菅直人の発言に見る自己省察精神に則った検証意識欠如

2012-02-20 09:46:28 | Weblog

 菅前首相にあっては相変わらず自分の原発事故対応は間違っていなかったとする自己正当化の文脈での発言が続いている。

 正当化できない事柄を自己正当化することによって責任回避を図ることができる。

 実際の災害発生事態に即応してリアルタイムで危機管理対応していくことと未発生だが、可能性として想定し得る危険事態に備えて最善とし得る危機管理を構築することと同じ危機管理であっても、似て非なるものである。

 前者は既に起きていることに対する危機管理であり、後者は未だ起きていないことに対する危機管理である。

 このことは誰でも承知していることであろう。

 一例を上げると、東日本大震災の津波による福島原発事故発災以降の政府と東電の事故対応・危機管理は実際の発生事態に即応したリアルタイムの危機管理対応に当たるが、菅前首相が首相として福島原発事故対応に当っていた当時、今後30年間87%の東海地震発生確率論に立って中電の浜岡原発停止要請を行い、中電は首相の言葉は重いとして要請に従い、全原子炉を停止したが、これはあくまでも可能性として想定した危険事態に対する後者の危機管理に当たる。

 だが、菅前総理は両者を混同させて自身の首相としての福島原発事故対応を相変わらず正当化しようとしている。

 その執拗さは実際には事故対応を満足に機能させることができなかった裏返し意識てあるものだろう。

 一国のリーダーを務め、福島原発事故という危機管理に対応した人間の認識能力とは思えない。

 《【放射能漏れ】菅前首相「事故の拡大原因は、ほとんど震災前にあった」》MSN産経/2012.2.18 20:47)

 2月18日(2012年)の栃木県佐野市内の会合。

 菅前首相「事故が大きくなったほとんどの原因は、東日本大震災が発生した昨年3月11日の前にあった。

 (全電源喪失の想定をしていなかった経緯に触れて)担当部局は『反対運動が起きるから考えないでおこう』と準備しなかった。

 4号機の使用済み核燃料がメルトダウンを起こせば、栃木も東京も避難しなければならなかった
 
 確かに全電源喪失を想定していなかった1990年原子力安全委員会決定の「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」に欠陥があったことは国の責任に関わる重大事項だが、3月11日事故発生以降の国の原発事故に対する危機管理対応も、果たして十分に機能していたかどうかが問題となっているのであり、3月11日以前と以降を分けて検証しなければならないにも関わらず、事故拡大の殆どの原因は昨年3月11日以前のこととして、3月11日以降の危機管理を問題外としている。

 ここにあるのは自己正当化のために責任回避を策す狡猾さ以外の何ものでもないだろう。

 「4号機の使用済み核燃料がメルトダウンを起こせば、栃木も東京も避難しなければならなかった」と言っていることも自己正当化のための責任回避の文脈で語られている。

 この発言はブログに既に書いているが、菅前首相が近藤原子力委員会委員長に指示、作成させた、いわゆる「原発事故最悪シナリオ」の内容に基づいた発言で、あくまでも今後の可能性として想定し得る最悪の危険事態として取り上げた「4号機の使用済み核燃料」のメルトダウンであって、「栃木も東京も避難」にしても4号機使用済み核燃料メルトダウンと同列にある想定上の可能性に過ぎない。

 その可能性たるや、これも既にブログに書いているが、2月7日(2012年)の参院予算委で細野原発事故担当相が住民避難に関して、「最悪のことを想定しても当面の20キロというところに関しては妥当だという、そういう結果を出したことに関しては、若干ホッとしました」と答弁していることからも分かるように政府の避難指示に関しては様々に問題点があったとしても、「当面の20キロ」という範囲指定に関しては妥当としているのである。

 いわば「原発事故最悪シナリオ」を以てしても「当面の20キロ」という避難指示は妥当だとしていた。

 それをさも4号機使用済み核燃料メルトダウンが確率の高い危険事態であったかのように言い、避難範囲に「栃木も東京も」加えて、実際の推移と対比させたケタ違いの危険性を描こうとしている。

 その意図たるや、可能性として想定し得るケタ違いの危険事態を持ち出して、逆に可能想定事態と比較にならない実際の推移で済んだことを以って自身の危機管理に正当性を与えようする情報コントロールにあるはずだ。

 このことは実際の発生事態に即応してリアルタイムで行う危機管理対応と今後可能性として想定し得る危険事態に最善の方法で備える危機管理とを混同させることによって可能となる。

 両者を厳密に別々のものとして扱っていたなら、細野が国会答弁で「原発事故最悪シナリオ」を以てしても妥当だとした「当面の20キロ」を超えて、そのシナリオを無視して「栃木も東京も」と勝手に避難範囲を想定することは許されなかったはずだ。

 いわば「栃木も東京も」は備えとして想定していても、「4号機の使用済み核燃料がメルトダウンを起こせば」といった想定上の仮定を持ち出して、「栃木も東京も」が現実にあり得たかのように言うのは誤魔化しに過ぎないということである。

 もし菅前首相に自身の原発事故対応と震災対応は正しかったのだろうかと自らに問う自己省察精神に則った検証意識があったなら、可能性としての危険事態と現実に起きている危機事態を混同させて責任回避からの自己正当化を図るようなことはしなかったに違いない。

 自己省察精神に則った検証意識の欠如は次の発言にも見ることができる。《橋下市長との連携模索は「人気頼り」菅前首相が疑問視》MSN産経/2012.2.18 21:51)

 上記記事と同じ2月18日(2012年)の栃木県佐野市内の会合での発言。橋下徹大阪市長らとの連携を模索する既成政党に疑問を呈したものだという。

 菅前首相「(政界は)人気のある人にぶら下がろうとする動きが激しい。人気頼りで、新しい原子力行政や社会保障と税の問題などに取り組めるのか」

 だがである。2009年総選挙大勝の「人気頼り」でマニフェストに掲げた子ども手当だ、高速道路無料化だとか新しい政策に取り組んだものの、財源問題でつまずき、2010年参院選では管の愚かさから頼みの「人気」を失い、大敗して数を失ってねじれ現象を招き、政治そのものを停滞させてしまっている。

 自分たちも演じてきた「人気頼り」であり、その「人気」を政策に取り組む力とすることができないままに無力化してしまった。

 人のことは言えないはずだが、言えないはずの人のことを言う。自己省察精神に則った検証意識がないからこそであり、そもそもの認識能力にどこか狂いがあるからだろう。

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