「A級戦犯は戦争犯罪人ではない」の野田首相、沖縄を何も理解していない訪問の矛盾

2012-02-27 10:46:53 | Weblog

 野田首相が昨2月26日(2012年)、就任後初めて沖縄県を訪問。糸満市の国立沖縄戦没者墓苑、ひめゆりの塔を訪れ、犠牲者を追悼。そして豊見城市にある旧日本海軍司令部の壕を視察、大田實司令官らが祭られている慰霊の塔に祈りを捧げたという。

 各WEB記事から発言を拾ってみる。

 野田首相「きょう訪問した場所は、沖縄の歴史をたどるという目的で選んだ。先人たちの沖縄に対する思いを引き継ぐという思いで訪れ、改めて戦争の悲惨さと平和の尊さをかみしめた

 国立沖縄戦没者墓苑、ひめゆりの塔、旧日本海軍司令部の壕、大田實司令官らが祭られている慰霊の塔訪問は、「先人たちの沖縄に対する思いを引き継ぐという思いで訪れ」た。

 だが、現在の沖縄県民の戦前から戦後の今に至る「沖縄に対する思いを引き継」いでいるかというと、引き継いではいないはずだ。

 現在の沖縄県民の「沖縄に対する思いを引き継」いでいないなら、「先人たちの沖縄に対する思いを引き継」いでいたとしても意味はない。

 過去から現在、さらに将来に亘る引き継ぎの連続性があって初めて、「引き継ぐ」は真正な思いと言える。普天間の辺野古移設を実現させるためのリップサービスといったところなのだろう。

 野田首相(27日の仲井真知事との会談について)「これまでの経緯を踏まえて、まずはおわびをし、そのうえで、抑止力を維持しながら、基地負担の軽減を早期に図るという説明をしたい。また、普天間基地の危険性を除去しなければならないなかで、名護市辺野古についても言及させてもらうなど、包括的な政府としての取り組みを説明し、理解を得る努力をしたい」

 現在の沖縄県民の「思い」を裏切る辺野古移設意志表明の発言となっている

 大田實司令官らが祭られている慰霊の塔訪問の理由は次の記事に書いてある。《首相が初の沖縄訪問 反対押し切り自ら決断 「お詫び」作戦で事態打開?》MSN産経/2012.2.26 22:38)

 大田実海軍少将(死後に中将)は沖縄特別根拠地隊司令官の肩書きで紹介している。

 野田首相「大田司令官は敵が迫る中で沖縄の苦しみを伝え『後世に特別の御高配を』とメッセージを残した。沖縄返還運動に尽力した末次一郎先生の沖縄への思いも引き継いでいきたい」

 「沖縄返還運動に尽力した末次一郎先生の沖縄への思いも引き継いでいきたい」と言うなら、戦争と沖縄返還後も米軍基地に苦しめられてきた沖縄から普天間を国外・県外移設に「尽力」してもよさそうだが、真逆の方向に動いている。

 記事は大田司令官のメッセージの内容を伝えている。自決1週間前の昭和20年6月6日、大本営海軍次官宛てに送った電文だそうだ。

 「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」

 この思いも受け継ぐということなのだろうが、普天間の県内辺野古移設が「後世特別の御高配」に合致するとでも思っているのだろうか。
 
 この程度の「先人たちの沖縄に対する思いを引き継ぐ」としかなっていない。

 沖縄戦(1945年3月26日~1945年6月20日)を振り返ってみる。

 「Wikipedia」によると、米国軍兵士は54万8000人に対して日本軍兵士は5分の1弱の11万6400人。

 圧倒的な兵力の差と全体的な戦況の当然の帰趨なのだろう、米軍戦死者・行方不明者1万2520人に対して日本軍戦死者・行方不明者9万4136人(沖縄県出身軍人・軍属を含む)、沖縄住民死者9万4000人の軍民ほぼ拮抗した合計19万人近く。

 そして集団自決死者数は、〈研究者の中には計1000人以上との見方もあり、これは沖縄戦における住民死者94000人の1%強にあたる。〉(Wikipedia)と書いている。

 日本軍は既に制空権も制海権も失い、敗色濃厚な戦況下にあった。米軍側から言うと、兵器輸送にしても物資輸送にしても少しぐらいの犠牲はあっても、思いのままにできた。それが日本軍兵士11万6400人に対して54万8000人の米国軍派遣兵士数に象徴的に現れた。

 54万8000人の上陸を阻止する軍事力を既に失っていたのである。

 このことはまた戦死者・行方不明者の双方の差となって現れた。

 大体が当時の日本は石油を80%近くも米国からの輸入に頼っていた。国力の差は如何ともし難いものがあり、米軍の日本本土上陸一歩手前の沖縄戦を前にして戦線の縮小を重ね、消耗を強いられてきた日本軍からしたら、依然として存在する圧倒的な物量の差は勝敗の帰趨を最初から目に見える形で示していたはずである。

 さらに集団自決というものが軍がその場の戦闘で例え敗れたとしても、一旦退却して態勢を立て直すといった余裕がもはやない、あるいは援軍が来て戦局を盛り返す機会がもはや考えられない孤立無援の後がない戦況を前にして発生するものであることからしても、沖縄戦のみならず、国家の命運が逃げ場のない場所に追い詰められていく状況にあったのであって、例え兵士であっても沖縄戦全体を通して、「かく戦えり」といった勇ましさは心理的にも実際の戦闘の場面でも終始一貫、貫くことはできなかったはずである。

 ましてや沖縄県民からしたら、例え「お国のために」、「天皇陛下のために」と思ったとしても、「かく戦えり」といった充実感を貫くことなどができただろうか。

 このことは現在でも引き継いでいる沖縄戦に対する多くの沖縄県民の感情が証明している。

 だが、大田司令官は――「沖縄県民かく戦えり」とすることで沖縄戦自体を優れた戦闘だったとすることができる。

 まさか従の立場にある沖縄県民は立派に戦ったが、主たる立場にある日本軍兵士は立派に戦えなかったとしたなら、主従逆転の矛盾が生じる。従たる沖縄県民が立派に戦ったということは主たる兵士はそれ以上に立派に戦ったことを予定調和とする。

 いわば大田司令官は「沖縄県民かく戦えり」とすることで、そこに兵士の活躍も含めることができて、そのように仕向けた沖縄特別根拠地隊司令官としての自身の評価を例え敗れたとして高めることができる。潔く自決した元も評価を高めたに違いない。

 要するに大日本帝国軍隊所属幹部将校の視点に立った評価だということである。

 決して沖縄県民の思いとしてあった「かく戦えり」ではなかったはずだ。
 
 そして沖縄県を訪問した野田首相が大田實司令官を祀ってある「慰霊の塔」を訪れて祈りを捧げ、この電文を取り上げたということは野田首相自身が過去から現在に至る沖縄に対する理解もなく、大日本帝国軍隊と同じ視点に立って沖縄を見ていたことを物語っているはずだ。

 記事は書いている。〈大田少将が千葉県出身ということもあり、首相はこの電文への思い入れが強い。故小渕恵三元首相も電文を胸に沖縄サミットを決め、県民の心をつかんだ。これに「あやかりたい」と考えているフシもある。〉

 果たしてこの電文がかつて沖縄県民の心を掴んだのだろうか。

 そもそもからして戦争はA級戦犯とその一党が主役を演じて仕掛け、日本を無残な敗戦に追い込み、多くの犠牲者を出した。

 だが、野田首相は「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破たんしている」という思想の持ち主であり、戦争仕掛け人A級戦犯を擁護し、彼らの味方となっている。

 このことからも、沖縄の「思い」は何も理解していないことが証明できる。

 当然、A級戦犯を戦争犯罪人ではないとしている野田首相が彼らが仕掛けた戦争で悲惨な苦痛や残酷な運命を見舞われることとなった沖縄を訪問して、「先人たちの沖縄に対する思いを引き継ぐ」と言うこと自体、既に矛盾していることと言える。

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