガ一・アラン・ポ一の文字を書いたところでギブ。バチが当たったということか、マニュアル本を再び入手しないとならないのかも。

タウン誌深川 常連席にて日が暮れる

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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目薬  


午前中眼科へ。結膜炎は左はもう大丈夫だが、利き目の右が今一つ。「じゃスペシャルな薬出そう。見た目怪しいけど。」面白い先生である。目薬は透明な物、と思い込んでいたが薄いコ一ヒ一色の目薬である。 先生は学校医もやっているそうだが、先日も書いたが、小学一年の目の検査で、ただ瞼をクルリとめくっただけなのに、眼球を一回転させられた、と思い込んだ私は、以来目薬が怖くなった。しばらくしてベアリングの球じゃあるまいし一回転はないな、と工具屋の倅は思い至ったが。それでもプ一ルの授業の後の目薬はずっと逃げて回った。 中学生になり谷崎潤一郎にはまり、最高作と未だに思っている『春琴抄』の佐助が盲目の春琴に準じ己の目を潰すくだりは耐えられなかった。さすがに今は目薬も、目尻に垂らす方法でどうということはない。

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『ロボットはその外観や動作において、より人間らしく作られるようになるにつれ親しみを覚えるが、それがあるラインを越えると、親しみやすさのグラフが突然反転し、逆に「恐怖」や「不気味さ」を感じるようになる。これがいわゆる「不気味の谷」と呼ばれる現象』だそうである。私には単に実物そのものに見えるのに、何かが不足していることが人にはなんとなく判り、それが不気味に感じるように思えるのだが。昔活き人形展を観に行ったとき、昔の人形師の技術に驚いたものの、活き人形というよりリアルな死体となってしまっている作品を散見した。つまり何かが足りない。ある人形師が弟子に、この陰毛を男女に分けてみろ、といった、という話がある。神は細部に宿るのかもしれないが、細部にこだわった分、木を見て森を見ず、ということも起きるのではないか。陰毛分けている間に、酒場に出かけ、人間観察でもしていたほうがよっぽど良い。と私は思う。

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富岡八幡の骨董市へ行くが雨が降りそうで出店も少なく特に収穫なし。目黒の市民ギャラリ一『Tokyo8x10EXHBITION』へ。私は大判カメラは感度が低くて引き延ばしができないオイルプリント用ネガを得るために始めたが、デジタルネガの登場で出番がなくなった。人形を撮ってみたが、人間として撮ることを考えるとカメラが大き過ぎるのか、上手く行ったためしがなく止めた。久しぶりにプリントを眺めていると私は随分遠くへ行ってしまい、私がやっているのが果たして写真なのかどうか。まあそんなことは爪の先ほども気にしていないが。 今年歌舞伎に関する催事があるとかで、九代目市川團十郎像出品の打診があった。個展の時には間に合わず、出品できたのは写真作品だけであった。以前なんとなくその催事の話を聞いたとき、歌舞伎役者の色紙、掛け軸など少し持っているので必要なら、と軽口をいった覚えが有る。骨董商のMさんから歌舞伎役者の書を預かった翌日にこんな話が来るとは。最もその展示のために私がそんな物を購入する義理はない。だがしかし、それに“菊”があれば3人揃う。

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午前中、知り合いの骨董商Mさんから連絡があり、近くまで来たから、というので止めてあるライトバンまで行くと、頼んでいた蠟燭立て、蠟燭の芯切り、行灯の油差しのセット。Mさんには今まで作品を納める古い木製の箱をいくつも探してもらっていた。「わざわざすいませんね。」のすいませんの最中にMさんの横にある掛け軸らしき箱が目に入る。私の表情に気付いたMさん。「まあまあまあ、そういわず(何もいってない)とりあえずさ、ウチへ持って帰って見てみてよ。今度ここ通るまで預けとくから。」Mさんの一番やばいパタ一ンである。しょうがないな、と思いつつ帰り、多少ワクワクしながら開けてみると、幕末から明治にかけての某歌舞伎役者の書。箱書きは当時の劇作家。三遊亭圓朝の活躍した時代にドンピシャである。ネットなんて、といっていたが、Mさんこのブログ見たろ?

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またやってしまった。スケッチブックにヒトダマを描くことに熱中し、眼科に行き損ねる。40分前まで覚えていたのに。小学生の時、図書室で始業のチャイムに気付かず、それを繰り返し、図書室出禁になってしまったが、相変わらずである。小学生の時は正確にいうと、チャイムは聴こえていたのに、本が面白すぎて身体が動かなかった、ということだった気もする。 遠藤周作が“やらければならないことがあるのに、他のことをせずにいられない人を怠け者という”というようなことを書いていたが、確かに部屋を片付けなければならない、外出しなくてはならない、そんな時にこそ、制作欲が押さえがたい。これも生まれつきだから私のせいじゃない、といいたいところであるが、人形作家としての神秘性をメチャメチャにする目的で書き続けているかのような、当ブログだからいいようなものの。 明日は『ヒトダマ描くのに熱中し忘れてしまいました。』心の中で謝ろう。そもそも圓朝の着彩も終わっていないのに、何故今ヒトダマを描いているのだ。ようするに怠け者だからであろう。

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一日  


午前中にタクシ一にてショ一トステイのため、母を介護施設へ。よほど楽しいのか母は常に楽しみにしている。中でのできごとをしょっちゅう訊かされるのが少々煩わしいが、私としては大変助かっている。 周囲の人間には、慣れぬ環境に対処できないので、年寄りはなかなかそうはいかない、といわれる。たしかにおかげで外出もままならない友人もいる。根性の悪い息子と同居、というのがコツであろう。 帰りにサイゼリアで一人祝杯を上げ、写真には写っていない何かがないか、さらに圓朝の伝記を読む。お座敷に呼ばれることを含めると千両のかせぎがあったそうだが、出て行く物も多かった。帰りにスケッチブックに筆と墨汁を買う。“砂はかけないけど婆ぁ”のいない間にヒトダマを描こう。

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実に私の悪い癖なのだが、早く仕上げれば良い物を、他のことをやったりして、自分を焦らして快感を増幅させようとする。ジッと閉じこもって時間をかけて何かを作ろうというのだからマゾヒステイックな性分は否定できない。高座上の圓朝、浮ぶヒトダマを見つめる圓朝、寄席の前に立つ圓朝、など、完成後に写真作品としてやりようがあるだけに、そう簡単にごちそうにかぶりつくのも。 牡丹柄の振り袖を持っている人がいる。さっそく武家の娘の帯の結び方を調べる。寄席の前で、牡丹灯籠を持つお露とすれ違う圓朝はどうであろう。いや圓朝と明治期の寄席で充分。お露との共演は別のシチュエ一ションにした方が良いのか。そんなことを考えている間に結膜炎が良くなれば。 怪談映画や怪談噺に使われる布や真綿に焼酎のヒトダマは納得ができない。明日は筆とスケッチブックと墨汁を買ってヒトダマを沢山描こうと思う。なんて馬鹿々しい。こんなことをやらせていただけるのも圓朝師匠のおかげです。

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圓朝は言文一致運動に貢献した近代文学上の重要人物として、もっと評価されるべきではないだろうか。口述筆記により作品を残した、自作の朗読が天才的に上手かった作家。といえなくもない。 晩年、一時的に高座に上がったが、もっぱら新聞連載などが主な活動になる。江戸的なる物を象徴する圓朝は、それ故に明治維新以降、地方から流入する江戸弁も通じないような新東京人に噺家として合わせていくことができなかったようである。 先日、行灯の光でズミクロン開放で撮影した所、ピンぼけ連発。特に利き目の乱視が酷いのだが、たまりかねて先日母を連れて行った眼科にいく。瞼をめくって検査をするが、そういえば小学一年の初めての検査の時、この瞼をくるっ、とする感じが、眼球を一回転させられた、と思い込んで、しばらく目の検査が恐怖だったことを思い出した。結膜炎を起こしていて、目の表面が傷だらけだという。とりあえずそれを治して、ということに。

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圓朝は首に多少の遊びがあり、前後も左右もわずかに振れる。左右などは橋幸夫ほどにも振れないが、この微妙な角度で表情が変わる。動きは最小にとどめたほうが、微妙な腹の中の景色を表せる。と思う。誰が見てもこういう状態だ、と作ると見る場合の解釈、想像の余地を奪うことになる。明日には仕上げを終わり、扇子、湯呑を作りたい。その後、着彩、羽織の紐を作る。色は無難に鏑木清方の圓朝像を参考にしたい。 以前、小津安二郎を作った時、どうみてもお洒落な小津の着衣の色に悩んでいた。絶対、これはしなかった、というようなことが有りそうだったからだ。たまたま近所の文化センターに、当時のプロデューサーと、もう亡くなられた小津の弟の奥さんである小津はまさんが見えたので、小津の首を持って伺い訊いたところ、「グレーの色違いで間違いなし」。とキッパリ。おかげで小津を良く知る人々に、少なくとも着衣の色に関しては後々まで笑われることは避けられたわけである。江戸時代に無かった洲崎遊郭を舞台に小説を書いてしまっては、たとえ名作であっても色は褪せる。 本日もあくび一つ出ず。ここのところの眠さの原因は私の体調もあろうが、大方はウチに居る“砂はかけないけど婆ぁ”のせいであることは間違いないようである。

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夜中にトイレに起きると母が必ず「起きてるの?」と訊く、それに答えてしまうと昼間も寝たり起きたりで睡眠充分の母の話が始まる。昨晩は無視して寝ると、8時頃目が覚めた。久しぶりに睡眠充分。一日あくび一つ出ず。物の怪と母親の呼びかけには、うっかり答えてはならない。 富岡八幡の骨董市に出かける。高座に置く火鉢だが、木製風の角火鉢を作ろうと考えていたが、手持ちの煙管用の煙草盆の中に、陶器の器がある。これは灰皿ではなく、火を起した炭を入れ灰をかぶせておき、これで煙管に詰めた煙草に火を付ける。丁度火鉢を小型にした形でサイズもピッタリであった。ただあまりに治まりが良く、高座で使用する、というには何かが欠けた。そこで印判手の圓朝像に対して手炙りサイズの線香立てのような物を買う。それと『ひょうそく』という油を注いで灯心を浸し火を灯す物を入手。一般庶民には蠟燭は高価であった。オヤジは何だかわからず「ベトナムあたりの物だろう」などといい加減なことをいう。こんなオヤジばかりだと骨董市も有り難い。午後は圓朝像の仕上げ。

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高校生の時に体験した奇妙な話。 学校は違うが近所の幼なじみ4人が試験の前に勉強と称していつも集まった。といっても勉強はそこそこに、タバコを吸ったりウイスキーを舐めたりしながら馬鹿話で朝まで過ごす。集まる家はメンバーの実家の肉屋が、包装用のトレイが入ったボール箱を保管する倉庫としていた木造二階建ての家で、二階に従業員の女性が一人。外階段しかない。一階はトイレに台所、壁を取っ払い、柱だけの二部屋に奥に外階段のために天井が斜めになった3畳ほどの部屋。犬や猫のグラビヤ写真が壁にベタベタ貼ってある。その家は以前、我々も知っている3学年下の男の子の一家が住んでおり、その子は小学生時代に既に亡くなっていたが、その子の部屋であろう。 馬鹿話にも飽きて鬼ごっこでもしよう、ということになった。段ボール箱を奥の3畳間ともう一部屋に3段に積んで、その中に潜り込もう、ということになった。 しばらくして最後の一人という時、ボソボソと声がする。おかげでそいつも見つかってしまう。段ボール箱の間から現れた彼が怪訝な様子で「あれっ?段ボールの向こうに誰かいたろ?」「いるわけないだろ、なにやってんだよ」。そいつは「噓だろ?」と信じない。そこで段ボール箱をどかしてみたら、奥の3畳間から彼のいた段ボールを隔てた所まで、誰かが這いながら移動したようにトンネル状に暗い道ができていた。それを覗きこんだ我々は、いくらか明るくなり始めたなか、一目散にそれぞれの家に逃げ帰った。

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確かに母に朝五時に起こされてはいたが。朝食後母を近所の眼科に連れて行き、白内障手術のため紹介状を書いてもらう。 座布団に座る三遊亭圓朝は、まだ仕上げも着彩もしていないが、燭台、鉄瓶、金屏風が揃った。友人知人に怪談の語り手でもいれば、百物語といわないまでも、一人一つずつ話を持ち寄り、この“怪談セット”を前に、怪談会と洒落たいところであるが。 幼い頃からその手の話は大好きであったが、実際見たり感じたこともないのに信じている、とはいいたくない。そうこうしていたら某画廊で、白い物が尾を引き飛び回っている写真を撮った。何度もアップしているので今回は止めておくが。 高校生の時、奇妙な体験を一度している。実はある機会に、採用はされなかったようだが、『新耳袋』の某氏にその話を披露したことがある。テ一ブルの上にカセットレコ一ダ一が何故か3台。結局使えたのは1台で、封を開けたばかりのカセットから音が。「よくあることなんです。」当たり前のようにいわれた。明日、私の作った圓朝が立ち上がる、などという事件でも起きなければその話を披露してみたい。 本日も飲みながら寝てしまう。ここ2、3ヶ月のことである。昔から最後まで残っているタチだったのでどうも解せない。すべて母のせいにしていたのだが。

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