明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



それにしても、三島の話はいい加減に、と言ってるそばから三島に戻ってしまう。色眼鏡という言葉があるが、室生犀星の時は室生犀星の、そして今は三島由紀夫の色眼鏡をかけて生活しているような状態である、すべてがそれ越しに見えている、といえば判りやすいだろうか。洗濯物を干していても洗濯物と私の間に三島のイメージ挟まってくる。それはあくまでイメージの話しである。 ドラマで北斎が西洋画を見ながら「見たまんま描いていやがる。」私には感心しつつも野暮な連中だ。と聞こえたのだが。そもそも陰影のない作品といえば浮世絵なので、当然北斎はそうしてみた。ここぞとばかりに大蛸に襲われながらも絵筆離さない画狂老人と、赤富士を見上げる北斎を作った。思惑通り何でも可能である。そもそも赤富士は後ろにあるのに見上げているなんて言う設定は、写真や西洋画には不可能な芸当である。普通に陰影のある写真でやったらスーパーのチラシになってしまうだろう。見たまんまといえば写真である。真を写す、という言葉を長らく嫌っておきながら、その先入観を利用してウソ八百やってきたのは実は私であった。その最重要なツールが陰影である。書いていながら、どの口が言うと思うが、陰影ありのパターンで画室の北斎を作ってみたくなった。おせちも良いけどカレーもね。というではないか。


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“すでにここ一年あまり、私は奇体な玩具をあてがわれた子供の悩みを悩んでいた。十三歳であった。その玩具は折あるごとに容積を増し、使いようによっては随分面白い玩具であることをほのめかすのだった。” そして三島由紀夫十三歳のある日、風邪気味で学校を休まされたのをよいことに、父親の外国土産の画集を眺めていた。そこで見たのが『聖セバスチャンの殉教』図でありその絵を見た刹那 “私の血液は奔騰し、私の気管は憤怒の色をたたえた。この張り裂けるばかりになつた私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤ろしくいきづいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教えられぬ動きをはじめた。” “これが私の最初のejaculatioであり、また、最初の不手際な・突発的な「悪習」だった” 『仮面の告白』第二章より 久しぶりにこのくだりを読んで、三島ではなく自分について理解した事がある。 きっかけはどうあれ、何事も三島のように自ら“発見”するのと、知識として学んで習得するのでは大きな違いがあり、とくに創作に関しては”誰にも教えられぬ自発的な動き“により行われるべきである、と私は頑なに思い込んでいるということである。 常日頃、頭で理解出来ずとも、まずは自分の中から湧出る衝動を第一として優先し従い、自ら“発見”する機会を“阻害する、“そのための知識“を得る事を常に恐れ避けて来た理由がここにある事に気付いたのである。知ってしまったら”誰にも教えられぬ動き“による創作は不可能となる。そう思うと、私が展覧会を全く見に行かなくなったのも、出不精をこじらせたと思い込んでいたが、私が自発的に見付ける前に、他人の創作物により知ってしまう事を回避している、と思えば判る気がする。 よりによって私に取って重要な事を三島のこんなシーンで気付かされるとは。ところで全くの余談であるが、早熟の天才三島よりも、この件に関してだけは、私の方が一歳早い。


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5月の個展は、幸いな事?に三島以外に石塚式?ピクトリアリズム作品を出品する。何にするかな、と考えていて、つげ義春の『ゲンセンカン主人』は自分としては色々あった好きな作品だし、別カットも、と考えてみた。舞台になったひなびた温泉でも撮れたら、とも思うが思い付かないし出不精だし、それがたとえ撮れたとしても、私にしては普通だし。乱歩の『屋根裏の散歩者』の屋根裏は、パソコンの入っていた段ボール箱を利用して作った。今でもパソコンの入った箱はあんなに大きいのであろうか。つげ義春作品集を引っ張り出して見たが、これはいくらなんでも難しい。それにまた思いっきり陰影を出したくなるに決まっている。 見たらガロ誌上に発表されたのが68年である。私は中学一年頃かと思っていたが、小学5、6年ではないか。どうりで。 ゲンセンカン主人は、男がどこからか流れてきて温泉宿にたどり着く。宿の女主人は聾唖者である。混浴だと言うので誰もいないであろう時間に風呂場に行くと、女主人が一心不乱に拝んでいる。男は欲情し襲いかかる。女は抵抗するが、言葉の通じない男は手であるサインを示す。すると女は“へやで”と指で書いて出て行く。私の制作したのはその後の部屋で男を待つ女である。今見ると私の作品は“事後”のように寝間着が乱れているのが変だが、まあ構うことは無い。整合性や矛盾などお構いなく、夜の夢を優先。それこそが乱歩チルドレン?である。 ところで言葉が通じないので男は猥雑なハンドサインを女に示した訳だが、小学生の私は、ある日、母に向かって「これってなあに?」そのサインを母の眼前に突き出していた。小学生が、こんな漫画を読んでいるとは母は思いもしないだろう、という子供なりの油断もあったろう。母は平静を装い「女の人の身体」だと言った。私としてはこれの何処が女の人なんだ、とは思ったが、どうも漫画の雰囲気上、これ以上踏み込むのは危険だと判断し、母も何でそんな事を?とは踏み込んで来なかった。つまりお互い踏み込んでも良いことはない。何事もなかった事にしようという微妙な空気が流れた小学生と母親の昼下がりの出来事であった。

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私が切腹と言うと一番印象に残っているのは、小学生の時に映画館で観た『日本のいちばん長い日』で阿南惟幾を演じた三船敏郎である。酒を酌み交わし、介錯を断り割腹の後、頸動脈を自ら搔き切って絶命する。これが長回しで子供の私には余りにリアルでショッキングであった。 詳しい事は書けないが、死に装束の武士姿の○島が両手で短刀を握り頸動脈を刺している写真が存在する。腹の部分はおそらくウエストレベルのカメラのファインダーを覗く、アフロヘアーの男の後ろ姿で見えないが、すでに割腹した直後の動作であろう。まさに『仮名手本忠臣蔵』四段目判官切腹の場そのもので、おそらく男のイメージしていたのもそれではないか。 赤穂浪士の時代は、切腹はあったろうが、形だけで、三方の刀を取ろうとした時点で介錯する場合も多かったと聞く。公開の場ならともかく、そうでなければ浪士のへの同情から、苦痛は少なくしてやりたいと言う介錯人もいただろう。逆に割腹し、苦しんでいるところをわざと間を置くような介錯人も中にはいたらしい。 三島事件を三島と森田必勝の心中と見なす向きもあるが、私は違うと思う。介錯は森田に、と三島が希望したかもしれないが、森田には介錯だけで、死なずに生き続けて貰いたかったのではないか、と私は思う。実際寸前まで説得している。しかし森田は応じず。次に自らも割腹する森田は無理もないが、手元が狂い酷い事になった。本来なら、残る二人のいずれかに介錯を任せるのが合理的であろう。 死ぬのは俺一人で良い。“俺を太宰なんかと一緒にするな!”三島は声を大にして言いたいだろう。


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わざわざ狭いスペースに本棚を置き、文机、さらに火鉢でスペースを埋め、狭い所で挟まって作業をしよう、と試みる。引っ越し前、どういう理由だか、様々な物に追い詰められ極狭いスペースで作業していると、存外居心地が良い。岩礁の底魚の心持ちと言って良いだろう。 乱歩のように、わざわざ押し入れに閉じ籠もり、ふと見上げた天井板を押し上げ覗いてみたり、椅子の中に入ってみようなんて大人の考える事ではない。あげくは現世は夢で夜の夢がホントだ、などと。還暦過ぎてしまえば、着ける薬などもはやない。現世でも、人を轢き殺しておきながら、高齢だから、なんて刑務所行かずに済む悪党もいるから、歳は取っておくべきかもしれない。それでも今から更生しろ、と口うるさく言われたりするから、今日も電気掃除機を拒否して入手した箒とブリキ製ちり取りで掃いてみた。 部屋の掃除と言うものは、しでかした過去を振り返るような面白味のない行為である。よって昔、六部屋ある一軒家に住んだ私は、過去を一切振り返ることなく、前だけを見て、順番に部屋を移動したものである。しかし今の住まいでそれをやるわけには行かない。 箒で掃くたび思い出すが、子供の頃寝転がって本を読む私は、掃除の邪魔だと母に叱られ、本から目を離さないまま横に転がって移動し、さらに激怒された、そりゃ粗大ゴミが転がって移動すれは頭に来るだろう、と思う。






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江東区の芭蕉記念館では、年始からプラケースに入った小さな2020年カレンダーを配っている。私の芭蕉像も小川芋銭や英一蝶に混ざり。おかげ様でカラーは目立つ。来館者は年配者が多いだろうに文字が小さいけれど、数は少ないようだからいつまであるかは判らない。 新年早々、三島由紀夫の文学についてならまだしも、『男の死』ばかりで、本日もハラキリについて書こうと思ったが辞めておく。ただでさえ制作のことばかりで面白くない、と近所の連中によく言われた。 そういえば、ホームページを立ち上げたのが2000年であるから今年で20年ではないか。今気付いた。相変わらずである。どうせなら元旦に気付け、という話である。最近は何もかも後手後手で今年に入って寝しなに2度も胃液が逆流して咳き込む始末である。老化が加速しているのだろう。 リンクが切れているが何処かには在るだろう。ブログ以前の身辺雑記から考えるとよく与太話を書き続けたものである。雑記の頃は短文で、サボっていることがバレないよう日付は書かず某日と書いていた。最近はほとんど毎日書いているが、文章が無駄に長くなったのも老化現象のウチであることは間違いないだろう。考えを整理するため、備忘録、制作ノートとして書いているが、いずれ馬鹿な事ばかり考えていたな、と笑えるだろう。今すぐでも笑えるけど。 三島を作り始めた頃の雑記を探し出してみたい。最初から男の死しかモチーフは浮かばなかったが、資料としてヤフオクで入手した芸術新潮で、篠山紀信撮影で男の死の存在を知った日のブログなんて読んでみたい。驚いているのか負け惜しみしているのか。ちょうどその頃、おそらく父が亡くなったり、小学校2、3年の時、成田君という気の合う同級生と、校庭の隅にあった、滑る所がない、壊れた滑り台でピストルで撃たれ、滑り台にすがり、ぶら下がり落ちて死ぬ“忍法死んだマネ”というのを飽きずに繰り返した事が書いてあり、後で三島の『男の死』も忍法ではないものの、死んだマネじやないか、と笑った覚えがある。いずれポックリ行けず、身体が不自由にでもなったら、初めから読み直して呆れてやろうと思っている。20年も続けていると、物心ついてからの事はおおよそ書いてしまっている。これでも都合の悪い事は書いていないつもりでいるけれども。という訳で、身辺雑記20年目突入に気が付いた本日である。





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昨年より、三島が台本を書いた『椿説弓張月』の武藤太に聖セバスチャンを見付けた、とはしゃいでいた私であったが、上演が死の前年、昭和44年だと知ったのは、実は昨日ブログを書いている時であった。例によって年月日に疎い私である。となると、三島が未完の英雄と呼んだ源為朝に翌年死ぬ自身をなぞらえていたであろう事は想像に難くない、三島をむしろ為朝にすべきではないか?と考えないではないが、本来私がいの一番に手掛けるはずの聖セバスチャンの殉教を三島本人にやられてしまっていた、という私から創作の快楽を奪った三島への恨み?が晴らせない。では両方やれば良いかというと、江戸川乱歩に明智小五郎と怪人二十面相の二役をやって貰うようなもので、あまり様子が良くない。それはともかく、そんな事より。 『椿説弓張月』が死の前年であった事を知り、一年後の市ヶ谷の“バルコニーの場”で「もはやこれまで。」踵を返して割腹。悲劇的な死の演出のために自衛隊員の轟々たる野次も、三島の計算であったことを改めて確信した。そう思って起筆日が11月25日の『仮面の告白』を読むと、この主人公は、この後、あらゆるものを利用し、自分の絵図通りに死ぬために着々と準備を進めながら生きたのだな、と戦慄する。 腹を切ることはなんとかなるとしよう。介錯はいくら親友でも頼めない。頼めたとしても、そのための心得、練習をした友など何処にいる。しかも三島が愛したバチカンの“アンテイノウス像”を想わせる、かつ“理智に犯されぬ肉の所有者”がベストである。となれば、三島以外の方法があるだろうか? 老人となった現在はともかく、当時盾の会自体が、理智に犯されぬ肉の所有者の集団であった。鈴木邦男さんにお会いした際、盾の会について、ある質問をした。その答えが「連中は本なんか読みませんから。」であった。


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三島由紀夫、初の書き下ろし小説『仮面の告白』。起筆日の11月25日に後に自決する事になる。作中“そこで私はいつになっても、理智に犯されぬ肉の所有者、つまり、与太者・水夫・兵士・漁夫などを、彼らと言葉を交はさないやうに要心しながら、熱烈な冷淡さで、遠くはなれてしげしげと見てゐる他はなかつた。”これらのまさに三島好みの人物に自ら扮し、死の場面を演じて篠山紀信に撮らせたのが、幻の写真集『男の死』だが、それは三島本人がやるから良いので、私が面白いから、と言って、勝手な場面を創作してはならない。 何年も前からザンバラ髪の侍が捕的に追い詰められ、と言う場面を考えていたが、該当するエピソードが思い付かない。神風連の乱というのも有りかと思ったが、西洋文明を否定した武士達が、あえて刀や槍で抵抗し、鉄砲に全滅させられる所が良い訳で、今一つである。そこに『椿説弓張月』の中に主君を裏切り仇を討たれる武藤太に、三島本人にやられてしまった『聖セバスチャンの殉教』図を見つけた。イメージしていた侍モチーフでもあり“一挙両得”という訳である。三島歌舞伎の演出の責め場は三島趣味炸裂であり、公演プログラムに書かれた〝私には堕落と悪への嗜欲も潜み、その夢は、雪のふりしきる中に美女達の手で虐殺される武藤太に化身してゑる〟という一文を見つけた。まさにビンゴ!の思いである。世間に呆れられながらも映画や新劇の舞台に出演した三島も、歌舞伎の舞台には立てなかった。武藤太のその場面には身体を鍛えた代役をたてた。お望み通り、汚穢屋の青年に扮して差し上げたように、思い切り歌舞伎メイクで、存分に断末魔の苦しみを味わって貰いたい。三島は役者達の理解力の無さに不満を持っていたようであるが、死の一年前の上演という意味でも悲劇の英雄、源為朝に三島が託した物は何だったのか。改めて重要である、との思いを強く持った。 そして以前も書いたが、三島に面会し、石塚版『椿説男の死』を見せ「君は随分暇な人なんだねガハハハ。」お忙しい三島先生の時間を拝借し過ぎてはいけない。早々においとまし、と見せかけ、庭の木か、石像によじ登って様子を伺っていると、脇に片付けた、と思われた私の『椿説男の死』満更でない顔して眺める三島を夢想するのである。


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何かを変える時、例えば、ジャズ、ブルースシリーズから作家シリーズに転向した時には、未練なく、ジャズ、ブルースシリーズは辞めた。であるから、陰影を消す、となると以降は、全てその手法で行くつもりであったが、早々に壁に突き当たった。 つげ義春トリビュート展に出品が決まった時、モチーフはすぐに『ゲンセンカン主人』に決めた。ガロ誌上で読み 、その土俗的エロスに強烈な印象を受けた。中学一年頃であったろう。あんな世界を初めて知った。ところがである。例によって本物の女性を被写体としたが、暗い部屋で半裸の女性に行灯の光による陰影を与える誘惑抗し難く、遠慮がちであったものの、陰影を留めた。さらに浮世絵的遠近法まで取り入れようと試みたが失敗。迷走し、会期中に2回も出品作を差し替える失態を演じた。絵画的といっても成分は、カメラを使用した写真である。写真とはこのように写る物である、と言う先入観があるせいであろう。よほど歪ませない限り、意図通りの遠近感には見えない事が判った。今後の課題ではあるが、使い方は限られるであろう。“画材”により、やれることとやれないこと、もしくは向き不向きがあるということであろう。 という訳で、消すなら消す、消さないなら消さない、白黒はっきりさせて行きたいのは山々ではあったが、陰影の有無は作品によって使い分けて行くことにした。 それにしても、自分が汗して作り出した人形の陰影は消せても、女体が描く陰影は頭を掻きむしり、悩みながらも惜しくて消せない、という、なんともしょうがねェなあ、という気分ではあった。







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常に行き当たりばったり、思い付くままに制作して来たおかげで予定外の場所に着地するのが常である。それは表層の脳より、気の利いたもう一人が腹の辺りにいて、それに任せた方が結果は良いことを知っているからである。ところが何故こんな事をやっているのか、なんだか判らないがやらずにいられない、では馬鹿みたいなので、考えて計画的に取り組んでいるように見られたい、という見栄をつい張ってしまう。そして、その理由を後から考えるため、ブログでああだこうだ、とブツクサと書き連ねてしまうのである。その迷走の様を書いてしまえば私の演技プランは台無しであるが、読者数を見る限り、白状している、という実感は涌かない。そして個展会場では、何で私はこんな事をしているんだろう?などという期間は一時間も無かったような事にして、全て計画通り事を進めた結果がこれであります。という顔をしているのである。

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新年  


5月の個展では三島没後50年という事ではあるが、三島が死んでいるところばかりではなく、数年前から始めた陰影無しの日本画調ピクトリアリズムを、もう少し押し進めてみたい。知り合いのカメラマンには、そんな絵のような作品を作りたいなら、だったら絵で描けば良いではないか、といつも言われるが、それは具象画家に、絵なんか描いていないで、写真で撮れば良いではないか、と言うようなもので話しにならない。 私が写真に取り入れたかったのは、陰影がないことによる、西洋画に無くて日本画にある自由さである。西洋画を写真に置き換えても良い。一つの画面に時間経過まで入れてしまったり、自由にやりたい放題に私には見えた。せっかく被写体まで自分で作っている。もう一超えできないか。日本人が陰影を描かなかった理由は諸説あり、決定版と言える説を私はまだ聞いた事がないが、一神教と多神教の違いは関係無いのだろうか。光(光源)が一つと決められた西洋画の世界は窮屈で不自由である。その点、日本には便所にさえ神様が居る。 また絵なら何でも描けるかというと、すでに亡くなった人を絵で描く場合、どうしても残された写真を写す事になり、そのポートレートから、角度を一度程度でも上下左右に振って描くのは至難の業であろう。その点立体は、コーチの教えを律儀に守るボクサーのように、決して顎を上げようとしない宮沢賢治を下から撮ることもできる。よってせっかくなので既存の写真とかぶらない角度で撮ることにしている。例外と言えば、写真の鼻の修正を疑った夏目漱石の時は、デスマスクでかぎ鼻を確認するまでは、危険を回避し、正面から撮ったけれど。



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あけましておめでとうございます。

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