それにしても、三島の話はいい加減に、と言ってるそばから三島に戻ってしまう。色眼鏡という言葉があるが、室生犀星の時は室生犀星の、そして今は三島由紀夫の色眼鏡をかけて生活しているような状態である、すべてがそれ越しに見えている、といえば判りやすいだろうか。洗濯物を干していても洗濯物と私の間に三島のイメージ挟まってくる。それはあくまでイメージの話しである。 ドラマで北斎が西洋画を見ながら「見たまんま描いていやがる。」私には感心しつつも野暮な連中だ。と聞こえたのだが。そもそも陰影のない作品といえば浮世絵なので、当然北斎はそうしてみた。ここぞとばかりに大蛸に襲われながらも絵筆離さない画狂老人と、赤富士を見上げる北斎を作った。思惑通り何でも可能である。そもそも赤富士は後ろにあるのに見上げているなんて言う設定は、写真や西洋画には不可能な芸当である。普通に陰影のある写真でやったらスーパーのチラシになってしまうだろう。見たまんまといえば写真である。真を写す、という言葉を長らく嫌っておきながら、その先入観を利用してウソ八百やってきたのは実は私であった。その最重要なツールが陰影である。書いていながら、どの口が言うと思うが、陰影ありのパターンで画室の北斎を作ってみたくなった。おせちも良いけどカレーもね。というではないか。